「努力を重ねればいつか必ず成功する」
 そう信じてきた。

 「信じるものは救われる」
 そのはずだった。
 
 しかし、いつか、という何の保障も無い約束を、信じてしまった世間知らずは、どのような代償を支払うのだろうか。
 十五歳を半年越えたばかりの少年、アルタイル・イーゴリの場合、それはどうやら命のようだった。

「うわっ……うわッ、うわっ、うわ…………!」

 生まれて初めて体験する圧倒的な恐怖を前に、助けを求めるどころか、悲鳴を上げることもままならない。走って逃げるどころか、立てもしないのに、口だけは執拗に酸素を求める。
 
 少年の眼前に、少年の倍の背丈はあろうかという巨大な黒い狼が、牙を剥いていた。
 真っ黒の毛並みに、金色の目を光らせ、その体を、アルタイルに向かってまさに飛びかからんとたわめている。

 『ルディ』と呼ばれる獣だった。畑や家畜や町や、人を襲う凶悪な害獣だ。

 ルディは、五十年ほど前から、突然、巨大な湖を囲んでいるこの国に出現し始めた。どこからくるのか、なぜ来るのか、なぜ人を襲うのか、すべてが謎とされている。
 そして、今、少年アルタイル・イーゴリが対峙しているルディも、まさに彼を襲わんとしていた。獣は、自らの住処であるこの洞窟に侵入し、主である自分に刃を向けた小さな人間を容赦する気はないようだ。

 通常、ルディ退治は、剣と魔法で行われる。
 本来ならば、剣は、とっくに滅びた武器だった。刃を鍛える技術として保存されてはいたが、生き物を、倒したければ、危険に近寄らなくとも攻撃することの出来る、矢じりがある。そして、魔法があった。
 魔法と呼ばれる、特定の『ことば』や『旋律』を唱えることによって発現する雷や光、風圧や炎は、複雑な発音が可能な喉を持つ人間に与えられた、自然の恩恵である。普通の生き物ならば、鋭い風圧や炎を浴びれば怪我を負い、弱り、死んだ。
 ところが、ルディは、魔法の炎や風の刃では倒せなかった。弱りはするが、それはただの一時に過ぎない。弓矢はルディの強靭な肉体を前にしては何の意味もなかった。
 たまたま、ある農夫が、突如襲ってきたルディに、鍬で応戦したところ、幸運にもその男がルディを倒すことが出来た。その偶然によって、ルディは、人間が直接制御する鋼の武器で倒せることが分かった。
 そして、それまで博物館に飾られていた剣が、再び現代に、ルディという特殊な怪物退治の実用品として、よみがえったのだった。
 
 人間の生活する街や村で暴れるルディを倒すためには、まず、魔法の攻撃で弱らせてから、剣で止めを刺す。これが定石であった。

 少年のあわれな呼吸音だけが、真っ暗な洞窟に響き渡っていた。
 剣を握った指の感覚がない。
 ガタガタと、体の震えが止まらない。なけなしの勇気、飛び散ったプライド、わずかに残る腰の力をかき集めてなんとか剣を握るも、少年アルタイル・イーゴリの剣の腕前では、立ちふさがる獣の毛一筋傷つけられるかすら怪しかった。
 歯の根が合わない。あんなに練習した攻撃魔法の呪文も声にならない。

「まってくれ、まってくれ、まってくれ……」
 
 歯の隙間から漏れるのは、誰に対するかもわからない呟きだった。人の言語を解さないルディに、攻撃をまってくれとでもいうのか。
 いや、アルタイルには分かっていた。これが、彼の本音だった。
とっくに彼を置いて逃げ去った仲間へ向けて、彼は初めて本音を漏らした。
 
 ルディ退治には、通常、魔法使い、剣士、火薬や薬草などを扱う理論使いなど異なる技を持つものが集まって《サリ》と呼ばれるパーティを結成する。サリはいつでも共に生活し、人間よりはるかに強く巨大な獣、ルディに挑むために結束を固めるのだ。
 しかし、アルタイルのサリは、結成して一週間後に挑んだはじめての仕事で、巨大なルディが牙を向いた瞬間、いきなり解散してしまった。

「畜生……ちくしょう、ちくしょう…………!」
 
 あんなに練習した、攻撃魔法を発動させる旋律も、なぜか一言も思い出せない。
 ただ、目の前のルディが、今にも牙をむいて闖入者に噛み付くのを、待つばかりだった。
 もう、悲鳴も出せない。
 少年の肩甲骨の上、小さな鳥のような黒い羽が震えた。
 アルタイルの髪の色と同じ、黒色の羽。
 小さな黒い翼は、鷲を祖先に持つ、アルタイルの一族の証だ。人間の体に対して、翼は小さすぎて飛ぶことは出来ないが、鷲の祖先を持つ証だった。
 アルタイルが自慢にしていたこの黒い肩の羽も、じきにルディの牙にかかってぬかるみに散らばる運命なのだろう。
 ルディを殺すために努力を重ねてきた自分が、あっさりとルディに倒される。
 アルタイルは、悔しくて、目をつぶった。それが隙となった。
 ルディが、アルタイルに飛び掛った。

 おしまいだ……。

 真っ白になったアルタイルの頭の中に、突然風の音が飛び込んできた。
 
 突如、断末魔の悲鳴が上がった。
 一回。二回。三回。
 悲鳴が次々に続いていく。おそるおそる意識を戻した先に、鮮やかな剣捌きでルディの牙と爪を弾く者がいた。
 
初めは、仲間が戻ってきたのかと思ったが、違う。
 アルタイルの仲間には、剣士はいない。アルタイルが剣士なので、自分の役目を取られたくなかった彼は、ほかの剣士を仲間に入れなかったのだ。
 黒い狼のようなルディの牙が、輝く剣と、しなやかな長身に向かって踊りかかる。
 
 しかし、洞窟の暗闇の中で銀色に光る剣が、その牙を弾き返した。そしてその流れに乗り爪を切り弾く。四肢の先を切られた獣は血を撒き散らしながら暴れた。
 
 しかし突然現れた剣士は、暴れるルディをあしらうように、銀色の剣で弾き返す。
 牙が頭めがけて襲い掛かる。しかし、かぶった丸い兜が、やすやすとその牙を防いだ。
 
 それは、まるで舞を舞っているようだった。
 
「すげぇ……光が踊っているみたいだ」
 
 アルタイルがふと呟いた時、足元から不意に光が湧き上がった。

「しまった!」
 
 アルタイルの仲間が、発動させずに残していった魔法の灯の呪文が、誤発動したのだ。

「うっ!」
 
 剣士が突如現れたまぶしさにうめく。

「人がいたの?」

 驚いて声を上げた剣士に、アルタイルは驚いた。予想外の、アルトの声の高さに。
 照らされたその容貌を見てさらに驚いた。

「女……?」

 剣士の動きが、ぴたりと止まった。アルタイルも動けずにいたが、目はとうに明るさに慣れている。
 ルディが唸った。しかし、剣士は動かない。

「おい!どうしたんだよ!さっさとやっつけろよ!」
「え……あ……、」

 剣士は、先ほどの立ち回りが嘘のように、頼りなさげにあたりを見回した。

 戸惑った瞳をむけられ、アルタイルは、まさか動きを止める魔法も発動しているのかとあせった。
 しかし、そのような魔法の気配はない。
 剣士は戸惑ったまま、アルタイルを見つめる。そのこわばった表情に、アルタイルは叫ぶ。わけが分からなかった。

「もう、なんだってんだよ!」

 剣士の背後に迫るルディに、アルタイルは、わけも分からず自分の剣を投げつけた。

 悲鳴を残して、ルディは地面に倒れた。

 「あ……」

 剣士がやっと動いた。
 地べたにしりもちをつき、ガタガタ震えるアルタイルに替わって、倒れたルディから彼の剣を抜いた。

 彼女が剣の柄に触れた瞬間、ルディの動きが消えた。
獣は、死んだのだ。
 
 狼のような濃い毛皮の胸から、剣を引き抜くと、それが確実に生命であったことを示す、赤い液体が吹き上がり、彼女の革製の鎧を濡らした。
 それを構えたまま、彼女はいったん洞窟の奥を覗いた。ルディが一匹だけであることを確認したのだ。
 
 安全が確認されると、魔法の薄明かりの中で、彼女は、背負った物入れから布を取り出し、汚れたアルタイルの剣を拭った。
 初めは大きな厚手の布で汚れを吸い取り、次に乾いた布で拭き、最後にさび止めの油をしみこませた布で拭った。軽く仕上げにふき取り、二、三度振って、感触を確かめたようだ。そして納得したのか、軽く頷いた。

「……ハイ。どうも、ありがとう。助かりました」

 彼女は、手入れを済ませたその剣を、アルタイルのほうに、横向きに差し出した。
 明かりのなかで見ると彼女は、長身ではあるが、大柄のルディ相手に剣舞を舞っていた同一人物とは思えないほど、頼りなげで気弱な、とび色の瞳を揺らしていた。

「お……」

 差し出された剣の柄から刃へ、アルタイルの視線は泳ぐ。

「ん……?」

 剣士は不審そうに眉を寄せる。
 このとき、アルタイルは、初めてルディを退治する、生命を殺す現場に居合わせたのだ。
 同じ生き物の赤い血潮に、打撃を受けていた。ルディの生命を、自分がほふったことで、先ほどの恐怖によるものとは違う震えが、彼を襲っていた。

 それの正体を正確に言い表せる言葉を、彼はまだ、持ち得なかったが。

「お……」

 言葉が出ない。ごまかすように、剣の柄を握る。まるで自分のものでないみたいだ。

「お……」

 血を吸うということは、こういうことか。
 これが、ルディの生命を奪い、ゼルになるということか。
 おそらく歴戦のゼルであるだろう彼女に、震える自分を見せたくなかった。しおれていたアルタイル持ち前の虚勢が、ぐいと頭をもたげた。

「お……前、命を助けてもらって言葉の礼だけですまそうってのか!」

「へっ?」

 女剣士が、アルタイルの言い草に目を見張る。

「礼だよ、礼! ルディは俺が倒したんだ! 俺は……お前の、命の恩人様だぞ!」

 目を丸くした女剣士。
 
 情けなさをごまかしたくてとっさに虚勢を張ったアルタイル。
 
 洞窟の中、わずかな明かりに照らされて、見詰め合う二人に長い長い数秒が過ぎた。
 
 さすがに居心地の悪くなったアルタイルが、勢いに任せて立ち上がろうとしたが、へたっとへたりこんでしまった。腰が抜けていたのだ。肩の黒い羽が数枚、後を追ってふわりと散り落ちた。
 
 引っ込みも付かず、情けなさ、恥ずかしさをごちゃ混ぜに沸騰させてうつむくアルタイルに、女剣士がおずおずと近づく。

「……あの」

 弱弱しい声が、洞窟に響いた。

「たすけてくれて、ありがとう……お礼は、できるかぎり、させていただきます」

 今度はアルタイルが目をむく番だった。今回、どうみても助けてもらったのはアルタイルのほうだ。アルタイル自身にも分かっていた。だから、信じられなかった。普通、こんな風に傲慢な物言いをされて、礼なんか言うか?

「私は、レティシア・バーベナ、です」

 ぺこっと、女剣士がアルタイルの目の前に座って頭を下げた。
アルタイル・イーゴリは、二度驚いた。


つづく!


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【オリジナル】夢と勇気、憧れ、希望 ~湖のほとりの物語~ 1

オリジナルの1です。

⇒ボカロ話ご希望の方は、よろしければ味見に以下をどうぞ……

☆「ココロ・キセキ」の二次小説
ココロ・キセキ ―ある孤独な科学者の話―
http://piapro.jp/content/6f4rk3t8o50e936v
トラボルタP様、ジュンP様の『ココロ・キセキ』に惚れこみまして、ついに物語を作ってしまいました。
老科学者の素敵なおじさまとなったレンを書きたくて始めた話です。

☆夢みることりを挿入歌に使ってファンタジー小説を書いてみた
http://piapro.jp/content/ix5n1whrkvpqg8qz

発想元は、あの名曲、はややP様「夢みることり」です。はややP様の「夢みることり」が好きになってしまい・・・挿入歌にしながらファンタジー小説を書いてしまいました。世界、和風ではありません・・・が、全5パートのうち、3パート目から「夢みることり」風味になっていきます。あの冬の空気感、蛍のはかなさと光とハーモニーを現在の全力で描写したつもりです。

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投稿日:2010/02/20 01:35:52

文字数:4,486文字

カテゴリ:小説

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