2.手を取って、鼻歌でワルツを

「ねえ、マスター。この写真、マスターの家族?」
 窓辺にひっそりと置かれている写真立てをのぞきこみながら私が言うと、マスターはぴたりと手を止めてピアノから顔を上げました。
 彼の奏でるピアノの音色は電子楽器の自動再生では決して出せないような、とびきり美しいものです。だから私はいつまででもその音を聞いていたいと思いましたが(何しろ機械の私には「あきる」ということがありません)、マスターは少しずつ旋律を変えながら何度も同じところを弾いていたので、きっと作曲に行きづまったのだろうと私は考え、気分転換になるだろうかと声をかけてみたのです。
 私が来てからこの一週間というもの、マスターはひまさえあればピアノに向かっていました。彼の仕事はピアノの調律師で、今や電子ピアノではない、調律が必要なピアノを持っている人はごくわずかでしたので、つまり彼は七日の大半をピアノを弾いてすごしていたことになります。その集中力は、まるで疲れを知らない機械のようでした。
 しかし、熱中している間は決してピアノの前から動こうとしないマスターも、この時ばかりは椅子から立ち上がって私のいる窓の方へ近づいてきたので、どうやら声をかけたのは正解だったようです。
 マスターの隣に座って、黙々とパソコンでマスターの弾いた音を楽譜に起こしていたカイトもどこかほっとしたような顔で立ち上がり、台所の方を指さして部屋を出ていきました。
「カイトがお茶をいれに行ったみたい」
 私がそう言うと、マスターは判っているというようにうなずいてみせました。
 それから腕をのばし、写真立てを求めて手をさまよわせます。
 私はその手にデジタルの画像を映し出している写真立てを渡しました。毎日カイトが掃除をしているのでフレームにはほこり一つなく、また映っている写真もデジタルなので少しも色あせもせず、たった今撮ったばかりのように鮮明です。
 けれど画面に刻まれた日付けは二十年も前のものでした。
「これ、マスターの奥さんと子供?」
 そう尋ねるとマスターは小さくあごを引くようにしてまたうなずきました。
 写真の中央には小学生くらいの女の子と、その肩を抱いている若い女性。後ろには彼女と同い年くらいの男の人が見えます。彼はミラーシェードをかけていませんでしたが、マスターであることはすぐに判りました。何故なら、彼の姿は少しも変わっていないからです。
 写真の中のマスターはせいぜい三十歳、そして今私の隣で写真立てをなでている盲目の彼も三十歳くらいにしか見えませんでした。とても五十歳になろうかという「老人」には見えません。
 私たちのいる現代では、人の寿命は五十歳から五十五歳くらい、長くても六十までと言われています。医学は日々進歩し続けてきましたが、それにもかかわらず人の寿命はある時期を境に少しずつ縮む一方でした。ピークだった頃の前後に何か特別なできごとがあったわけではありません。どの歴史書を見ても、人類全体を震撼(しんかん)させるような大きな戦争も災害も長いことありませんでした。
 原因が見つからないので、単に種の寿命がつきたのだろうと言う人もいます。人間の時代が終わろうとしているのだと。
 人の次に世界を支配する種族は、まだ現れていません。人間が生み出した機械こそが次の世代の覇者だと言っている人もいるけれど、私には本当のところは判りませんし、興味もありません。私はただ歌を歌い、音楽に触れていられればそれでいいと思っているからです。きっとマスターと同じように。
「二人はどこへ行ったの?」
 さらに私は尋ねましたが、マスターはバッテリのあがった機械のようにじっと立ちつくしたまま、どんな反応も見せませんでした。きっと話すことができたとしても彼はこの時、何も答えなかったでしょう。
「マスターは少しも老けて見えないね」
 私が言うと、マスターは小さく肩をすくめて写真立てを私の方へ差し出しました。どうやらそう言われることになれているようです。
 マスターが窓辺から離れるのと、カイトがお茶を持って部屋に戻ってきたのはほぼ同じタイミングでした。
 長年住んでいる自分の家なのでマスターにはどこに何があるか判っているのでしょう、彼はまるで見えているかのように危なげなくテーブルを迂回しソファに腰かけます。その前にすかさずカップを置いたカイトもいかにも手なれた様子で、そんな彼らの連携はいつ見ても本当に見事でした。
 私やカイトはロボットなので人間の食品を口にすることはできませんが、マスターの食事やお茶の時は三人そろってすごします。マスターもカイトもしゃべらないので私一人がたいていいつも好きなことを言っているのですが、少しも居心地の悪い思いをしたことはありません。
 もっとも、機械の私に居心地の良し悪しが判るわけではないのですが、私は三人一緒にいる時間が好きでした。どことなく自分の中のリズムに合う感じがするのです。私はそのハーモニーが作られるような感覚を「好き」と呼んでいました。
「ねえ、マスター。さっき弾いていたところだけど、私は最後のが好きだな」
 マスターが先ほどまで格闘していた曲の主旋律を鼻歌で歌いながら私がそんなことを言うと、ガシャンとカップが乱暴にソーサーにぶつかる音がしました。
 とはいえマスターはたたきつけるつもりではなかったらしく、私の言葉に驚いて手元が狂っただけのようです。それとも驚いたのは鼻歌に対してでしょうか。
 マスターがピアノで弾いていた曲は、私が来た頃にはほとんど完成しかけていましたが、細かな修正にずいぶん手間取っているようでした。
 彼は曲が完成してから私に歌わせるつもりだったようで、それまで特に歌を歌うよううながされたことはありません。
 そして、どうやらそれが仕上がらない原因だったようなのです。
 私の鼻歌を耳にしたマスターはきちんとソーサーの上にカップを乗せたあと、ピアノの前に戻って私が歌った通りに音を直しました。カイトがそれを素早くパソコン上の楽譜に打ちこんで紙に印刷し、私に差し出します。
 歌詞はありませんでしたが、二人の様子から察するに歌えということらしいので、楽譜を受け取った私は適当な発音で歌い始めました。
 マスターがそれをさらにピアノで直し、私がその通りに歌い直してカイトがパソコン画面の楽譜を書き換えます。その作業が数十分ほど続いたでしょうか。やがて最後の一小節になり、それも終わると、一週間かかっても仕上がらなかった曲が完成していたのでした。あまりにもあっさりと作業が片付いたので、私は何かパーツのいくつかを道に落としてきたような気になったほどです。
 しかし、曲は確かに完成していました。
 マスターは私の歌声のイメージをつかめていなくて、私の声に合った音作りに苦戦していたのです。普段話している声と歌声は同じですが、話すのと歌うのではまた違うので、きっとそこで彼の中に誤差ができていたのでしょう。目が見えないかわりに人並み以上に優れたマスターの耳は「何かが違う」と気付いていながら、その理由が判っていなかったのです。
 それが気まぐれに歌った鼻歌のおかげで解決したのでした。
「でもマスター、この歌にはまだ歌詞がないよ?」
 私がそう言うと、マスターは口元に笑みを浮かべてうなずきました。
 でも、その首肯はどういう意味なのでしょうか?
 まるでそれでいいのだと言っているようにも見え、私は首をかしげたままカイトの方へ顔を向けました。すると彼もにっこり笑ってうなずいてみせるではありませんか。
 まだ二人のように意思の疎通がはかれない私は、今度は反対側に首をかしげて両腕を広げてみせるくらいしかできませんでした。



3.楽器屋と猫
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【小説】リトル・オーガスタの箱庭(2)

閲覧数:123

投稿日:2011/09/01 20:37:21

文字数:3,230文字

カテゴリ:小説

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