♯1「幸せな一日」
『私がその人と出会ったのは、私が高校三年生の時でした。
まだ冷たい風が肌を撫でる春の頃、私とその人は「クラスメート」という形でお互いの存在を知りました。
見慣れないその人は、どうやらその年になってから、転校してきたようです。
その人を一目見た時の印象は「物静かで堅実そうで賢く頭も冴えていそうな人」でした。一見堅そうに見えるのに、それでいてとても涼しげな目をしていました。四字熟語で表すのなら、そう、『眉目秀麗』。それ以上に似合う言葉はありません。
その端正な顔立ちをした彼を見た瞬間、既に私の心は惹かれていたのかもしれません。
そして同時に、この瞬間から私の破滅は始まっていたのかもしれません。
……こんなに抉られるような思いを味わうのなら、最初から彼の存在を知らなければよかった。』
― ― ― ― ― ―
――三年前。
いつもと変わらない日常が、今日も訪れていた。
午後のお日様の光が降り注ぎ、久しぶりに天気がいい日だった。
平日とはいえ、お客さんもいっぱい来ている。
ここ最近は全国的に雨続きだったものだから、自然と人の足は屋外へ向かわず、客商売を営む経営者はさぞ嘆いた事だろう。
街で小さな喫茶店を営んでいるメイコも、その一人だった。その日の天気は経営に大きく影響するのだ。
メイコも昨日までは憂鬱な気持ちで、それでもなんとか笑顔を取り繕って接客をしていたが、今日は昨日よりも調子がいい。昨日よりも売り上げを伸ばさなくては、と意気込んで、精一杯の笑顔でお客のもてなしをしていた。
午後三時。
丁度お客様が一人帰ったので、テーブルの上のコップやら皿やらを片付け、丹念に布巾でテーブルを拭く。
お店はやはり清潔感や明るさ、そして接客が重視だ。少しでも汚い所があれば、時間のある限り掃除をする。メイコはいつも清潔感を心がけていた。
テーブルをきちんと拭ったところで、メイコの背中の方から声がした。
「ねぇ、メイ。ちょっと手伝ってほしいんだけど」
「なに」
後ろからの声に、メイコはめんどくさそうに答える。声をかけたのはメイコの高校時代の同級生、カイトだった。
カイトはカウンター席に座っていて、背中越しにメイコに声をかけていた。
メイコはいい加減この男と縁を切りたいと思っていた。
全く、この男と付き合うといい事が無い。それどころか面倒事によく巻き込まれたり、邪魔をされる。彼はこの店の常連だったが、いつもツケで払わされるのだ。ここは居酒屋じゃないんだと彼に何度も訴えたが、そこはかとなくスル―され、「いいじゃないか友達なんだし」と懇願してくるのだ。
そんなこともあるから、そろそろ顔面を一発殴ってやろうかと思っていた。
けれど断じて憎んでいるわけではない。彼には別に悪気はないのだ。それは分かっていた。分かっていたが。
そろそろ殴ってやらないとコイツの目は覚めない気がする。そうメイコは思い始めていた。
「このページのウォーリーが見つからなくてね、一緒に探してくれないか」
カイトはカウンターに座っていた。そこに座りながら、某絵本の中に隠れたキャラクターを探しているのである。
全く呆れたものだ。しかしこんな事でいちいち溜息をついていたらやっていけないから、もうスル―だ。
「いやだね、私はこれこの通り忙しいから。てかいい加減毎日くるのはやめてくれないか。さすがに邪魔だから」
「酷いな、君のお客に対する態度はそんななのかい?」
「何がお客だい。代金を払わない輩はお客と呼ばない事にしてんだ。それにアンタが探すのはウォーリーじゃないだろ」
「いや、あとはウォーリーだけだよ。ウェンダもウーフももう見つかってるんだ」
「そうじゃなくてさぁ、あのねぇ、アンタが探すべきはウォーリーじゃなくて仕事だろう?し、ご、と」
そう、この男はこともあろうに無職だ。だからよくツケで払わされるのだが。そして就職活動にも消極的である。いわゆるニートだ。
仕事は最近クビになったらしい。高校を卒業してから現在まで仕事をしていたらしいが、クビになるほどの何かを彼がやらかした、という事なのか。彼がクビになった理由はメイコにはよく分からなかった。
「いざとなったらここで働かせてくれよ」
「バカ言ってんじゃないよ。見ての通りウチの店は個人経営、自営業なんだ。バイトなんか雇う余裕はないよ。それに金を払ってくれない誰かさんのせいで、今月も赤字が続いてるんでね」
「なに、誰だそいつは!悪徳な奴だな!俺が成敗してやる」
「そうかい、じゃあ自分で自分の首を絞めるこったね」
いつもと変わらぬ昼だった。何故かいつもカイトは午後の二時になると、決まって店にやってくる。この日もそうだった。
いくら高校時代の同級生だったからって、毎日来るのは――少し図々しいんじゃないか。
いや、代金さえ払ってくれればそりゃ毎日来たって構わないが――それどころか歓迎さえする。
だが彼は無職だ。ニートだ。働いたら負けだとか思ってるであろうニートだ。救いようがまるで見当たらないニートだ。
そんな彼が来る場所は断じてこのようなカフェではない。ここに来るくらいならハローワークに行けと、一度強く言ってみようか。
メイコがそう考えていた矢先。店のドアがゆっくりと開いた。カランカランと響く、ドアにとりつけた鈴の音が来店の合図だ。
「こんにちはー」
「あら、リリィちゃん、いらっしゃい!」
カイトへの口調とはうって変わって、メイコの口調は明るいものに変わる。これでも客商売を営む身で、何年か働いているうちに接客術が身についたのだ。
ドアが開くと、お客さんなら誰かれ構わず自然と反応してしまうのである。
ちなみにリリィというのはこの店のもう一人の常連だった。カイトとは違ってちゃんと代金も払ってくれる。――というか、それが当然なのだが。
リリィとはもう三年の付き合いになる。メイコが自分の店を開業した頃から来てくれている、数少ない古参のお客さんだ。リリィはその時中学三年生だったが、それからもう三年も立った。彼女も今や立派な高校三年生である。
「メイさん、いつものお願いします」
「はいよー」
「リリィちゃんいらっしゃい。さ、さ、かけてかけて」
「あ、カイトさんも、こんにちは」
リリィは眩しいくらいの笑顔でカイトに微笑みかける。
まったく、こんなだらしのないニートに対しても笑顔であいさつするなんてね、なんていい子なんだとメイコはいつも思っていた。
学歴や職歴、性別や年齢や外見で差別しないのが彼女の長所で、それはニートの彼に対しても例外ではなかった。ニートなんて消極的イメージの看板、象徴と言ってもいいくらいなのに。
メイコは二人の会話する様子を横目で見ながら、ガスレンジに水の入ったやかんをかけ、火をつける。
「一緒にウォーリー探さないか」
「ウォーリー、ですか?あの絵本の?わ、懐かしい!子供の頃よくやりましたよ、これ」
「ウォーリーだけでも三シリーズくらい持ってるぜ。あと、ミッケとか」
「あぁ、ミッケは難しいですよねぇ。見つからないと途中で嫌になっちゃいますよね」
「そうそう、たまにページのホントに端っこに隠れてたりしてさ、あれは意地悪だよなぁ。でも見つけた時の喜びときたらもう。爽快だな」
「分かります!それめちゃくちゃ分かります!見つからなくてイライラすることもあるけど、見つかった瞬間に、スーッとモヤモヤが消えていくんですよね」
二人は何やらウォーリーやらミッケやらで盛り上がっている。女子高生と二十代のニートが、まさか絵本の話題で話が噛み合うなんて。ある意味不思議な絵図だ。
完全に二人の世界が構築されてしまっている。その後もしばらく会話が続いたが、ネタも尽きて話も終わった頃、メイコは声をかけた。
「そういえばリリィちゃん、もう三年だろ?彼氏の一人でも出来たかい?」
「あ……えと」
珍しくリリィが言葉に詰まっているようだった。顔も若干赤くなっている。
その様子を見て、メイコはすぐに理解した。
「出来たんだね?」
「えぇ!?彼氏が出来た!?えぇぇ!」
「は、はい、ついこの間」
どうやらカイトにとっては予想外の事態だったらしく、狼狽する。
リリィにはいつか彼氏が出来るとメイコは予感していたが、ようやくその時が来たということらしい。
リリィは身体も細くスタイルもルックスもいい。背中まで伸ばした長髪は、歩く度にサラサラと揺れて、街中や学校の男たちを誘惑していそうだった。彼氏の一人、出来ないわけがない。
「ほんとにこの間なんですけどね。メールで、告白されて。そんなの初めてだったからもうびっくりしちゃって。その人は今年転校してきた人なんですけど、初めてみた時からかっこいいなって思って、こんな人と付き合えたらなーって思ってたんです。だからもう嬉しくて嬉しくて」
「おや、告白されたの初めてなのかい?ちょっと意外だね」
「何言ってるんですかメイさん、私、結構消極的な性格ですし、告白なんて普通されませんよ」
「またまた、謙遜しちゃって。ま、幸せそうで何よりだね。でも、相手の事はちゃんと見据えるんだよ。恋は盲目だからね。ま、彼氏の事で何かあったら、いつでも私に言いな。相談乗るよ」
「はい、ありがとうございます!今度の週末はですね、彼と遊園地に行く予定なんですよ」
「恋人とデートかい。ふふ、まさにリア充ってやつだね」
リリィの顔は恥ずかしさのせいか赤かったが、同時に一段と明るく輝いていた。その傍らで「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ。なんで、どうして」と独り言をつぶやく男が約一名。
カイトは前々からリリィには好意の感情を抱いていたから、それだけショックだったんだろうか。
好意と言ってもどうせ本気じゃないのだろうに。
カイトのその落胆ぶりには気がつかないのか、リリィは私の方を見て笑う。
リリィの笑顔を見ると、その幸せを分け与えてもらっているような気がして、自然とこっちも笑顔になってしまうのだった。
丁度リリィの頼んだミルクティーも入り、満面の笑みでメイコは言うのだった。
「はいよ、ミルクティーお待ちどうさん」
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