薬瓶がある。
 暗い色をした百ccほどの小瓶で、色の判然としないさらさらした粉末が入っている。
 色褪せたラベルには大小の文字が整然と並んでいる。製造者。類別。保管上の注意。ラベルは巨大だった。
 ドクロマークのような気のきいたものはない。強いていうなら『劇薬』のゴシック体が太枠つきで赤く強調されているくらいだが、その鮮やかさの中に二十一世紀までの保存は計算されていなかった。『試薬特級』に続く大きなフォントも『シアン化カリウム』とそっけない。化学式はKCN。単純だ。『(青酸カリ)』と一言添えてあれば、さらに大衆的な単純さを手にすることができただろう。ああ、探偵マンガやなんかで人殺しに使われるあの薬ね。アーモンド臭がするっていう。
 もちろん現実には探偵を欺く荒唐無稽なトリックもなければ殺人を企む人だってずっと少なく、そっと仕込まれた劇薬に殺される人はもっと少ない。
 だから、劇薬を手に入れるのは意外と簡単だ。大学生なら特に、理系のそれらしい研究室に入れば劇薬と名のつく瓶のひとつやふたつ、実験室の鍵つき戸棚に無造作に、あるいは整然と、ただ放置されているにすぎない。一週間、いや、一ヶ月この瓶を戻さなくても、きっと研究室の誰一人それに気づくことはないだろう。
 そのようにして持ち出された薬瓶は部屋の隅の勉強机に立っている。淡いブラウンで統一された室内に、暗褐色の瓶はひどく異様な空気を放っていた。同系色ならなじむはずというのが当初のもくろみだった。しくじった。そう思うと死にたくなった。ちょうど自殺に使える薬もある。
 蓋を開けようとして目が醒めた。自殺する気で持ち出したのではなかった。自殺する気もなかった。人生はまだ長い。自殺で終わりなんてつまらない。感情が先走るのは悪い癖だ。明日まで待てば、瓶はもっと部屋に溶け込んでいるかもしれない。
 蓋をひねる。今度は純粋な興味だった。中身を直接手の平に載せるのは抵抗があったので、ティースプーンを持ってきてその上に出す。スプーンのくぼみの中で、白い粉末は蛍光灯の光を反射してきらきら光った。
 胸が高鳴っていた。視界はスプーンに載ったほんの少しの粉末によって支配されていた。それはなんの変哲もない粉だった。ただの塩か砂糖にも見える。舐めたら甘いかもしれない。温かいコーヒーに白い粉末がさらさらと溶けてゆく場面を想像する。スプーンは受け皿に置かれ、カップは湯気とともに口元へ運ばれるだろう。深い香りと心地良い苦味、そして微かに残る甘さ。しかしその正体は音もなく人の心拍をなくす冷たい毒薬なのだ。
 もし今、手が滑るかなにかでスプーンを取り落としてしまったらどうなるだろう。白いシアン化カリウムの結晶は机の上をばらばらになって飛び跳ねるだろうか。スプーンが少し揺れただけだったら、それはぼたりと固まって机の一点に落ちるだけかもしれない。それでも明日からこの机で食事をとることはできなくなるだろう。勉強だってできそうにない。新しいデスクマットを買ってくれば机を使う気になれるだろうか。机のかどやカーペットについているかもしれない猛毒を気にせずパンを齧ることができるだろうか。私がもし指先についた毒のせいで死んでしまったら、その日のうちに警察がやってきて部屋の隅々までを調べるだろう。そして実家から駆けつけた母にむかって刑事はこう言うのだ。娘さんの指先から青酸カリが検出されました。指の他にはデスクマットの下とカーペット、それに靴下の裏と両肘から同じ劇薬が見つかりました。失礼ですが青酸カリの出所に心当たりは。
 自分が死んだあとの騒ぎを思うと少しだけわくわくした。たくさんの人が自分に関心を持ってくれるのは嬉しかった。残念なことがあるとすれば、その時自分はもうこの世にいないということだ。
 アーモンド臭という非日常的な表現はその匂いに対する興味をかきたてた。スプーンを鼻先に持ってくる。匂いらしい匂いはない。古いせいだろうか。それとも、水に溶かさないと匂いはしないのだろうか。あまり近づきすぎると間違って粉末を吸い込んで死んでしまうかもしれない。
 死んでしまうかもしれない、と思ったことで急に笑いがこみ上げてきた。まるで「死んだらそれで仕方がない」とでも言いたげだ。そこまで投げやりな人生でもなかったはずだが。
 あるいは人生といっても、その程度のものかもしれない。
 口を大きく開け、スプーンを中に差し込んでみる。息を殺し、舌を伏せ、スプーンの金属に触れないよう細心の注意を払ってそれを口腔の真ん中へと誘導し、その倍の緊張感で口を閉じる。
 この瞬間に誰かがドアをノックしたら。携帯電話が着信を告げたら。間違ってセットした目覚ましが鳴り出したら。明日か明後日の新聞にはちょっと珍しい死亡記事が載ることだろう。現場の机からは青酸カリの瓶が発見された。事件性はなく、警察は自殺と事故の両面から捜査を進めている。
 最後に感じるのは砂糖の甘さではないはずだ。たとえ糖衣に包んであったとしても、死の瞬間まで甘さで塗りつぶしてくれる薬品なんてきっとない。飲んだのがスプーンの裏に付着した目に見えない量であっても、おそらくこの劇薬の致死量は軽くオーバーするだろう。毒によって動きを止めた心臓が不安を急激に膨張させ、頭の中を恐慌が満たし、後悔に涙を流して自分は死ぬだろう。その致死毒を自分の持つスプーンから摂ったなんて、なんて間抜けな女だろうか。舌がなにかに触れる。
 油断していた。
 慌ててスプーンを口から出した時には、舌の腹に金属の味がくっきりと残ってしまっていた。顔から血の気が引いていくのがわかった。
 スプーンをゴミ箱に突っこみ、口を開けたまま流しへと走った。水道水を出しっぱなしにして口をゆすぐ。十回も二十回も同じ動作を繰り返した。口の中に唾液がなくなり、ほとんど水道水だけからなる水分をふきんで拭きとっても、まだ舌の中央にわずかな、しかし致死量の毒が残っているように思えた。口を水流に突っ込んで、さらに十回ゆすぐ。舌の芯まで水道水の味が沁みこんでいるように思えた。それでも恐怖はぬぐえず、歯ブラシを取って舌が痺れるまでこすった。
 灯りを消してベッドに潜りこんでからも、『毒』と『死』の文字は頭の上をぐるぐると旋回して離れなかった。それらはまるで死の瞬間を今か今かと待つ死神のようだった。
 気づくと腕が震えていた。薬のせいか恐怖のせいかは判らない。
 きっと大丈夫だ、と自分を励ましてみる。無駄だった。
 少しでも気を紛らわそうと夜の窓を見る。視界を小瓶のシルエットがよぎり、すぐに布団をかぶり直した。闇に戻ると再び震えが襲ってきた。
 どうにか恐怖をやり過ごすと、不安は急速に消えていった。青酸カリが即効性の毒であることが根拠だった。だてに理系をやっているわけではない。それでも胸の高鳴りは続いていた。
 暗闇の中で立ち上がり、蛍光灯をつける。夜中の二時だった。
 ゴミ箱からスプーンをつまみあげて水で洗い、ティッシュで拭く。小さなハートのシールを柄のところに貼りつける。間違ってこれでプリンをすくわないように。
 先をティッシュでくるまれ、スプーンは二段目の引き出しに小瓶とともに仕舞われた。日が昇ったら暗色のカーテンを買いに行こう。そんなことを考えながら、私は部屋の灯りを消した。






 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

【小説】マイルームにスプーン一杯の劇薬を。

当時は小川洋子が好きだったんです……orz

2008年5月の作品です。
割と好き。

閲覧数:202

投稿日:2016/04/17 12:52:21

文字数:3,034文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました