4.
みくが次のパート先を見つけるのに、一週間かかった。
一ヶ月くらいはかかってしまうのではないかと思っていただけに、みくは少しだけホッとした。
多少なりともお金が貯まっていたとはいえ、あくまでそれはみくの主観による金額だ。実際のところは全財産が一万円ちょっとしかない金額であり、二十七歳の全財産と思えば、雀の涙程度としか言えない。
「それでは、今日からみくさんにはここで皆さんと一緒に働いていただきます。二週間は研修期間になりますので、それまでにここでの仕事の流れを覚えていただければと思います」
「よろしく……お願いします」
みくのお辞儀に合わせて、開店前の店舗の一角に集まった従業員が、パチパチとまばらな拍手をする。
「みくさんは、ここの前はスーパーやコンビニで働いていたそうなので、ここはいろいろと勝手が違うところもあると思います。皆さんもいろいろとみくさんに教えてあげて下さい」
店長であるその男性――本橋は、他にも連絡事項をいくつか告げ、全員で挨拶の唱和をしてその場は解散になった。
「それではみくさん、ついてきてもらえますか?」
「……はい」
「取りあえずは商品の配置ですね。お客様から『アレを探してるんだけど、どこにあるかわからなくて』なんて聞かれることはやっぱり多いんです。けっこう小売り面積の広い店舗ですからね」
「そう……なんでしょうね」
返答に困ったみくは、あいまいにうなずくしかない。
「ここから向こう側は全部洋服類ですね。一番奥から新生児用、ベビー服、子供服。だいたい小学校低学年くらいまでですかね。大まかに右と左で男の子用と女の子用に別れています」
ここまでは大丈夫ですか? と問うようにみくを見て首をかしげてくる店長に、みくはその顔をまっすぐに見つめ返してからうなずいてみせた。
「……」
「えっと……」
「……」
「その……なにか?」
「っ! す、すみません。ええと……そうだ。こっちはおもちゃコーナーですね。それから向こうはミルクや哺乳瓶なんかの――」
呆けたようにみくを見ていたかと思うと、本橋は慌てて顔をそらしてまくし立てた。
なんで本橋がそんな態度になったのかわからず、みくは内心で首をかしげる。
ただ、本橋はみくのことを覚えているわけではなさそうだ、などと思った。
みくの次の仕事場となったその店は、スーパーのパートを辞めたその日、夜間中学までの空いた時間に寄り道したベビー用品店だった。
慌てて店を出たときに目の端に映った求人広告が、みくの脳裏から離れなかったのだ。
ベビー用品や、客が連れてくる赤ちゃんなんかを見ていたら昔のことを思い出してしまって、仕事にならないんじゃないかという不安もあったが、みくに仕事を選んでいられるほどの余裕はない。三日前、半分ダメ元で聞いてみると、人が足りなくて困っていたところだと、とんとん拍子で働くことが決まってしまった。簡単な履歴書だけで、自己を証明する書類も要求されなかったのがみくにはありがたかった。
彼は忘れているようだったが、一週間前、みくがこの店でベビー服を手にしていたときに声をかけてきたさわやか系の男性店員が、この人だったのだ。
若くして店長ということは、他の人たちはほとんどがパートかアルバイトなのだろう。
他の人に指示を出す、という仕事の大変さは、みくには想像もつかない。だが恐らく、とても面倒くさい仕事なのだろう、なんてことをみくは思った。
幸い、物覚えが悪いわけではなかったみくは、一週間もたたずに他のみなと同様の仕事ができるようにはなっていた。長続きしないパートやアルバイトを転々としていたせいか、短期間でやることを覚えるのが得意になってしまったのだろうか、と考えてみたものの、みくにも確証はない。
ともかく、そこで働き始めてから二ヶ月の間、みくの過去が従業員に露見することもなく、穏やかな、それでいて忙しい日々が過ぎていった。
「あ……」
「お久しぶりです、みくさん」
仕事のあと、夜間中学での勉強を終えて家へと帰ってくると、家の扉の前に一人の女性が待っていた。
「――ごめんなさい、もう帰ってきてるかと思ってて。いないなら仕方ないな、なんて思ってたのよ」
「……いえ、そんな。来てくれただけで嬉しいです。坂上さん」
坂上――齢五十を越えているはずなのだが、その全身から溢れんばかりのエネルギッシュさのせいか、年齢を感じさせない若々しさがそこにはあった――は、みくを見てぱあっと顔を明るくする。
「今日は……?」
「なにかあった訳じゃないのよ。私ももういい歳になったしね、自分の娘くらいはたまに自分から会いに行こうと思って」
「娘だなんて、そんな」
「私は子どもが作れない身体だったからね。私が関わった子は、みんな自分の娘だって思うことにしてるの。貴女も立派な私の娘よ」
そう言って、坂上という名のジャーナリストは、自分より身長の高いみくの頭をなでる。
そんな坂上の態度が、みくにはこそばゆかった。
しいたげられ続けてそのまま大人になってしまったみくは、そんな風に自分の存在を無条件に認めてくれる大人に、それまで出会ったことがなかった。
初めて出会ったのが留置所の面会室だったことを思えば、坂上が今までこうやってみくとの関係を続けてくれていることに、驚きと感謝しかない。
坂上は、女性の妊娠や育児に関する相談ホットラインを運営している女性だ。みくの聞いたところでは、設立当初から携わっていて、ジャーナリストとしての収入の半分は運営費につぎ込んでいるという話だった。
坂上に実子はいないが、彼女の言う“娘”は、それこそ何十人といる。
「今は仕事してるの?」
「あ……はい。ベビー用品店のパートで」
「あら、凄いじゃない! ……でもベビー用品って――」
「――大丈夫ですよ。……大丈夫、です」
心配そうにそう言う坂上に、みくは精一杯の虚勢を張ってそう答える。しかし、そんな態度など意に介さず、坂上はみくのほほを掌で包んで、柔らかくほほ笑む。
「いいのよ、無理しないで。疲れたときは疲れたって言っていいの。ひとりで抱え込むのがつらくなったら、また私たちのところに来てちょうだい」
くたくたに疲れきったところで、不意に現れた坂上がかけてくれた言葉に、みくは思わず涙をこぼすところだった。
そんな風に言ってくれたのは、坂上が初めてだった。
みくが留置所にいたときも、女子刑務所にいたときも、母親は会いに来てくれなかった。来てくれたのは、坂上ただ一人。
みくの過去を知った上で優しくしてくれる人など、他にはいなかった。
「さか……がみ、さん……」
久しぶりに見る彼女に、彼女だけがみくに見せてくれる優しさに、みくはこらえようとしていたものが瞳から溢れてしまうのを止められなかった。
何ヵ月も張りっぱなしだった緊張の糸が、急に緩んでしまったのだ。
「あらあらあら。どうしたのよ」
「ごめ……なさ……」
言葉にならないみくに、坂上はみくの華奢な身体を優しく抱きしめる。
「……いいのよ。貴女は頑張ってる。他の誰よりも過酷な環境で、貴女は生きてきたのよ。誇っていいことだわ。私はそれを、よーく知ってる。だからいいの。泣きたいときはね、思いっきり泣いたらいいの。そしたらすっきりするわ。きっとね」
その言葉の一つ一つが、余計にみくの涙腺を刺激した。
久しぶりに会った坂上にしがみつくようにして、みくは子どものように、長々と泣きじゃくった。
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