歌詞・カードジャケット作品

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光秀奇譚(インストルメンタル)

ないとう

ないとう

明智光秀にまつわる伝説

 光秀と煕子は婚約を決めたが、煕子は疱瘡にかかってしまう。やがて疱瘡は治ったが、左頬に痕が残ってしまった。
 煕子の父は光秀に黙って、煕子にそっくりな容姿をしていた妹を、煕子のふりをさせて光秀の下へやった。
 しかし光秀はそれをみぬき

「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」

 というと、煕子と婚約したのです。

 明智長山城が落城した際、煕子は光秀らと共に城を脱出。越前へと逃れようと油坂という急峻な峠を越えてゆきます。その時光秀は煕身重の煕子を背負い、家臣らが「代わりに自分が背負います」と言っても、光秀は聞かなかったという。


明智光秀は千利休となった。

明智光秀は天海となった。

天海は春日局を引き入れ大奥の局となった。

春日局は明智光秀の筆頭家老であった斎藤利三の娘であった。

春日局は家光の乳母として雇われた。推挙したのは三条西実条

春日局は幼いころ利三が非業の死を遂げるのを見た後追っ手をかわしながら転々として三条西実条家にかくまわれて、教養を積んでいた。

三条西実条は古今伝授を受けていた。

この古今伝授というのは実は和歌の技術的秘伝ではなく、古今集の裏読みともいうべき内容で、公家が秘伝としてきたものであり三種の神器の扱いに関するものを含んでいた。

田辺城の戦いで細川幽斎がこの秘伝をもっていて、追い詰められた時に、朝廷が介入して、争いが中断した。細川幽斎が三条西実条に古今伝授を行っている。

家督は細川忠興に譲り、この忠興が光秀の高弟で、妻は光秀の娘細川ガラシャである。

この細川忠興が佐々木小次郎を剣術指南役としていた。実は細川忠興の先祖は佐々木家から養子に入った者がいる。

光秀の妻 煕子の実家は妻木勘解由左右衛門範熙、(つまき・かでの・そうえもんのりひろ)、勘解由(かでの)小路党の棟梁家である。

この勘解由の名称の由来は、平安時代のいわば公安にあたる役職勘解由使からきている。陰陽助つまり表向き陰陽占いの補助役であるが実際には各地の紛争を監視する役割を担っていた。

光秀=利休の住まいは晴明神社の境内にあった。

本徳寺の光秀肖像画に、「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されている。光秀は生き延びており、僧になった後、寺を出たという意味に読み取ることができる。