僕の胸には、昔…
自分の信条や正義に、自分で全く気付く事無く、自ら反する行動を取り続けている事に気づいた時、皆さんは自分にどんな感情を抱くでしょうか?一寸唐突な話で恐縮ですが、私は小学校の頃、物凄い虐められっ子でした。同学年の子供たちは基より、担任の先生にも虐められていたので、学校では殆ど居場所が無く、当時としては稀な登校拒否もしました(ただし、家にいると母親にメートル差しを背中に突っ込まれ、問題集を解かされて、直ぐに答えが出せないと太腿、背中、二の腕と言わず、所構わず竹製の物差しでビシビジと叩き回され、1日で体中青タンだらけになっていたので、翌日は這ってでも学校に行きましたが…)。私が学校で虐められていたのは、私がアスペルガー症候群だったからだと思います。そんな毎日でしたから、いつも「人はなぜ生まれてくるのか?何のために生きるのか?なぜ人を虐げるのか?全ての人が融和するのに、何がこの世に欠けているか?」等々を小学校の1年生の頃からずっと考えていました。そして、「自分は融和の精神をもって、全ての人に優しく在ろう」と考えていました。そんな自分も、中学校の1年生の時、他の小学校から来た子にいきなりボコボコに殴り回されたのが切っ掛けで、自分を虐めていた同じ小学校からの生徒が皆で庇ってくれたのを期に、虐められっ子から抜け出す事が出来ました。そして、中学校2年生の時、仲間内でジャレ合っていた時、ふと、仲間の一人を、自分も含めて虐めている事に気が付き、愕然としました。考えてみると、暫く前からそうしていたのです。その瞬間、自分で自分に絶望しました。それ以降、その虐められっ子に関わらない様にしましたが、その子が虐められている時に助ける事は、昔の自分に逆戻りしてしまいそうで、どうしても出来ませんでした。その事が、自分の心の中に耐えがたい汚臭を放つ汚物となって、長く自分を苛む事となりました。そんな自分の心の苦しみを和らげる …一種のカタルシス行為として、高校2年生の時に作ったのが、この歌です。この歌を歌う時、小学校の時の、虐められてはいたけれど澄んだ心を持った自分を懐かしく思い、汚れた心の今の自分を思い、胸が締め付けられるような気分になるのです。そして、敬愛する中原中也の「汚れちまった悲しみに…」の「汚れちまった悲しみは 倦怠の内に死を夢む」の一節が、ぐるぐると頭の中を回り続けるのです。