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切れ端

 どこか遠くの空でカモメが鳴く声が聞こえている。近くに海でもあるらしい。そう彼が感じたところ、彼のところに潮のにおいが漂ってきた。これは海から直に匂っているのか、それとも彼の脳が、海があると錯覚してそのような気にさせているのか――ということに関しては、彼のみならず誰にもわからないことだったが、しかし近くに海があるというのは確かなようである。
 海に近いらしいその町は、田舎で、いまだに昭和で時が止まっているかのように古めかしい。ひとつひとつの風景が、日に焼けて茶色くなった写真のように懐かしいのである。彼はその町の、とある廃屋の前にあるベンチに腰かけていた。ベンチの隣には自動販売機があり、彼の手にはそこで買っただろう炭酸の缶ジュースがぶら下がっている。
 ベンチの彼は、何かに夢中になるように、あるいは、ただ何も考えていないようにも、そのどちらにも見えるといった様子で、アスファルトに立ち上る空気の揺らめきを見つめていた。その揺らめきはどうしてかノスタルジーを喚起するものだった。あるいは、この町の、例のレトロな雰囲気そのものが、過去への感想と合致して、ノスタルジーが喚起されているのかもしれない。彼は思いをはせているのだろうか。
彼の額には汗がにじんでいる。夏である。
彼には一人称がなかった。いや、ものを言う以上は一人称があるのだが、その一人称はまちまちであった。僕、の時もあれば俺、私、のときもある。文章にするとそのバリエーションはより豊かになる。平仮名と片仮名も混じるからである。

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2014/03/12 02:23

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