■海野と別れ兜テニスクラブに着いたのは六時過ぎだった。ロッカーに百万円をしまった。ビジターフィ―を支払ってコートに出た。朝方の雨のせいかコートが湿っぽい。厚化粧の智子が声をかけてきた。「時山さん。おひさしぶり」妙になれなれしい。土岐が手首の関節を回し始めるとリストサポーターをはめ乍智子が近くに寄って来た。「あなた本当は土岐さんって言うんでしょ?仁美に全部聞いたわよ」「全部って」「仁美のストーカーやってる事」そう言い乍コートに入って来た仁美に胸の辺りで小さく手を振る。前回同様三十分ばかり準備練習した後ゲームを始めた。メンバーは前回と同じだった。違ったのは仁美の態度だった。自分がミスをするとパートナーに謝り、パートナーがエースを決めると弾んだ声で「ナイスショット」とほめた。全く別人に見えた。薔薇の棘の様に体中から突出ていたよそよそしい態度がビロードの様な温かで滑らかな態度に変わっていた。顔も体も一週間前と全く変わっていないのにこの上もなく愛らしい女に見えた。練習が終わった後仁美をインサイダーに誘った。智子も付いてきたので店の前で目配せして帰って貰った。仁美がバッグを小脇に抱えてフード付きの撥水コートを着た儘席に着くと「九時迄ですけどいいですか」と中年の女店員が聞いてくる。時計を見ると八時半になる所だった。アメリカン珈琲を注文して店員が去ると土岐は百万円の入った茶色の紙袋を仁美にぎこちなく差出した。「これ受取ってほしい」仁美は、何にという様な眼をして顎を引いて紙袋の中を覗込む。仁美の視線が瞬きをした後硬直した。「こんな物受取れません」と責める様な目線で土岐を捉える。土岐は縋る様な面差しで言う。「お願いだ。受取ってほしい」仁美はやんわり断る。土岐を傷つけない様にという思いやりが感じられる。「受取る理由がありません」土岐には仁美の思いが分かる。分っても尚、言わずにはいられない。「だって民事で事故の現場を目撃してないと証言したらUSライフからの介護保険金は停止するでしょ。特養ホームの入所費用が払えなくなるでしょ」「大丈夫です。こんな物貰わなくても裁判では本当の事を話します。母は特養ホームから出して引取ります」仁美が躊躇しているのはカネの出所らしい事は推測できる。しかしそれが言えない。カネの出所を言わないで仁美に受取らせる事は困難だと感づいてはいるが言えば尚更仁美は受取らないだろう。「引取るってあなたが会社に出たら誰が面倒みるんす」「祖父が見ます」「おじいさんだってリウマチで身動きできないんしょ」「糸魚川の家を処分してバリアフリーのアパートを借りて三人で暮らします。祖父と母の年金と私の給料で何とかやってけます。それに祖父のリューマチはそれ程の重症ではないんです」と言う仁美の口調にはこれ迄の人生の苦難と持って生まれた利発さが滲出ている。そう言う仁美に抱締めたくなる様な愛おしさを覚える。「そんな事言わないで受取ってくれ。あなたには受取る権利がある」土岐の申出を仁美は聞いていない。「それに母が廣川の娘である事がDNA鑑定で分れば、少し遺産を分けて貰えるかも知れないし」「それはお母さんの当然の権利だ。DNA鑑定の手配は僕に任せてくれ」そこに珈琲が運ばれてきた。珈琲豆を焙煎したアロマが鼻の奥を擽る。仁美は店員の姿が見えないかの様にストッププモーションの様に首を横に振続けた。その動きを制止する様に土岐が言う。「分った。それじゃこのカネでおじいさんの骨董品を買わせて貰う。それならいいでしょ」仁美は何も答えない。土岐はポケットからサイコロを取出して仁美に見せた。「いいかい。これからこのサイコロを振る。よく見といてくれ。もし偶数が出たら黙ってここでこの百万を受取っておじいさんに渡してくれ。糸魚川の店にある掛軸でも壺でも何でもいいから百万円分売ってくれと伝えてくれ。もし奇数が出たらこれ迄の事は一切なかった事にしよう。僕は僕の依頼人の為に民事で勝訴を得る為に全力を尽くす。君は君で君のやりたい様にしてくれ。君の周りから僕は完全に消え去ろう。いいね」と言い乍仁美の瞳を覗込んだ。仁美は土岐の言っている意味を理解できない様でうろたえている。「そんな」と言うのがやっとだった。「よしサイコロ振るぞ。その前に一つ教えてくれ。帰宅の時茅場町でいつも会社に近い7番出口でなくて十番出口から帰るのはなぜ」「昔はその日の気分で7番だったり十番だったりしたの。去年だったかしら。この喫茶店の前で車に乗込むおじいさんを見かけて何となくどこかでみた様な人だと思ったの。どうしても思い出せなくって、それからこの1年はいつもこの喫茶店の前を通って帰っていたの。時々乗込む所を見かける事があって、その都度思い出そうとしたんだけど。この夏頃におじいさんに古い写真を見せられてそれが廣川だと知らされて。多分別の写真だったと思うけど子供の頃に母が見ていた写真を覗込んだ時の記憶じゃないかと思うの」「ふうん。よし仕切り直しだ。サイコロ振るぞ」土岐は中腰になって傍らの窓を開けた。右の掌の中にサイコロを封込め軽く振る。カチカチと二つのサイコロが触合う音がする。窓外には兜町の闇だけが蠢いている。土岐は窓外の暗夜に向かって思いっきりサイコロを投げつけた。投げる手に打算に流されやすい自らの生き方を戒める思いも込められていた。サイコロが道路に落ちて微かにカチンカチンと軽く乾いた音が聞こえてくる。遠くから大通りを駆抜ける車の排気音が聞こえてくる。仁美は今走って来たかの様な荒い吐息を漏らしている。首を伸ばして土岐が投げつけた暗闇の方角に眼を凝らしている。冷たい夜気が窓から徐々に侵入してきた。土岐はぞくっとして徐に窓を閉じた。「どうサイコロの目を見に行くかい」仁美は黙って土岐の顔を凝視する。土岐も仁美の眼を凝視する。土岐の本心を教えてくれと訴えている眼だ。土岐は惑う思いを断切る様に自信ありげに言う。「僕はサイコロの目は偶数だと確信する。君はどう」仁美は黙っている。今にも泣きだしそうな目で土岐の次の言葉を待っている。もっと仁美を焦らしてみようかと仁美の潤みかけた眼を覗込み乍土岐は言う。「自分の運命のサイコロの目は自分で造るものだ。相手や周囲に流されていたらきっと後悔する。自分の選んだ道の結果がどうであれ自分で選んだ事に意味がある。自分で選んだ事に責任を持てばたとえ結果がどうなろうと後悔する事は絶対にあり得ない。君も偶数だと思う?」仁美の瞳孔が激しく揺れている。土岐は身を乗出して仁美の肩に手を置いた。「どう?偶数だと思う」仁美は肩に置かれた土岐の手の温もりに促される様に小さく頷いた。セミロングの髪が頬を覆う。土岐は仁美の肩を軽く揺すった。「それじゃ、この封筒をおじいさんに届けてくれ」土岐は百万円の入った封筒を仁美の目の前に置いた。仁美はその封筒の上に目を落とす。土岐はテーブルの上に眼を伏せている仁美の黒髪に声をかけた。「君がこれ迄恋人を作らなかった理由はおばあさんとお母さんが認知症だったからじゃないの?自分もそうなると思込んでるんじゃないの?君は相手の人生を不幸にしてはいけないと勝手に思込んでる。しかしおばあさんとお母さんが認知症である事が知れた時に相手の男に捨てられる事を恐れてる自分を認めようとしてない。認知症になるとしても五十を過ぎてからでしょ?そうならないかも知れない。二十年も三十年も愛情を育めばたとえそうなったとしても恐れる事はないじゃないか。かりにお母さんの認知症の事を知ってその男が逃げて行ったとしてもそれはそれでいいじゃないか。そんな男は本当に君を愛してるとは言えない。寧ろその事がリトマス試験紙になるじゃないか。相手の男の本心を知りたければおばあさんとお母さんの話をすればいい。君を本当に愛してない男なら尻尾を巻いて逃げて行く。少なくとも僕は逃げて行かないけど。僕は君の認知症も愛したい」そう言い乍土岐は身を乗出して仁美が座席の横に置いた大きなリボンのついたバッグの中に百万円の入った封筒をしまってやった。甘酸っぱい沈黙が流れた。俯いている仁美の眼の真下辺りのテーブルの上に間欠的に熱い滴が落ちてきた。滴はテーブルの上に落ちると室内を漂う僅かな明りの全てを吸取って思いのたけを話したげにきらきらと輝く。仁美は下を向いた儘、薄いアイボリーのレースのハンカチを取出して瞼を閉じ、涙を押しだす様にして眼の辺りを拭う。込上げてくる様なグスンという鼻音がハンカチの中でくぐもる。涙声を堪えて仁美が言った。「私もお願いがあるの」仁美は俯いた儘ハンカチをテーブルの上に置き珈琲に砂糖とクリームを落としてスプーンで小さな円を描いている。時々スプーンがカップの縁に触れて仁美が言いだすのを励ます様な音がする。土岐には歳の差以上に仁美が可愛く見える。「何?」と土岐は身を正して嬉しそうに聞く。前髪で隠れている仁美の顔を顎の下に手を差し伸べて見つめたい衝動に駆られる。土岐は仁美の前髪に軽く手を触れた。そうされる儘、甘えたい戸惑いを隠して仁美は呟く様に言う。「私とミックス組んでくれない」「勿論」と優しく言い乍土岐はスプーンを持つ仁美の手をとって強く握締めた。「さあ笑って。口を横に引くだけでいい。顔は心を映し出す。相手の笑顔を見たければ自分も笑顔を見せないと。相手の笑顔で自分の心も笑顔になる。その自分の笑顔が、更に相手の笑顔を引出す。笑顔と笑顔の連鎖だ。2枚の鏡の様に相手の笑顔が自分の心に笑顔を映し出し、その笑顔がまた相手の心に笑顔を映し出す。そうやって無限の笑顔の連鎖が映し出される時、心の中が幸せで満ち溢れる」土岐は歯の浮く様な思いで自分の言葉に酔っていた。仁美の眼も土岐のせりふに酔っている様に見えた。背後から「お客さん、すいません。九時です。閉店です」と喫茶店の中年のウエイトレスが無粋に叫んだ。了

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」エピローグ2

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投稿日:2022/04/08 07:13:57

文字数:4,056文字

カテゴリ:小説

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