後悔したいと思いながら生きる人は、あまり居ないだろう。
ほとんど全ての人は「後悔する人生だけは送りたくない」と思いながら生きているはずだ。
にも関わらず、この世に後悔と無縁でいられる人間など、一人として存在しない。最良の選択をしたはずなのに、最悪の結果に打ちのめされる事だってある。
この時もそうだった。
ずっと後になって、この出来事を振り返った時、マスターはいつも辛そうに唇を噛みしめる。

「あんなことになるって分かってたら、研修旅行なんて行かなかったわ」

自分が必要とされる場面があったのに、その場に居られなかった事。
マスターはその事に、身を裂かれるような罪悪感を感じるのだと言った。






1.


ルカは茶碗と箸を持ったまま、途方に暮れた顔で目の前の光景を見つめていた。
いつも通りの3人での食卓。
だが、そこに漂う空気は決していつも通りではなかった。

「………………」
「………………」
「………………」

会話がないのである。
原因は、無表情で黙々と箸を進めているミクだった。
美味しそうにも、まずそうにも見えない。心ここにあらずといった様子で、まばたきも余りしていない。正確に箸を動かして料理を口に運んでいるが、なんだかロボットが自動的に食べているという感じだ。
カイトも一体どうしたのかと疑問符を浮かべて、その様子を伺っていた。

「ごちそうさま」

「いただきます」以来、ミクはようやく言葉を発した。
茶碗や皿に盛られていた食事は綺麗に無くなっているが、まるで仕事のノルマをこなしただけの様な素っ気なさだった。
そして食器を流しに置いて、サッサと自分の部屋へ戻ろうとする。
カイトが呼び止めた。

「ミク」
「何?」

振り返る。
声に少しでも不機嫌さが混じっていたなら、何かあって拗ねているのかも知れないと想像もできた。
顔に少しでも不安の色が混じっていたのなら、何かトラブルでもあったのかと想像することもできた。
だが、まったくの無感動、無表情では、何も推し量ることができない。

「何かあったのかい?」
「別に。なんで?」
「あ、いや……何か元気なさそうだから」
「気のせいだよ」

それだけ言って背を向けようとする。
カイトは慌てて言葉を繋いだ。

「あ、もしかしてさ! まだファイルが見つからないのかい?」
「ファイル? ……ああ」

ミクは怪訝そうに振り返り、それから思い出したようにうなずいた。

「あれならもういいの」
「もういいって。失くしたまんまじゃ大変じゃないか」
「じゃあ、もう見つかったからいいよ」

じゃあって何だ。
黙って見守るルカも、ミクの意味不明な態度に困惑を深めるばかりだった。

「何か困った事でもあるのかい? 良かったら兄さんが相談に乗るぞ?」
「ありがと。でも大した事じゃないから。ちょっと調べ物してるだけ」
「調べ物? 何を?」
「ちょっとね」

曖昧に言葉を濁らせたまま、ミクは一方的に会話を切り上げて去って行った。
取り残されたルカとカイト。どちらからともなく溜め息が洩れる。

「参ったな。何かあった事は確実なのに」
「そうですね。一言、話してくれれば良いだけなのに」
「何を調べてるのか知らないけど……その調べ物が終わるまでは、この話はおあずけかな」

カイトはテーブルの下から、旅行のパンフレットを引っ張り出して言った。
以前から姉弟みんなで話していたのだ。いつかルカが帰ってきたら、みんな揃ってどこか旅行にでも行こうと。
皆の予定がなかなか合わなくて今日まで伸び伸びになっていたが、あと1か月もしたら一段落しそうなので、それを見越して計画を立ててしまおうと考えたのだ。
しかし、ミクがあの様子では。
カイトは残念そうにパンフレットを見下ろしていたが、それから気を取り直したようにルカに笑いかけた。

「ところでルカ、今日のレッスンはまだ良いのかい?」
「はい、もうそろそろです。片付けをしたら丁度良い時間になりますよ」
「そうか。なら俺も早く食べちゃわないとな」

手早く食事を終え、2人で食卓を片づけて洗い物をする。
流しに並んで立ち、カイトが洗った食器をルカが拭いて棚に戻す。
カイトがスポンジで皿を洗いながら、ふとこぼした。

「ミクにも色々あるんだろうけど、困ったな……もうあんまり、時間ないのに」

ルカはその言葉に、チクリと棘が刺さったような痛みを覚えた。
努めて平坦な声を心掛けて、兄を諌める。

「そういうことは、思っていても口に出さないで下さい。ミクに聞かれたら大変です」
「ん。今のは俺が悪かったよ」

カイトが洗い終わった皿を差し出してくる。
こちらの方は見ず、次に洗うものを目で選んでいる。
ルカはその皿を受け取って布巾で水気を取りながら、兄の横顔を見つめた。


『元気って言うかさ。16にもなっていつまでもバタバタして、子供じゃあるまいし。正直、鬱陶しいだけだね。しねばいいのに』


あの言葉の意味を知りたかった。
冗談だとは思う。現に兄も、言った後ですぐに「そういうネタ曲を歌わされたんだ」と笑っていた。
しかしそれでは、あのとき自分が感じた、あの悪意は何だったのか。
自分の気のせいなどでは、断じてない。

「……あの、兄様」
「ん? 何だい?」

カイトが振り返る。
穏やかで、優しい笑顔。
恥ずかしくてとても言えないが―――― 大好きな、この笑顔。

「い、いいえ。何でもありません……」
「?」


もし、本当は冗談じゃなかったとしたら?


恐ろしい仮定に、ルカは言葉を続けることができなかった。
皿を棚に戻すにかこつけて、カイトから身を離す。
そして考えた。
ミクの様子が気になる。
以前、姉弟みんなで話し合った。ミクの事はカイトに任せると。
帰国した時に、カイトと改めて約束もした。
だけど……。

「………………」

ルカは決心した。
兄様には悪いけど、マスターに相談してみよう、と。








時間になり、ルカは予定通りマスターに呼び出されてレッスンを受けた。
デビュー曲の進捗状況は極めて順調だ。伴奏は昨日でついに完成し、今日からはいよいよ本格的にルカの歌声の調律に入っている。

♪~ ♪~ ♪~

「ふむぅ。良い感じだけど、試しにもう半音下げて歌ってみましょうか」
「はい」

♪~ ♪~ ♪~

「うん、やっぱりこっちの方が良いわ。これで行きましょう」

その歌声の調律も極めて順調だ。ザッとベタ打ちしてから、ほんの数回の調律でほぼOKが出る。
上々の進行ペースに、マスターは満足げにうなずいて時計に目をやった。

「おっといけない、始めてからもうけっこう経つわね。いったん休憩しましょうか」
「私なら大丈夫ですが」
「こういうのはペース配分が大事なの。疲れてなくてもマメに休憩を取った方が、結局は効率がいいのよ」

マスターがそう言うのなら、ルカに反対する理由はない。
素直にうなずき、スタジオの隅にあるパイプ椅子に移動して、そこに置いてあった手提げ袋からタオルとドリンクを取り出した。

「本当にアンタって子は優秀ねぇ。デビュー曲なのに、こんなにサクサク作業が進むなんて嘘みたいだわ」
「ありがとうございます。でもそれはマスターの技術が素晴らしいのであって、私自身は何も」
「いやいや。ネットでチラッと見たけど、他のユーザー達も口を揃えて誉めてるわよ。巡音ルカはとっても素直で良い子だって」
「あ、ありがとうございます……」

ルカは顔を赤くして畏まった。
ごまかす様に首筋をタオルで拭い、ドリンクで喉を潤す。そうしながら、今だと思った。マスターにミクのことを相談しよう。
思い切って顔を上げる。
しかしルカが口を開くより一瞬早く、マスターがしゃべり始めてしまった。

「こんなに順調なのに申し訳ないんだけど。実はねルカ、アンタには謝らないといけないわ」
「え?」
「大学のゼミの企画でね、研修旅行に行くのよ」

マスターは煙草に火をつけながら、事情を説明する。
彼女が大学で受講しているゼミを担当しているのは、民族音楽に権威のある教授なのだそうだ。
海外にも幅広いツテがあり、そのゼミでは3年次に研修で海外旅行が実施される。
行先は教授が候補を挙げた中からゼミ受講者の希望で決められるのだが……。

「アイルランド、ですか?」
「そう! ケルト音楽発祥の地・アイルランドへ1週間の旅よ!」

アジアからアフリカまで選択肢がいくつかある中、今回はマスターの念願叶ってテーマがケルト音楽全般に決定し、一番のメジャー所を押さえるという意味でアイルランドへ行くことになったのだそうだ。

「私、アイルランドって夢だったのよ。子供の頃に映画を見てね、その映画で流れてた音楽がとっても綺麗で、幻想的で、これは何ていう音楽なんだろうって思って。調べてみて、それがケルト音楽―――― 厳密に言ってアイルランド音楽だって分かったの。それ以来ずっと憧れてて……思えばあれが、私が音楽に興味を持ったキッカケだったわ」

マスターの声は弾んでいた。
煙草を吸っていない左手を頬に当て、うっとりと夢見心地で語る。
いつか行こうと思って、1年の頃からバイトしてコツコツ旅費を貯めていたのだそうだ。まだまだ先の話だと思っていたのが、今回教授のツテもあって格安で行けることとなり、マスターは本当に嬉しそうだった。
さらに聞けば、マスターは海外旅行自体が初めてなのだという。それならば余計に嬉しいだろう。

「それでね。行くのは来月なんだけど、海外だし準備が色々あって、ちょっと明日からバタバタしそうなのよ。そういうわけだから、ルカのデビュー曲なんだけど……ゴメンね? あと少しで完成なのに」
「そ、そうなんですか……」

申し訳なさそうに言われ、ルカは言葉を継げなくなってしまった。
マスターの、子供の頃からの夢だったというアイルランド。
夢が叶ったと喜んでいるマスターの顔を見ては、とてもミクのことを相談など出来なくなってしまった。
言えばきっと、マスターは心配する。ボーカロイドである自分たちがマスターの夢の負担になるなど、とんでもない事であった。

「あの、ルカ。怒ってる?」

こちらが無言でいるのを見て、マスターが様子を伺うように尋ねてくる。
ルカは慌てて顔をあげ、首を横に振った。

「いえ! どうぞお気になさらないで下さい。子供の頃からの夢だったんですよね? それを思えば、ちょっと待つくらい何ともありません」
「いい子ねアンタはぁ~。泣けてきちゃったわ、ホントありがとう。帰ったらすぐにミキシング仕上げて、マスタリングして、アップするからね」
「楽しみにしています。気をつけて行ってきて下さいね」

反射的に、そう返してしまっていた。
もう引っ込みはつかない。
そうして、ルカは笑顔でマスターを見送ったのであった。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります

【カイトとミクのお話10】 ~ 受難曲(パッショーネ)・ 前篇 ~

閲覧数:1,881

投稿日:2009/10/25 13:03:50

文字数:4,483文字

カテゴリ:小説

  • コメント17

  • 関連動画0

  • 時給310円

    時給310円

    ご意見・ご感想

    >肉まんさん
    衛生兵! えーせーへーっ! メディーーーーーーーーーーーーーック!!! ( ;´Д`)
    おいルカ、俺のタンスの下から2番目にナース服があるから、それ来てこっち来い! あっ、バカ、それは秘蔵のミク用のメイド服……違うっ! それはナース服じゃなくて歯科衛生士の服だっ!

    (しばらくお待ちください)

    どうもこんにちは、肉まんさん。また来てもらえるとは嬉しいです。
    何か聞こえましたか? ソラミミデスヨキット。
    とにかく楽しみにしてもらえている事だけは伝わります。ありがとうございます、がんばります!


    ところで全然関係ないんですが、皆さんの「○○して待ってる」が「正座して」「逆立ちして」「内臓出したまま」って、どんどんグレードアップしてるような気がするんですが……。え、あなた方って同じ学校とか、そういうわけじゃありませんよね? なにこの連携プレーw

    えー。
    皆様のおかげさまをもちまして、来場者数がついに2ケタの大台に乗りました。本当にありがとうございます。何が嬉しいって、やっとメイン小説の面目が立ったことが嬉しいです (^ω^;)
    今回は何にもお礼ができませんけど、そのぶん早く次回を仕上げたいと思います。
    ホントにホントにありがとうございました。よろしければ次回もまた、よろしくお願いします!

    2009/11/03 09:27:07

  • 時給310円

    時給310円

    ご意見・ご感想

     ……あ、新記録……しかも、ついに2ケタ、だと……!?
     ……やっべー、メインに集中してたせいで、まだ弾(ネタ)がそろってねーよ……
     どうする、どうする俺? よし、ここはひとつ気付かなかったフリで……!


    >山田さどるさん
    どうも初めましてです、読んで頂いてありがとうございます! (`・∀・´)ゞ
    いや~、ははは……そういう展開に持って行けたら良かったんですけどね。何とかカイミクらしいカイミク小説にできるよう、がんばりますです、はい。
    しかし逆立ちってw 待てるものなら待ってみろ! もしホントにできたら、そのとき君はオリンピック体操選手だっ!w 
    というわけで、コメありがとうございました!


    >秋徒さん
    ちょっ、受験生……!! Σ(゜Д゜;)
    何やってんスか! 貴重な時間をこんな所で消費して、もしこれで万が一のことがあったら、僕はご両親に何と言ってお詫びをすれば……! ああもうつまり本当にありがとうございますっ! ←アレ?
    わーい、秋徒さんに褒められたーw キャラ達ばかりでなく僕にまで気を使ってもらってどうもです。特に今回は、あんまり得意じゃないシーンに挑戦だったので、そう言ってもらえると嬉しいです。
    おかげさまで次回は早くUPできそうです。よろしければ次もお付き合い……って違う違う! あなたは勉強して下さい、マジでっ! ヽ(´Д`ヽ)
    お忙しいところ、ホントにありがとうございました!

    2009/11/03 09:24:08

  • 29

    29

    ご意見・ご感想

    いやあああぁぁぁぁっ!!内臓えぐられてそのまま終わったぁぁぁっ!!!!
    ・・・続きをください・・・いっそのこと真っ二つにしてください。
    前回、「ルカ様を嫁にください」発言を断ってもらってよかったです。あんなかわいい人が穢れちゃいますよね。・・・影からストーカーみたいにみることは許されるますか??←
    内臓出したまま続き待ってますw
    それでは失礼しました。

    2009/11/02 18:46:20

  • 秋徒

    秋徒

    ご意見・ご感想

     ちょっ…………!?!!(驚愕の間(゜□゜)
     ミ、ミクがえらいことになってませんこと? つーか兄さん今このタイミングでですかー!? まさか時給さん、こんな、こんな事をするだなんて………!
      
     この先が楽しみで仕方がないではないですかッッ!(※誉め言葉ですよ
     また腕を上げられたのでは? 前に時給さん自身が言ったことですが、人の黒い面、ひどい言葉を書くのは物書きにとってとても神経をすり減らすこと。しかも、時給さんも大事になさっているミクに言わせるとなれば執筆の苦悩は計り知れなかったことでしょう。
    それを立派に書き上げ、尚且つ胸を締め付けるような鬼気迫るミクの描写! 物書きの端くれな私ながら「素晴らしい!」と心から大絶賛したいわけなのです。これからの展開に眼が離せません!
     ……もちろん、ハッピーエンドになりますよね?(^^;

     それでは、長々と失礼しましたm(_ _)m 首を長くして待ってます!

    2009/11/01 23:47:10

ブクマつながり

もっと見る

クリップボードにコピーしました