水箱 ※二次創作
1.
「え……? パートを辞めたいだって?」
パイプ椅子で向かい合って座っていたスーパーの店長は、そう言ってから弱ったな、と言いたげに頭をかいた。
パートを辞めたい、と言った当の本人――みくは、店長にウダウダと言われることがわかっていたし、そう言われたところで自分が意見を変えるつもりもないこともまた、わかりきっていた。
二十七年にもなるみくの人生において、自分の意思が意図通りに他者へと伝わってくれたことなど、これまで経験したことがない。かといって反論や訂正などをすると、相手は必ず怒鳴り散らして「お前の意見なんか聞いてない」と言ってきた。この店長が怒っているところは見たことが無いが、だからといって同じようにならないとは限らない。
だからみくは、これまで自分がやってきた通り、ただ黙ってうつむいて、相手が不満を出しきってあきらめてくれるのを待った。
「――でさ、ここでなにか不満があったの? シフトの調整ならもっとできると思うし、時給も……まあ、高くはないけど、そんなに悪いとまでは言えないと思うんだけど」
「……」
五十代も後半に入り、頭頂部が寂しくなり始めた店長は、みくをなんとか引き留めようと必死だ。
五十代後半ということは、自分の倍以上か、などとみくはぼんやり考えた。
自分の父親も、今ごろはこんな感じなのだろうか?
幼い頃に数回会った記憶しかない父親。その姿を思い出そうとしたが……別の父親が脳裏をかすめ、二度と見たくない男を思い出しそうになってしまったことに嫌気がさし、父親についてそれ以上考えることをやめた。
ともかく、店長はなんとかみくが辞めるのを考え直させようとしていたが、彼女は知っている。店長は誰が辞めるときでもこうやって同じように引き留めようとしているのだ。このスーパーは人が慢性的に足りておらず、レジは常に長蛇の列だし、裏の調理場も戦場のよう。まともな休憩をとっているヒマも無いくらいに忙しい。そして、パート募集の張り紙を常に出しているのに、希望者は驚くほどやってこない。
日に日に店長がげっそりしていくようにみくの目に映るのも、恐らく間違いではないのだろう。
――が、みくが辞めることにしたのは忙しさが理由ではなかった。
忙しいのは苦ではない。むしろ、なにも考えていられないほど忙しいほうが、みくにとってはありがたかった。少しでも空いた時間ができてしまうと、どうしても昔のことを思い出してしまう。それにみく自身、ちゃんとした仕事をさせてもらえるという経験がひどく少ない。パートで働かせてくれるというだけで、みくにとってここはすごくいい職場だったのだ。
そう。
とてもいい職場だった。――先週までは。
「――頼むよ、みくちゃんが辞めちゃったらこの店も立ち行かなくなっちゃうよ……」
店長の懇願が、うつむいたままのみくの頭部をかすめる。だが、最早みくは店長の言葉を聞いていなかった。みくは視線の先、床の汚れの形が何に見えるかなどという心底どうでもいいことを考えながら、あとどれくらいしたら店長があきらめてくれるかということしか考えていなかった。
待つのは得意だ。
……というより、今までそれを強いられ続けてきたせいか、待つこと、我慢すること、耐えること――忍耐、という言葉をみくは知らなかった――は生活の一部であり、みくの人生を簡単に表そうとすれば、それらの単語以外になかった。
「……はぁ。制服の返却は忘れないで。ロッカーも空にしておいて」
しばらく聞き流していると、店長は深いため息と共にようやくそう言った。
床の汚れがカマキリかなにかの昆虫の姿に見えてきていて、自分の指先にまとわりついているそれを握りつぶし、指の隙間から昆虫の体液がしたたっている妄想にふけっていたみくは、その言葉にようやく我に返って顔をあげた。
もちろん、手のひらが昆虫の死骸で汚れているなんてことはない。
「……」
みくを見返す店長は、文句を言いたそうに口をへの字に曲げていた。みくがちっとも話を聞いていなかったのがバレているのだろう。
「……すみません」
「いや。貴女にも都合があるんだろうしね。でも……まいったなぁ」
なんとか考え直してくれないかなぁ、とまだ言外に主張する店長の言葉を聞き流し、みくはパイプ椅子から立ち上がる。
「お世話になりました」
「いいえ」
形式上のやり取り。今ではそんなこともできるようになったんだな、と内心で皮肉めいた笑みを浮かべながら、表面上はそんな考えなどおくびにもださず、会釈してバックヤードから出る。店長はもう一度、みくにもわかるよう、あからさまに深いため息をついていた。
「……」
そりゃ、続けられるなら続けたかったよ、とみくは思う。
しかし――。
「ほら、あの人、裏から出てきたわよ――」
「怖いわあ。犯罪者と一緒に働かなきゃいけないなんて」
「でもあの人、本当に殺人なんて――?」
「だから言ってるじゃない。名前で検索したらすぐ出てくるんだって。間違いないわよ」
「そうそう、すぐ出てきた。怖い事件よねぇ」
「普通の人ならそんなことできないわよ」
四、五十代のパートの主婦たちが、そう口々に声をあげる。
勤務時間にもかかわらず、忙しいはずの仕事の手をわざわざ止めて、数人ずつ集まって……ひそひそと、けれどみくの耳に届く程度の声音で。
聞こえてはいたけれど、みくはさも聞こえていませんという態度でロッカールームへと向かう。
ロッカールームに入り、中の姿見でみくは自分の姿を改めて眺めた。
帽子をとって結んでいた髪を解くと、胸くらいの長さの傷んだ茶髪があらわになる。茶髪とはいえ、根本から数センチは黒のままだ。もう少しだけお金に余裕ができたら、また染め直さないとな、なんてことを考えたが、これだけでもなかなかの出費だ。次に染めるときは黒にして、もうそれ以降は染めない方がいいのかもしれない。
みくはほとんど化粧をしていない。荒れた肌もそのままのすっぴんだ。化粧品にお金を使えるほど、みくの生活に余裕はなかった。けれど、化粧に憧れがないわけではない。一重のまぶたも、少し潰れ気味の鼻も、骨ばったあごも、自分の顔には嫌いなところしかない。それが化粧で少しでも変えられるなら、それはすばらしいことのように、みくには思える。
とはいえ、みくは化粧のやり方も知らない。
『怖いわあ。犯罪者と一緒に働かなきゃいけないなんて』
そうやって自分の顔を見ていつも通り幻滅していたら、脳裏についさっきのパートの主婦の言葉がちらついた。
みくはただ顔をしかめるしかない。
もう来ないわよ。だから安心しなさい。
姿見から離れ、ロッカーで制服から着替えながら、実際には言えるわけもないそんな言葉を、想像の中でだけ彼らにぶつける。ちょっと怯んだ彼らにあっかんべーして、一歩下がった彼らのすき間をさっそうと通り抜けていく――そんな風にできたらいいのに、と思うのがみくの限界だった。
パートの主婦たちのあの態度が、みくがここを辞めざるを得なくなった原因だった。あの様子では、このスーパーのほとんど全員に知れ渡っているのだろう。あの店長も、知った上で引き留めていたのかもしれない。
まあでも、ここで三ヶ月働けただけマシか。ここは厚待遇なところだったから、少しだけ余裕ができたし。
そんな風に考えてみると、みくの気持ちは少しだけ軽くなった。アルバイトを始めて数日で辞めさせられることなんて、それこそ数えきれないくらいに経験してきた。それらと比べれば、三ヶ月も安定して働けたことはかなり大きい。
……でもまあ、それも今日までだったな。
よれよれの私服に着替え終わったみくは、そんなことを考えながらロッカールームから出て、スーパーを去った。
その後、彼女がこのスーパーに寄ることは二度となかった。
水箱 1 ※二次創作
第一話
お久しぶりの文吾です。
今回はPolyphonic Branchの「水箱」をお送りいたします。
全八話になります。
……とは言うものの、今回は本当に自分の書きたいものを書いただけみたいなところがあり、「水箱」の歌詞を忠実に取り入れられていない点が多々あります。
本当、Polyphonic Branch様に顔向けできないくらいに、自分の書きたいものしか書いていないので……。
それでもよければ、最後までお付き合いください。
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