わたしはしばらく、床に座って呆然としていた。けど、いつまでも呆然としてもいられない。立ち上がると、部屋の中を見回す。
わたしの部屋と同じくらいか、少し広い部屋だ。白いシーツのかかったベッドに、戸棚と書き物机。小さなテーブルに、椅子が二脚。ベッド脇にはスタンドが立っている。家具はそれぐらいで、どちらかというとがらんとした印象の部屋だった。普段使われていない割には綺麗で、埃とかは被っていない。お手伝いさんが普段から掃除をしているんだろう。
右手の壁に、入り口とは別のドアがあった。開けてみると、小さな浴室になっている。お風呂とトイレと洗面所が一緒になっているタイプの。まるでホテルの一室みたい。ここ、一体何のための部屋なの?
外からだけ鍵がかかるということは、誰かを閉じ込めるため……? でもどうして、人を閉じ込める必要があるの?
わたしは浴室のドアを閉めると、窓へと向かった。鉄格子でもはまっているんじゃないかと思ったけど、そんなものはなかった。鍵はあるけど、中から開けられる。わたしは鍵を外し、窓を開けて、バルコニーに出た。見慣れた我が家の庭が広がっている。
ここから、出ようと思えば出られるかもしれない。……二階だもの。飛び降りるのはちょっと怖いけど……あ、そうだ。シーツを使えば、もう少し安全に降りられるかも。
けど……ここから外に出ても、どうしたらいいのだろう。鞄は取り上げられてしまったから、今のわたしは身体一つだ。財布も携帯も持っていない。ついでに言うなら靴もない。そんな状態では、どこにも行けない。かといって、庭から正面玄関に回り込んで家の中に入ったら、確実に誰かに見つかってしまう。
ここから逃げ出すのは無理だ。わたしは窓を閉め、部屋の中に戻った。暗い気持ちで、ベッドに座る。頭に浮かぶのはレン君のことだ。
レン君……どうしているんだろう。お父さんにいきなり殴られたのに、わたしのことを気遣ってくれていた。その時のことを思い出しただけで、目が熱くなってくる。あんなに泣いたのに、まだわたしの中には涙が残っているんだ。わたしはベッドに突っ伏して、すすり泣いた。
そうやってすすり泣いていると、遠慮がちにドアを叩く音がした。……どうでもいい。わたしが無視していると、鍵を外す音が聞こえた。さすがに顔をあげる。
ドアが開いて、お母さんが入ってきた。後ろ手にドアを閉め、困った様子でわたしを見ている。
「……リン、お昼ごはんのことだけど」
「いらない」
わたしは即答した。食欲なんてない。
「そんなこと言わないで、ちゃんと食べてちょうだい」
「いらないったらいらないの! ごはんなんてほしくないわ! それよりここから出して!」
お母さんは、首を横に振った。
「ごめんなさい、リン。お父さんから、絶対に出すなって言われているの」
「明日は学校よ!?」
「休ませろって言われたわ。あの男の子、同じクラスなんでしょう?」
なんで……ああ、調べさせたって、言っていた。だったら、レン君が成績優秀で素行にも問題ないってこと、わかってるはずなのに。
「どうしてレン君とつきあったらいけないのよ!? レン君に何の不満があるっていうの!?」
お母さんは困った表情で、黙ってしまった。わかってる、お母さんは別にレン君に不満があるわけじゃない。ただ、お父さんをあれ以上不機嫌にしたくなくて、あわせているだけだってことぐらい。
いつだってそうだった。うさちゃんが捨てられた時も。あの時から、何も変わってない。
「……出て行って」
「リン?」
「お母さんの顔なんて見たくない! 出て行って! 出て行ってよっ!」
わたしはそう叫ぶと、枕をつかんでお母さんに投げつけた。お母さんは淋しそうな表情で、部屋から出て行った。
……ひどいことを言ってしまった。
お母さんが部屋を出て行った後、わたしはベッドに寝転んで、天井を眺めていた。突発的に沸き起こった怒りはもう収まっていて、今はただ、胸の奥に苦い気持ちだけがある。
あれ……八つ当たりって、奴よね。わたし、お母さんに八つ当たりしちゃったんだ。物事が自分の思うとおりに、ならないからって。……最低。
お母さんにあんなこと、言うべきじゃなかった。お母さんに当り散らしたって、何にもならない。この家で物事を決めるのはお父さんだし。お母さんが下手に強く何かを主張すると、お父さんから「じゃあ出て行け」と言われかねない。お父さんは二回離婚した人だ。三回目の離婚だって、きっと躊躇わない。
ついさっき、お父さんから聞かされたショックな事実が頭に甦る。わたしを生んだお母さんは、不倫して家を出て行ったということ。どうしてそんなことしたんだろう。
不倫……。オペラで、不倫を題材にしたものが幾つかある。大抵は、夫が冷たいとか、放っておかれて淋しいというのが原因だ。……お父さんの場合、両方当てはまる。それでも……やっぱり、そういうことはしてほしくなかった。
それに、本当のお母さんは、わたしとハク姉さんをこの家に残して行った。つまり、わたしたちより、その不倫相手の方が大事だったってこと? わたしたちは、いらない子だったってこと? なんでそんな人が、わたしたちのお母さんなんだろう。
そうやって、どれくらいベッドの上で物思いに耽っていたんだろう。不意に、ドアがまたノックされた。
「……誰?」
鍵を外す音がして、ドアが開いた。……お母さんだった。一緒に、甘酸っぱい匂いが入ってくる。オレンジの香りだ。
「リン……クレープシュゼットを作ったの。良かったら食べない?」
クレープシュゼット。クレープをオレンジジュースで煮込み、オレンジのリキュールを入れてフランベしたお菓子だ。わたしのお気に入りの一つ。
今日、おやつの時間までには帰ってこないはずだった。……お母さん、わたしのためにわざわざ、これを作ったんだ。さっき、あんなひどいことを言ったのに。
「……うん。食べる」
お母さんは一度部屋の外に出ると、ワゴンを押して戻って来た。ワゴンの上に、ティーセットとクレープシュゼットのお皿が乗っている。お母さんはテーブルの上に、お茶道具をセッティングし始めた。わたしはのろのろと立ち上がる。
「顔、洗ってくるね」
部屋に付属している浴室の洗面所で、顔を洗う。泣いたから目が真っ赤だ。ため息をついて、部屋に戻る。椅子の一つに座り、わたしはフォークを手に取った。クレープシュゼットを切り取って、口に入れる。
味はそんなにしなかった。でも、わたしはとにかくそれを食べた。食べないといけない。
「……お母さん」
「なに?」
「さっきはごめんなさい、当たり散らしたりして」
「いいのよ、気にしなくて」
お母さんは、そう言ってくれた。すまなさで、胸がいっぱいになる。お母さんはお父さんに表立っては逆らえないけど、幾つかの事実を黙ってくれていたのに。
「お母さんは……」
わたしは訊きかけて、躊躇った。
「どうしたの?」
「……お母さん、この家を出て行きたいって思ったこと、ある?」
悩んだ末、わたしは疑問を口にした。お母さんには、出て行こうと思えば離婚という選択肢がある。わたしたちと、違って。
お母さんは、深いため息をついた。そして、わたしの頭を軽く撫でる。
「……あなたたちを置いて出て行けるわけないでしょう?」
お母さんは、そう言って淋しそうに笑った。
「リンたちを連れて行けるんなら、出て行ったかもしれない。でも、血が繋がってないお母さんじゃ、リンたちを引き取れないの」
「わたしたちがいなかったら……出て行ってた?」
わたし、お母さんの足枷になってたってこと?
「そうね……出て行ったかも。でも、リンたちがいなかったら、お父さん、お母さんと結婚する気にはならなかったと思うわ」
わたしは、また暗い気分になった。お父さん、「育児」を任せるために、お母さんと結婚したんだ。
「お母さんは、わたしの本当のお母さんがどうして出て行ったのか、知ってたの?」
「ええ。……ハクがひきこもった時に聞いたわ」
「わたしたち……いらない子だったの?」
「あのね、リン。不倫してしまうと、親権を取るのに不利になってしまうの。この家は裕福だし、裁判所が『父親に渡すのが妥当である』と判断しただけだと思うわ」
お母さんは、そう説明してくれたけど、わたしは納得できなかった。
だって……いらない子じゃないのなら、どうして一度も連絡がないの? ハク姉さん、あんなに本当のお母さんに会いたがっているのに。
会ったこともない人のことを、あれこれ考えても仕方がない。でも、わたしは、実母に対する苛立ちを感じずにはいられなかった。
わたし……どうして、お母さんの子供に生まれて来なかったのかな。
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