思い出には、色褪せないものがある。
 この記憶もその一つ。
 誰にも言ったことはないけれど、私の大切な宝物としてしっかり心の中にしまわれている。

『頑張ろうね、ミクちゃん』
『うん…ね、リンちゃん』
『なあに?』
『お勤めが終わったとき…いつになるか分からないけど、一緒にお外を歩こう?』

 それは、あの日指切りをした小さな約束。
 世界の虚しさも儚さも知らなかった私達は、陳腐とも言える言葉に力があると信じていた。

『その日が来るまで、待っていて』

 それは、寒い冬の日の事。
 冷たく澄んだ空気の中で、夕日が美しく輝いていた。
 橙色の光が、世界を優しく照らし出す。

『うん、待ってる』

 私は、笑顔で答えた。
 涙に濡れた緑の瞳が、私のそんな一言で明るく輝くのを見るのが何よりも嬉しかったから。



<それは終わる事なく・リン>



 私は唯じっと座っていた。
 何を見るでもなく、何を思うでもなく、唯の空の器として…じっと座っていた。
 何も考えることが出来ない。

 ミクが、死んだ。

 それが何を意味するのか、考えたくない。
 なのに、ふい、と頭の中を過ぎる情景は、ただでさえ白いミクの顔がもっと白くなっている様。きっと違いはそれだけで、傍目には生きているかのように見えるのだろう。
 その有様を見た訳ではない。そんな暇も無ければ、店も許してくれない。
 だけど、簡単に思い描く事が出来る―――馬鹿みたいだ。そんなものを想像出来て、何だというのだろう。
 ただ痛みが増すだけなのに。

「…」

 何をすればいいのか分からない。
 生きていく事、息をする事。…それをこんなに難しい事に感じたのは、初めて。

 私は、ミクの事が大切だった。それはもう、言葉に出来ないくらいに。
 子供じみた執着だという気もする。
 でも私が友達だと呼べるのはミクだけ。

 ―――ミクだけ。

 私の側には同じ境遇の存在が彼女しかいなかったから、そのせいもあるのかもしれない。
 共感できる相手。分かりあえる相手。
 私達はずっとそういう関係でいられると、思い込んでいた。

 そう、今冷静に考えてみれば…ちょっとおかしな程に。



 例えば、私もミクと同じように、初恋はレンにだった。
 おまけに一目惚れ。笑ってしまいそうな位に在り来りな流れだけれど、彼の美しい顔立ちと明るい笑顔に、私もまた惹かれた。
 あれは何年前の事だっただろう。
 きっと彼がこの街に来る様になって直ぐの事―――だって、それから暫くの間、私と彼が顔を合わせることは無かったのだから。
 街でレンを見かけて恋に落ち、ふらふら後を着いて行った。初夏の頃だったから風の中に花の香りが満ちていて、まるで夢の中に居るかのようだった。
 あの角を曲がり、この角を曲がり、彼が足を止めたところでこっそりと建物の影に隠れ…そこで私は目を見張る。

 …ミクがいた。
 その時既に疎遠にはなっていたけれど、ミクの姿は全然変わっていなかった。
 レンに花を渡されて、そんなミクが、とても幸せそうに笑う。



 その時の気持ちを何と言えば良いのか、私には分からない。



 両方に対する嫉妬、理由の分からない虚脱感、胸を刺すような痛み…そして、諦め。

 ―――ああ、そうか。

 激しい感情が行き過ぎた後、私は寒々とした思いで考えた。
 腑に落ちたような気がした。全てが。

 ―――そうか。…そう、だよね。
 
 ミクがレンに恋すること。
 レンがミクに恋すること。
 非常に自然で、何の破綻もない。

 …何の破綻もない。

 ただ、そこには私の入る場所なんて何処にも無いというだけで。

 それに気付いた時、不意に足元が砂の山になったような気がした。
 崩れていく。崩れていく。…全て。
 胸元に抱えた包みを抱く手に力が篭る。
 顔から血の気が引いていくのを、他人事の様に感じた。
 私が考えていたのは、唯一つ。
 ほとばしるようなその感情の前に、芽生えたばかりの恋なんていう柔らかな感情は吹き飛ばされるしかなかった。



 ―――取らないで。



 私は、そう叫びたかった。
 私でさえ見たことのない笑顔を存分に受け止める、「その男」に向かって。





 ―――私からミクを、取らないで!





 叶うなら、建物から出て叫び散らしたかった。
 でも、そんなこと言えるはずがない。
 言って、良い結果を生むはずがない。
 大体私は…そんな事を言える立場にはないんだから。
 胸の中での葛藤の末、勝ったのは長年育んで来た理性だった。
 だから私は、唯強く唇を噛み締めながら、その場から去るしかなかった。

 今考えると、たいした笑い話だ。
 まさかそんな風にして初恋が終わるだなんて、絶対に考え付くはずがない。事実は小説より奇なり、と言う良い例かもしれない。…嫌な例だけれど。

 そう、私とミクは、その時既に「仲良し」ではなくなっていた。
 小さい頃は仲が良かった私とミクも、大きくなるに連れて少しずつ溝が出来て来た…丁度そのあたりの時期だったように記憶している。
 特に私は生来勝ち気、というか婉曲を苦手とするくせに気位が高いものだから、街の「一番」を張り合う様になってからは溝が加速度的に深くなった。
 だって、やっぱり何か張り合うのだとしたら、負けたくない。
 相手が友人であっても、そこは譲れなかった。
 けれど張り合ってみたところで何時だってミクには勝てなくて、差なんて殆ど無かったにしてもずっと私は「二番」。

 嫌いになった事は何度もあった。ミクがいなくなれば街の「一番」は私になるのに、なんて物騒な事を考えたことさえないではない。
 けれど、ずっと好きでもあった。
 恋愛感情とはまた違うだろうけれど、あのどこか不安げな瞳が明るく輝くのを見るのが好きだった。
 たとえどれだけ時が経とうと、本当のミクを知っているのは私だけ。飾らない笑顔も涙も、私しか知らない。そんなふうに思える事が嬉しかったんだと思う。
 今は店も違い、立つ場所も違い、思いも重ならない。
 だけどいつか、また同じ場所を見ることが出来るんだと信じていたから。…昔に交わしたあの約束が本当になる日を信じていたから。
 何時までも、どんな形であれミクの「一番」側にいるのは私だと―――思っていたから。

 でも、そこにレンが現れた。
 私を押し退けて、ミクの心の全部を奪ってしまうかもしれない、彼が。
 別に、ミクがレンに恋をすることには何の異議もない。というか、先に述べたようにごくごく自然。

 だけど、だけど…もしそれで、ミクの心から私が弾き出されてしまったら!?

 怖かった。

 思えばその時から、私は酷く臆病になってしまったような気がする。
 最初から一度だって私のものだった事なんてないって言うのに、ミクを失う事が怖い。
 もうミクだって私の事を友達だと思ってなんていないかもしれない。それ程に私達は遠く離れてしまったから。
 でも私は。



 ―――私は、あの日の優しい光を諦められない…!



 レンがいつの間にか私に好意を持つようになっていたのには気付いていた。
 恐らく、紛れもなく本物の想いだろう。

 どんなに幸せに思えただろうか…私がレンに恋をしていた、あの時だったら。
 でも、私の恋は既に終わった。考え得る限り、最悪の形で。
 だから、彼に抱かれても溺れることは出来なかった。
 客観的な目線で、忠告も出来た。

 …まさかそれが逆に、彼の気を引く結果になるだなんて。

 てっきり彼はミクと恋仲なのだと思っていたのに―――本当のレンは恋など知らない、幼い少年だったのだ。
 流石に少し可愛いと思ってしまった。
 彼は私と同い年なのにまるで背伸びをしている子供の様で、弟でも見ているかのような気になる。
 彼は確かに傲慢で情けを知らない。
 それでも、恋の色彩を欠いた私の目からは、右往左往している彼の不安も良く見えた。
 手助けをしてやりたいと思わせる、それもまた人徳と言えるのかもしれない。

 でもその感情は、明らかに恋とは違う。

 どうしようもない状況に、私は頭を抱えた。
 ああ、初めて肌を重ねたのが何年か早ければ良かったのに。
 あのミクの笑顔を見る前だったら良かったのに。
 そうしたら、私はきっと彼を「特別な男性」として見ることが出来た。

 けれど、そう―――もう全てが遅い。

 戻らない時間と還らない命。
 どちらも歎けど戻らない。
 私はきっとこれから先、ミクの心から私の居場所を奪い、かつ彼女を孤独に死なせたレンを信じることが出来ないだろう。夢だけ、希望だけちらつかせてミクを痛め付けたレンを。
 憎しみに限りなく近い嫌悪。
 愛することが出来れば、どれだけ良いだろう。

 けれど、とかく人の心は御し難い。

 ミクの死が私に与えた衝撃は、育ち始めていた彼への好意を、またもや吹き飛ばしていった。

 雨音が響く世界は、酷く肌寒い。

 ―――ミク。
 ミクは、どう思っていたのかな。

 ふと、それを考える。
 彼女は最期まで信じていたのだろうか。レンが迎えに来ると。
 せめて、絶望の内に去って行ったのではありませんように。

 つう、と頬を伝う雨。
 その生暖かさに絶望しながら、私は口を開いた。
 レンを拒んだ私の側には、誰もいない。
 いつかこの空虚は埋まるだろうか。
 ―――埋まらないで欲しい、と願う自分は、愚かだろうか。

「…ねえ、私、待ってるから」

 私はここから動かない。
 動いてしまえば、もう二度とミクとは会えないような気がして。

「だから、いつかまた…一緒に…」

 私はここで待ち続ける。
 永遠に、待ち続ける。
 叶わぬ約束と知りながら、彼女とまた並んで歩くことの出来るその日を。

 愛ではなかった。恋でもなかった。
 でもその約束は、交わした思いは―――その全てより遥かに強い絆だったと、信じたかった。



 外は雨。
 夕日が見えることは、もう二度とない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

それは終わる事なく・リン

でもあくまでミク→レンなので、ミクが生きていたとしてもリンのもとにミクが戻ることはまずありえません。大体大人になったミクはそこまでリンの事を気にかけてはいません。
レン→リンなら尚更、ミクがリンの所に行く事はないでしょう。

何となく、リンは大人だけどミクに対してだけは子供みたいな執着心を持っている気がします。

閲覧数:1,698

投稿日:2011/02/18 22:36:51

文字数:4,171文字

カテゴリ:小説

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  • なのこ

    なのこ

    ご意見・ご感想

    約束ってのは時間と共に風化されちゃいますよね・・・雨嫌ですよねこっちまでウジウジしちゃいます!                                              
    ブクマもらいます!

    2011/05/10 18:11:42

    • 翔破

      翔破

      コメントありがとうございます!
      決意にしろ約束にしろ、「絶対に忘れない!」と思っているようなものでもそのうち曖昧になってしまうものですよね…
      傘を持っていない時の雨は正直泣きそうになります。

      ブクマありがとうございました!

      2011/05/11 18:41:41

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