疾走するアウターバイクの速度を徐々に緩めていく。
(……そろそろだな)
 放射能の安全圏をもうじき抜け出る。これより先は生身の部分を晒す事はできない。毛髪の一本すら、だ。
 バイクを止め、マスクを外した。三百キロの速度から顔面を守るためのそれは頭部の露出部分が多く、お世辞にもNBC装備とはいえない。
 荷台からスーツと揃いのヘルメットを取り出し、マスクと交換した。ぼさぼさの銀髪をキーハと同じように後ろに掻き上げ、被る。幸いにも臭くはなかった。
 視界の制限されるヘルメットから、改めて周りを眺めた。草木の一本すらない荒れ果てた土地だった。地上に残された酸素は減りはするが増えはしないだろう。今度は少し遠くを見やる。鉄塔がひしゃげ、高層のビルは崩れ落ち、黄色く濁った湖は汚染から立ち直れないでいた。更に遠くを見る。前方の山は枯れ木ばかりの禿山で、その枯れ木も一方向に不自然な角度で傾いでいた。爆心地である証拠だった。
 何もかもが終わっている。リオンはそう思った。こんな冷たい、生者を突き放したような世界に自分が存在できる事がとても可笑しく感じられた。
 まるで地獄みたいじゃないか。じゃぁ天国はどこにある? 答えは、きっと、塵とガスで覆われた黒い曇天の向こうにある。それが彼の唯一つの願いだった。そこはジャンクのモニタで見た広い、清浄な青空があるのだ。自分はいつかそこに行ける日が来るのだろうか。いや、きっと、無理だろう。――多分、無理だろう。
 キメラの気配がした。やはり、キーハの言う通り夜は活動している個体が多い。そっと、バイクに縛ってあったレイピアを鞘から抜き放った。夜の僅かな光を反射して、単分子の刃がぎらりと煌いた。
 距離は推定で十五メートル。もっと早く気付いても良かった。一触即発の緊迫感に彼は身震いした。
 ――来る!
 ヘルメットの暗視装置をフルに活かし、リオンは敵を見た。
 軟体動物のキメラなのか関節らしき関節がなく、海星のような構造で、蛸に近い七本の脚を地面にのたまわらせている。
 でかい。その身体は小型車ほどはある。脚をよく見れば、しかしそれは脚ではなかった。とても太く大きい、蛇だった。
 そのうちの二本がリオンに向けて鎌首をもたげ、そのまま高速で地を走った。
 リオンは咄嗟の反応で後ろに飛び退り、慌ててレイピアを振る。レイピアはあまりにも隙が大きい弧を描いたが、突進してきた二本の大蛇を鋭利に切り裂いた。キメラは身悶えしながら苦痛に身体を捩じらせている。
 ……斬った。初めてキメラと一対一で戦う恐怖に溺れる前に、キメラは体勢を整えなおしリオンと距離をとる。
 そういえば、リオンは思った。スーツに傷がつけられたら一巻の終わりじゃないか。破けた場合、彼は放射能に汚染されながらの探索となる――つまりは探索の不可能を示す事だ。
 キメラがそんなリオンの逡巡などよそに跳んだ。ばねのように身体を縮め、彼の背丈の三倍はあろうかという高さから落下してくる。リオンは深く腰を落とし、横に跳躍した。的を外したキメラは無防備な側面をリオンに晒す。
 リオンは一息に詰めた。ブーツが砂利に食い込んで小気味いい音を鳴らす。レイピアを、今度は海星のような肉体の中心へと突き立てた。暴れる。蛇の触手を蹴飛ばしながら更に捻じ込む。激しい痙攣の後、キメラはやがて動かなくなった。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
 やれた。自分ひとりでも、キメラを殺せた。途端、戦いの間押し込めていた恐怖が沸きあがった。がくがくと膝が笑う。ひ、ひひひ。と気が違ったかのような声も漏れた。何をやっているんだ、俺は。こんなことでこれからやっていけるのか。
 だがいくら叱咤したところで、膝の笑いは止まる事はなかった。


     デビリッシュティアーズ

 一人薄暗い自室に閉じこもり、ジャッカルは我が妹を助ける手段を模索していた。リオンが薬を持ってくるのをただ手をこまねいて待っているわけにはいかない。
 薬。そう、薬だ。旅立つ前にリオンから手渡されたメモに目を通す。医学に疎い自分には理解不能な説明書きの後にその薬品名があった。投与する場合は経皮注射――つまりは静脈に注射器を使って投与しろとある。
 自分に医者の真似事など出来るのだろうか。いや、それ以前にその薬品を見つける事が先決だ。それがなければ話にならない。
 周りは廃墟だ。探すとなればそれ相応の覚悟が必要となる。だが地上は無理だ。焼け落ちずに顕在するドームシェルターもあるにはあるが用途不明の機材で埋め尽くされており薬品や食料の類はない。
 僅かな可能性としては地下があげられる。企業の倉庫、一般市民の個人シェルター、遺伝子開発研究所。
 ――研究所。
 ふとジャッカルの頭にインスピレーションのようなものが降りた。ディリスを助けてくれたキメラ、あいつが連れて行ったのはもしかしたらその遺伝子開発研究所ではなかったのではないか、という予感。
 遺伝子をいじるくらいだ。なんらかの薬品はある。ディリスに合う薬も見つかるかもしれない。
 市街地図を引っ張り出した。乱雑な棚から他の何冊もの――主にピンク色の――書籍を巻き添えに落下させ、ベッドの上でそれを広げた。
 自分が歩いた場所の記憶と地図の情報を照らし合わせる。地図はもちろん戦争前のものだ。倒壊、陥没によって道が塞がれナビとしては役に立たないが、施設の所在だけは当てに出来、明確に示してはいた。
 徐々に照合していくデータ。間違いない。キメラが案内したあの場所は遺伝子開発研究所に相違なかった。
 あるかもしれない。なくてもその時はリオンが何とかしてくれる。
 地図にもう一度目を通し、荷物を纏め、ジャッカルは自室を後にした。

「暗いな……」
 呟き、ジャッカルの声は地下通路に反響していく。キメラに案内されたあの場所に彼はいま一度足を踏み入れている。
 ディリスの顔を見ておこうか、そうジャッカルは思ったがやめた。もし死んでいたら――そう、心の奥底で不吉な想像だけが渦巻いている。
 黴臭い通路をカンテラで照らしだす。ここの通路はアルゴンライトが全て壊れているらしく光源は全くない。戦争があった日から誰も踏み込んでいないのか、雪を踏んだような足跡がリノリウムの床に付いた。そんなことだから、襲い掛かるキメラの心配はないように思えた。
 左手にドアが見えた。何に使用されていた部屋なのか表記はないが取り合えず開ける。今は手当たり次第の総当たりだ。
 軋む音一つ立てずドアはすんなりと開く。
 部屋を照らした。埃塗れは想像の通りだが何か異様な雰囲気をジャッカルは感じ取った。
ひりひりと皮膚が焼け付く感じ。キメラと出会ったときに似ている。
 フランベルジュを抜き出し身構えつつ彼は室内に侵入した。気配がしたらどのような状況であれ警戒を怠るな、班長が口を酸っぱくしていっていた。
 室内は十五畳ほどでさして広くはなかったが左手にドアが見える。ドアの横、壁に身を忍ばせ右手でそっと開き、三秒待って突入した。
「……!」
 彼は目を瞠った。そして、キメラに似た異様な雰囲気の正体を知った。
 それは円筒の培養液槽の中で浮揚している、化け物だった。人間の首から下が蜥蜴のもの、羽が生えていない鳥の身体から何本も突き出している触手、巨大な目玉、それ単体で今も尚脈動する心臓。キメラの、前身と見られる物体たちだった。
 おぞましい。これが人間のする所業なのか? 悪魔に取り憑かれた狂人の産物ではないのか? キメラはこうして生まれたのか?
 その全てをジャッカルは剣で叩き割った。培養液が溢れ、中の『なり損ね』がべしゃっ、と床に打ち付けられる。心臓らしき物は動く事を止めた。
 ぜぃぜぃとジャッカルは肩で息をしていた。鼓動は早く、眩暈がする。ふらりと足元が覚束なくなり、近くのテーブルに手をついた。
 かつんと音がして、なにか壜らしきものに指が当たる。
 ジャッカルはそれを掴んだ。服で拭ってラベルの汚れを取る。
『培養促進剤』
 そして小さく手書きの文字、『2058・07・28 A13 dvl』。
 化け物を作る薬だ。直感で理解した。捨てようとして、躊躇った。揮発性の可能性もある。迂闊に壜を破壊したら厄介だ。そっともとの場所に戻した。
 ディリスを助けたらここに用はない。爆弾で吹き飛ばしてやる。ジャッカルはそう心に刻み、足早にその部屋を後にした。

 時を経て翌日の早朝、リオンは無事第七対核シェルターまで到達した。帰りの燃料がいささか心もとない気がするが、敢えて楽観視する。
 誤算がもう一つあった。積んだ荷物の事だった。汚染されて使い物にならない。シュラフはスーツを着たままで使い、ここで破棄するとして、食料が一番の問題だった。NBCの布か何かで包めばよかったのだが、おそらく汚染されていて喰えない。バイクやレイピアなど洗浄すればいいものと違って直接口にするわけだからいかんともし難い。シェルターで食料が見つかるのを祈るだけだった。
 シェルター地上部は本当に何もなかった。前に探索した時と同様、瓦礫一つ残っていない。塵になるまで焼き尽くされたのだと、戦争の凄まじさを実感した。
 巨人が斧を打ち下ろしたのだと思わせるような深い溝――ほとんど渓谷のそれを見下ろす。この下にある対核ゲートを潜ればシェルター内部だった。
 意を決し、至る道をリオンは歩き出した。ディリスを助けるために。生きて帰るために。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります

絶望の廃墟に降る死の灰_その3

短編程度の厚みしかないと思ってたけど結構あるなぁ・・・。

閲覧数:91

投稿日:2009/07/18 03:25:58

文字数:3,907文字

カテゴリ:小説

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