■銀座線で日本橋で下車し株都に着いたのは六時少し前だった。店内を見回して海野がまだ来ていない事を確認し、出入口に一番近い席についた。二、三名の先客がいた。五十名以上は十分に収容できる店舗からすると閑散としていた。手持無沙汰の店員が早速オーダーを取りに来た。土岐は「相客が来る迄待ってくれ」と伝え手帳を広げた。手帳には関西と北陸での調査メモがはみ出しそうな程に書込まれていた。六時を少し回った所で海野が飄々と現れた。「よう」と人懐っこい様な馴れ馴れしい様な挨拶をする。初対面からそういう人間であった事を土岐は思い出していた。「ごぶさたしています」「どう?調査の方は」「混乱してます」「こっちはもう完全に片付いた。俺は今お宮さん担当だ」「コールドケースすか」「そう。緊急の初動捜査や人手の足りない時には駆出されるが今の所警察組織の威信をかける様な重大な事案がないんでそれ以外は昔の書類の閲覧だ。洟ぶく提燈で居眠りばかりしてる。定年迄あと半年もないから安楽死というか重要な事案は引摺らない様にとのお偉いさんの有難いご配慮だ」注文取りが来たので海野は前回と全く同じ物を注文した。土岐はどうでもよかったので海野に任せた。土岐は待ちきれない様に話出した。「仁美の証言で自殺に処理された様ですが偽証である事が証明できます」「ほう。それはたしたもんだ」と言い放って海野は土岐の説明を待っている。土岐は躊躇している。土岐の情報がUSライフの大野に筒抜けだとすれば民事で隠し玉として使えなくなる。「言ってもいんすが大野直子の話がちょっと気になってまして」「会ったのかあの色っぽいねえちゃんに」「彼女が言うには海野さんはUSライフの嘱託に内定したとか」「その事か。まあ内定は被雇用者が蹴っても企業側は損害賠償請求はできないという判例がある。彼女に対して俺が内定に承諾したと思わせる受答えをしたというのが正確な所だ」「と言う事は」「お前は人を見る目がないな。俺がこの年でなんで警部補だか全く理解してない。定年間際でいまだに警部補なんていう刑事はまずお目にかかれないぞ。懲罰的な意味合で警部補に留めおくというケースもあるが俺の場合は最後迄とうとう組織に馴染めなかったというケースだ。警察に入った頃から上司の意向には悉く反抗してきた。特に自分の手柄を立てようとする上司には徹底的に逆らった。部下のやった事を自分の手柄にして上役にアピールし出世を画策し、部下をどこ迄も利用し平気な面をしている奴を見ると反吐が出た。一将功成り万骨枯るだ。そういう俺がUSライフの様な組織に馴染むと思うか?嘱託であれ正社員であれ組織に属せば命令に従わなきゃならん。それにあのねえちゃんにUSライフの嘱託を了承したと思わせとけば、保険会社の情報も入手できる」土岐は聞き乍、幾度も納得した様に頷いた。「でどんな情報が入手できたんすか」「お前の情報と交換で話してやろう」そこで海野は運ばれてきた生ビールを一口飲み付出しに箸をつけた。「USライフとしては廣川が自殺であれば死亡保険金三千万を支払わないで済む。だから仁美を抱込む事は理解できない事ではないが、そのやり方が少し度を超えている。まず認知症の仁美の母親を費用の安い水上の山奥から仁美の自宅に近い船橋法典の地方自治体の第3セクターが運営する特養に移転させた。この時鼻薬を嗅がせて、地元の市議会議員に斡旋を依頼した人物がいる」「誰すか」「誰だと思う」海野はにやりと笑う。土岐はかぶりを振って生ビールのジョッキを口に運んだ。「長田すか」「あんなフ―テンにそんな政治力はない。船井だ。船井は今は建築士事務所を構えているが嘗て衆議院議員だった時の人脈が太く残ってる。船井は議員であり続けるよりこの人脈を使って公共事業の箱物行政を食い物にして私腹を肥やす事を選んだ。カネはUSライフから出てるが、その圧力は大株主から出てる」「大株主って、USライフは非上場じゃないすか?どうして分かったんすか」「非上場だが有価証券届出書提出会社だ。一億の社債を発行してるんで有価証券報告書を提出する義務がある。EDINETで閲覧したら大株主に八紘物産の名前があった。八紘物産からの圧力があって医療介護保険を捏造し中井愛子を被保険者とした保険契約を偽造した疑いがある。そうでなければ安月給の仁美に月額二十万近い特養の入所費用が支払えるはずがない。そういうリスクを冒して迄、仁美に偽証させるとなると三千万の死亡保険金の支払をけちるというストーリーがやや弱くなる。カネだけの問題じゃない。保険契約書偽造という罪を犯してる。ばれればUSライフは金融庁から何らかの行政処分を受ける。ダメージは三千万どころではないだろう。とすればそれ以上の何かがあるという事になる。廣川を自殺とする事で生じる三千万を超える何かが八紘物産絡みであるはずだ」土岐は海野の真剣な顔と生ビールの泡を交互に見つめていた。海野のシミやイボだらけの老醜に塗れた真面目な表情を凝視する事は土岐には耐えられなかった。土岐は切出した。「それじゃ、私の方からも決定的な情報を。仁美の目撃情報は物理的にあり得ないという結論す」「ほう」と海野はジョッキを傾ける。聞いてやるから言ってみろという様な風情だ。海野は顔を少し斜にして右耳を土岐の方に傾けている。「廣川を轢いた電車は五時三分発なんすがその時間に仁美が現場にいる事は不可能だった」「どうして」「同僚の双葉智子の証言では仁美は五時丁度に三光ビルにある会社の部屋を出ているんすが男の足で走っても五分以上かかるんす現場に到達するには」「だから五時三分発の電車に轢かれた現場を仁美は目撃できなかったという論法か」「そうす」「それはちょっと弱いな」「なんで」「ラッシュの時間帯のダイヤは平気で二、三分の遅れが出る。乗客が扉の締まる寸前でドアに駆込んで挟まれただけで数十秒の遅れが出る。それが何駅も続けば一、二分の遅れはざらだ。それだけじゃない。線路は一本しかないからダイヤの遅れは一番遅れた電車と同じになる。だからラッシュの時間帯には駅の電光掲示で次発の発車時刻は出さない事になってるんだ」「じゃ、その電車は遅れてたというんすか」「かも知れない。公判で覆される惧れがないとは言えない」「そうすか」土岐は肩を落として生ビールを喉に流込んだ。仕方なくもう一つの玉を出した。「それじゃ、こういうのはどうす。廣川が開示情報を郵送でなく手渡ししてた所があるんすが、その中の一つに八紘物産の第二総務部があります。さっきのUSライフの大株主の話と繋がりませんか」聞き乍海野は考込んだ。腕組をしているが腕が短く、しかも太いので組んだ腕が解けそうになっている。海野は自問自答する様に呟く。「現金授受の目的で開示情報を直接総務部に運んでいたとすればその関係を断つ為に廣川を殺害したか?いやそれはありえないな。他殺である事がばれればそのリスクは広告掲載費じゃおいつかないだろう。とすると総務部が自殺を偽装する為にUSライフに手を回したとすればその動機は何か?自らが手を染めてない他殺を隠す為に態々USライフに圧力をかける理由はなんだ」海野はおつまみにも生ビールにも手を出さずに考込んでいる。土岐は海野がUSライフに籠絡されていない事を信じて手の内を見せる事にした。「実は大手町の高層ビルの谷間に船井ビルという雑居ビルがあって、このビルに最近迄開示情報に広告を出し続けていた広告主の事務所があって一つは今話した八紘物産の第二総務部、それからビルのオーナーの船井の建築士事務所、もう一つは長瀬の会計士事務所、最後が海野さんの同業者だった玉井の玉井企画。こいつらを取調べれば事件の全貌が間違いなく明らかになると踏んでます。ただ今の所有無を言わせない様な証拠がないので直接調査する事をためらってます」そう土岐が言っても海野はまだ考込んでいる。土岐は手帳を広げて更に続けた。「ついでに言うとこのビルには八紘物産中興の祖と言われる馬田の事務所もあって、この馬田と船井と長瀬は其々海軍の兵学校、経理学校、機関学校に入学してるんすが三人共卒業してないんす。更に言うと廣川も陸軍予備士官学校に入学してるんすがこちらも卒業した形跡がありません。しかも廣川は入学した一年後に京都の清和家の書生となって松村という偽名で終戦を迎えてます」海野が目を細めてぽつりと言った。「一人でよく調べたな。俺が警察組織を使って調べた事と余り遜色がない」「余りと言うと」「廣川は陸軍中野学校に引抜かれたんだ。両親も兄弟もいなかった。余程予備士官学校の入学成績が良かったんだろうな。格好の人材だ」「と言う事は廣川はスパイだったんすか」「多分清和家の書生として潜込んだのは京都の清和家と東京の久邇家の日米和平工作を潰すのが目的だったんだろう。終戦間際の陸軍は徹底抗戦の方針で本土決戦を企ててた。和平推進派の清和家と久邇家は陸軍にマークされてた」「じゃ、その事が殺害の原因だったんすか」「六十年以上も前の話だ。どんな悪事も全て時効になってる。無関係とは思わないがそれが直接の原因だとしたら廣川はもっと早く殺されていただろう」二人の間に沈黙が訪れた。サラリーマン客が増えてきて酒場独特の喧騒が飛交い始めた。周囲の雑音が二人の黙考を際立たせた。「仁美の口を割らせる材料はないだろうか」と独り言の様に土岐が言うと海野が応じた。「もう一人の目撃証言が得られた。自殺で処理した後だったけどな。あんな安看板でも役に立った」土岐は海野の無精髭に包まれた口元を凝視した。海野はその口を徐に開いた。「男子学生だ。バイトの帰りだったと言ってる。親に内緒で大学さぼってやってたから、ずっと迷ってた。証言内容は仁美の最初の証言によく似てる。本人はエスカレータ脇の狭い乗車位置で壁に寄掛かってたそうだ。前日大酒飲んで二日酔いでバイトしたんで酷く疲れてたそうだ。前に老人二人が並んでた。人の流れはエスカレータを降りてホーム中央に向かうのでそこに人通りは殆どなかったそうだ。学生と老人の間に空間があった。学生は列を詰めて並んでいなかった。そこに電車が入線してくる警笛がした。その時小柄な男が学生と老人の間を擦抜けようとしてよろめいた。正確にはよろめいた様に見えた。学生はホームの端を歩いてた男が警笛に吃驚してホームの内側に歩く方向を変えた拍子にバランスを崩したんだろうと思ったそうだ。その直前に廣川が杖を手から滑らせて隣の老人がその杖を拾った瞬間、よろめいた男が廣川に接触し、ホーム前方に更によろめいた。隣の老人が杖を差出して廣川はそれを掴もうとしたが隣の老人が杖で突押す様な形でホームに転落した。学生は茫然とその情景を眺めていたが気付いた時には隣の老人もよろめいた男もいなくなっていて自分好みのOLが気が抜けた様にそこに立っていたそうだ。そのOLは騒然とするホームに立ち続け、ずっと携帯電話していたそうだ。俺の勘ではそのOLが仁美だ。学生に仁美の写真を見せたら似てるとの事だった」「そうするとそのよろめいた男が殺人犯という事すか」「それが事故だとすればもう一人の老人は逃走する必要はないはずだ。学生の記憶では廣川が落とした杖で線路に押出した様に見えたという事だ。その老人は普段誰も使用しない階段を駆上がって改札を出て行ったと駅員が証言している」「岡田という人すね」「そうだ。しかしよろめいた男の方は目撃されてない。少なくとも目撃者は他に現れてない。多分エスカレータの周りを一回りしてホームの反対側迄ゆっくり歩いて日比谷線の階段を上って行ったんだろう。ラッシュの時間帯じゃ誰も気付かない。ましてや人々は事故のあった日本橋寄りのホームに注意をとられてる。参考迄にこれがその男の似顔絵だ。学生は横顔しか見てないと言うので横顔の似顔絵になった。原画を縮小してある。原寸よりも縮小した方がリアリティがあるのが不思議だ」と海野は懐からB5に縮小された似顔絵のコピーを取出した。斜めにつんのめっている様な男の右の横顔がクロッキーで描かれていた。頬骨が突出て顎骨の鰓がはり、眼窩の窪んでいるのが特徴だ。玉蜀黍の様に細長い顔立ちを土岐はどこかで見た様な気がした。余りに顔が狭いので眼が顔に収まりきらず斜めに吊り上っている。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月八日2

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投稿日:2022/04/08 06:53:34

文字数:5,035文字

カテゴリ:小説

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