「同時に廣川も同業の総会屋の情報をあんたに流したから、あんたもそこそこに総会屋を摘発して業績をあげた。ある意味で持ちつ持たれつだった。しかし廣川からの情報だと分かるとまずいから適当にお目溢しもした。その点は職務義務違反だろう。俺はそういう噂を昔署内で聞いた事があった。火のない所に煙は立たない。どんな悪事も九十九%隠した所で一%発覚すればそれ迄だ。だからあんたは定年退職後もボランティアで特暴連に協力する形で悪事が露見されない様にする必要があった。問題は長瀬が一般推薦で紫綬褒章を貰う画策をした事だ。久邇頼道を推薦人、馬田と船井を賛同者とした。本人に犯罪歴がなければ受章は間違いない。実際夏頃にほぼ内定してた。そこで登場したのが長田だ。廣川は長田を知ってる。知ってはいるが深い付合いはない。人生で出会った多くの人物の中の一人にすぎなかった。しかし長田の方は廣川が自分の孫娘仁美の母方の祖父ではないかという疑念を抱いていた。DNA鑑定をすれば一発で分かる事だが長田が廣川に打診した所、廣川にも何となく心当りがあった。愛子の写真を見せられて自分に何となく似てると思った。愛子と仁美が困窮してると聞かされて取敢えず水上の老人ホームから愛子を船橋法典の特養ホームに移動させる手配を船井を通じてとった。そのやりとりの中で長田と三田が極めて近い関係にあった事を聞かされた。具体的な事は塔頭哲斗の学僧兵にモデルとして描かれていると長田に言われて慌てて読んでみた。小説の中では三田と長田は一蓮托生の兄弟の様に描かれている。そうだとすると長田は三田を通じて廣川が二重スパイで終戦末期に海軍の隠匿物資を横領する計画を持っていた事を知っている可能性がある。長田の狙いは愛子への資金援助ではなく、廣川、長瀬、馬田を強請る事ではないのか。特に廣川からその話を聞かされた長瀬は紫綬褒章に内定していた事もあり長田の影に怯えた。これはかつて廣川が一部上場企業を総会屋として怯えさせた手法と同じだ。弱みがある相手は総会屋と聞いただけで、その影に怯え言いなりの賛助金をだす。長瀬も時効とはいえ三田殺害の疑惑と隠匿物資横領の疑惑が明るみに出れば褒章取消しとなる事に怯えた。金井はあんたから、その話を聞きつけた。長瀬に恩を売る絶好の機会と捉えたのだろう。廣川が居なくなれば廣川の利権を手にする事ができる。同時に長瀬、船井、馬田に恩を売って何らかの見返りを期待できる。更には民子と昵懇だった事から民子を通じて廣川の遺産を入手する事もできる。更には褒章の一般推薦ビジネスを独占できる。元々このビジネスを考えたのは金井だ。金井の知合いの不動産屋が紫綬褒章を受章したのがきっかけだ。張本という不動産屋だが人品骨柄の卑しい男で金井自身、金田にもらした。どうして高等小学校しか出てないあのひひ親父が受章できたのかと不思議に思った。調べてみたら平成十五年から褒章の一般推薦制度が始まった事を知った。張本の推薦人は十数年以上後援会長として資金的に援助してきた代議士だ。金井はゆくゆく、これはロットこそ少ないものの立派な商売になる事は間違いないと踏んだ。そこで廣川に話を持ちかけて廣川の顔を利用して褒章を受けてない財界人や芸能人に売込んだ。ついでに受章後の祝賀パーティと胸像の製作をセットにして、一件当たり数百万の利益を生出した。しかしこうしたビジネスモデルは全て廣川のコネクションを利用したもので、その結果金井自身は収益の半分以下の受取りで我慢させられた。金井は長田を殺すと見せかけて廣川を殺害した。あんたらは金井が長田を殺す所を誤って廣川を殺したと思ってた。長田が生きてる限り長瀬が恐れている影は消えない。所が事件後、数日たっても長田の方から何の連絡もない。という事は長瀬が恐れた影は幻影に過ぎなかったと思う様になった。冷静に考えてみるとここ二十年間以上にわたってダニの様に小ガネをせびり続けてきた廣川が死んだ事は長瀬にとっても船井にとっても馬田にとっても、ある意味で清々した所がある。そこで長瀬と船井と馬田が政界コネクションを使って廣川の死を自殺で処理させた。これには玉井さん、あんたも一枚かんでる。その処理で困るのは加奈子程度で他には何の影響もない。全ては丸く収まった。これが俺の推理だ。玉井さん何かコメントはありますか」玉井は静かに含笑いを始めた。「まあ想像するのは勝手だ。真実は一つかも知れないが当事者達の記憶も曖昧になってる。自殺の処理で殆ど誰も困らないのであればそれはそれでいいじゃないか」「それはそうだ。真実を追求しないと職務義務違反になる等と俺なんぞ言える立場じゃないし」と海野が言うと土岐が口を挟んだ。「僕も偉そうな事を言える立場ではありませんが、実行犯とされる金井はこの儘でいんすか?何となくすっきりしませんが」海野が土岐を横眼で見た。「金井をしょっ引いてゲロさせてどうする?奴は絶対吐かないぞ。吐いたら身の破滅だという事は分ってるし吐かなければ長瀬や馬田や船井から相応の見返りが期待できる。玉井さんも金井が吐かなければ、自分の手下の様な者だから、これ迄泥臭い仕事ばかりで多少割りを食ってきたが長瀬や馬田や船井に対して立場上よくなるし」不意に玉井が短い脚で立ちあがった。「話は以上か?俺としては何も言う事はない。まあ勝手に想像してくれ。とてつもない証拠がでてきたら俺に相談してくれ。悪い様にはしない。しかし今日程度の話では何らかの申出があったとしても全く応じられないな。今日は天気がよかったし散歩がてら須田町からやって来たが、まあその甲斐は余りなかったな。何れにしても海野刑事の賢明な判断に期待してるよ。それに来年定年退職だそうで、あてがわれた再就職先に満足してないなら相談に乗ってもいいぜ」そう言い乍玉井は事務室の蛍光灯を順に消し始めた。海野は土岐に目配せして部屋の外に出た。玉井を事務室に残して、土岐と海野はエレベータに乗った。エレベータが降下し始めてから海野が言った。「やっこさん俺達がどこへ行くか確認するはずだ。これから八丁堀に行く気力はあるか」「八丁堀?」「ウォーターフロントの超高級マンションだ」「長瀬すか」「そうだ。在宅は確認してある」土岐はエレベータを降りて海野に従った。ビルを見上げると八階の電気がぼんやりと付いていた。海野の読みが正しければあのブラインドの隙間から玉井が二人の行方を追っている筈だ。海野は上から見やすい様に歩道を車道寄りに歩いている。「多分金井かその仲間の様な奴が俺達を尾行する筈だ。後ろを振向くなよ」土岐は黙って海野の脇を歩いた。
■茅場町で日比谷線に乗換えて八丁堀に着いたのは七時前だった。駅を出て東京湾方面に歩いて行くと、ひと際目立つ高層マンションがあった。周囲に場違いな程こんもりとしたLED電飾内臓の植込みがあり、一階全体が煌々とした照明に照らし出されてホテルのロビーの様になっていた。エントランスの自動扉を入ると管理人兼警備員の受付があった。海野が窓口を覗込む様にして申出た。「十七階の4号室の長瀬さんをお願いします」そう言い乍警察手帳を見せていた。「ご訪問ですか」「そうです」「お名前は」「茅場署の海野と言います」「ご用件は」「内閣府賞勲局の依頼できました」警備員は聞き取れない。「内閣府の?」海野は繰返す。「内閣府賞勲局です」「少々お待ち下さい」と言って警備員は17階の4号室に電話をかけ海野の用件を復唱する。暫くやりとりがあり「どうぞ、お会いになるそうです」そう言うとエレベータホールへの扉が開いた。黒い大理石が一面に埋込まれていた。間接照明で足元と天井だけが明るい。土岐と海野の姿が鏡の様な床や壁に亡霊の様に映出されている。海野はエレベータの上昇ボタンを押した。「これだけ警備がしっかりしていれば外から暴漢に押込まれる事もないだろう」踏込んだエレベータの箱に揺られ乍、海野は溜息を吐いた。土岐は豪勢な雰囲気に圧倒されている。「私は、どうしてればいいんすか」「マスコミ関係という事で話を合わせてくれ」「マスコミ関係?」「そっちの方の担当という事だ。イメージとしては雑誌のトップ屋かな」土岐には意味がよく分らない。海野は身震いしている。「どうもすっきりしないな。何となく胸の座り心地が悪い」17階はペントハウスだった。吹曝しのエレベータの出口から右手の東京湾をとり囲む夜景と左手の銀座の夜景が一望できた。髪を乱す風が土岐の襟元を掠めた。4号室はエレベータを出て外廊下を左に進んだ右奥にあった。手摺はあるものの道路を走る自動車が豆粒の様で高所の恐怖に足元が僅かに竦んだ。海野がアルコープ奥の黒いインターフォンを押した。「どうぞあいてます」と言う落着いたしわがれ声が聞こえた。海野はドアを引いた。玄関は三畳間程の広さがあった。エントランスと同じ黒い大理石が嵌込まれていた。靴箱の下に間接照明があり足元が異様に明るく感じられた。廊下の奥の照明を背に受けて老齢の男がホームウエアの上にガウンを着てムートンのスリッパをはき両手をガウンのポケットに突込んで仁王立ちになっていた。「茅場署の海野さん」「そうです。長瀬さんですね」「そうだがそちらの方は」と長瀬が土岐に視線を向ける。「土岐と申します」と言い乍、土岐は名刺を出した。長瀬は受取ったが見ようとしない。その儘ガウンのポケットにしまった。右手のドアを開けて入って行く。「どうぞ」土岐と海野は靴を脱いで十センチ程の高さの上框に足をかけた。長瀬と同じムートンのスリッパが用意されていた。通された応接間は十二畳程の広さがあった。壁一面に百科事典や文学全集が綺麗に並べられていた。書物としてよりも装飾として置かれている配慮が感じられた。全員が本革の黒いソファに腰を下ろすと長瀬が徐に口を開いた。「内閣府賞勲局からどういう依頼で」「身辺調査です」と海野が長瀬の顔色を窺い乍言う。「それはもう終わったはずだが」「追加調査です」「内閣府賞勲局からは今年の夏の初め頃だったか紫綬褒章に内定したが受諾するかという様な連絡があったが。それでもう終わりではないのか」「それは存じてます。新たな件で」「どんな」と言い乍長瀬がテーブルの上のシガレットケースの蓋をあける。洋モクがケース一杯に並んでいる。長瀬は卓上ライターで火をつけた。煙の臭いが土岐の鼻腔を刺した。その紫煙をちらりと眺め乍海野が言う。「廣川殺害への関与の疑いです」「何の事か知らないな」「いやあ廣川はご存じの筈です」「知ってはいるが自殺じゃなかったのか」「金井が実行犯です。長瀬さんが金井に廣川殺害を指示したという疑惑です」「金井とかいう人間は知らない」「直接は御存じではないかも知れないが玉井に廣川殺害を指示し、玉井が金井に指示した」「何の事だか分らん」と長瀬は軽く吸った煙草を深く吸込まず煙を吐出さずに口を開けた儘で煙が勝手に口蓋から出て行くのに任せている。八十歳過ぎにしては顔の色艶がいい。その落着きぶりが演技なのかどうか土岐には読めない。海野は話を変えた。「最近、殺人の時効が撤廃されまして法務省の諮問委員会から、それを更に改正する答申が出される予定です。しかもその時効撤廃の適用は過去の殺人にも及ぶという内容で」「ばかな。それは憲法上あり得ない。新法や改正法は過去には遡及して適用しないのが原則だ。過去の殺人にも及ぶと言っているのはまだ時効を迎えていない事案についてのみだ。それだってまだ解釈が分かれてる。改正法を適用して裁判になれば間違いなく弁護士は控訴審でそれを持出すはずだ」海野がしたり顔でソファに座り直して深く腰掛けた。「良くご存じで。じゃマスコミにリークするというのはいかがですか」「言っている意味が良く分らん。所轄の警察が既に処理した事案について廣川の自殺の処理が誤りで本当は他殺だったとリークする事はありえんだろう」「勿論です。この土岐さんが民間調査機関の立場でリークできます」長瀬が小さくなって畏まっている土岐を睨みつけた。「だからどうしろと言うんだ?カネか?カネを要求すれば恐喝になる。二人共私が告発すれば逮捕される」海野が右手の平を自分の鼻先で激しく左右に振った。「とんでもない。カネなんか要求しないですよ。ただ真実が知りたいだけで」「だから知らないと言ってる」「三田法蔵の件はどうです?なぜ彼を殺害したんですか」「あれは事故だ。かりに誰かが殺害したにしても六十年以上前の話だ。しかも刑法ではなく軍法の対象となるべき物だ。だが帝国海軍は既に解体してる」「それは承知してます。真実をお話し願えないのであればこちらの土岐さん経由でマスコミにリークしてお話を引出すという方法もあります」「それは名誉棄損になるぞ」「真実であれば名誉棄損にはならんでしょう。かりに名誉棄損で告訴されるという事であれば裁判を通じて真実が明らかになるでしょ」長瀬がポケットにしまった土岐の名刺を取出して見た。それから徐に細かい縦皺の入りかけてきた口を開いた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月十日4

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投稿日:2022/04/08 07:05:21

文字数:5,329文字

カテゴリ:小説

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