今より少しだけ昔、或るところに、地縛霊の少女がいました。
少女は、どんなに歩いても、毎朝川辺の木の傍に戻されてしまいます。其処は少女が首を吊った場所であり、心に最も深く突き刺さっている場所でもあるからでした。
初めの内は遠くに行こうとしていたものの、眠る度に自殺現場に戻されると知ってからは、少女はすっかりその木の下に居着いてしまいました。そして、何をする宛もなく、一人寂しくひっそりと暮らしているのでした。

或る日、近くの工場の工員が、少女の居る川辺にやって来ました。普段誰も来ない川辺でしたので、うっかり姿を消し忘れていた少女は、工員に見つかってしまいました。
「君が噂の幽霊さんかい」驚く少女に、工員は話しかけました。
「毎晩ここに、椿の簪を着けた女の子が倒れて居るって聞いたんだ。工場では専らの噂だよ」
「それは屹度私ね」怖い人では無さそうでしたので、少女は答えました。こんな風に優しく話し掛けて呉れる人は、死ぬ前には誰も居ませんでした。
「私は地縛霊で、寝て居る間に毎晩ここに戻されるのよ。これからは、姿を消してから眠るようにするわ」
「ああ、頼むよ。うちの工場では、女子供が怖がってる。男共は逆に、肝試しをしないかと盛り上がって居るんだ。見世物にされたら、君も好い気はしないだろう」
「そうね。気を付けるわ。教えて呉れてありがとう」
頭を下げる少女に、工員は笑顔で近づいて往きました。
「指切りをしよう。君は僕以外の前で姿を現さない。其の代わり、僕が友達になろう」
青年には似合わない、子供のような笑みでした。少女に初めて向けられた、嘲笑を含まない笑みでもありました。

その日から、少女と工員は仲好しになりました。工場が昼休みになると、工員は毎日川辺に通うようになりました。正直者の工員は、腹黒い工場長やその取巻きと折合いが悪く、工場内に友達がほとんど居ないのでした。
「工場長の娘は、好い子なんだけどね」梅干の酸っぱさに顔をしかめながら、工員は云いました。「他は卑怯な奴ばかりさ。男も女もね」
そんな話を聞いて居ると、少女は嬉しくなるのでした。誰かに必要とされることがこんなにも嬉しいとは、少女は知りませんでした。いつしか、少女にとって、工員の来る時間は何よりの楽しみとなっていきました。

そうしてしばらくすると、不思議なことが起こり始めました。少女が眠っている間に川辺に戻されることが減ってきたのです。
初めて別の場所で目を覚ましたとき、驚いた少女は工員に報告しました。
「へえ、珍しいね」工員は云いました。「そういうこともあるんだ」
「解らないの。何故なのかは、私にも」
少女が不思議がっている間にも、幾つもの夜が訪れ、朝がやって来ました。10日連続で川辺に戻されなくなったその日も、いつものように少女は工員と話していました。
「如何したの。元気が無いわね」
「ああ、気にしないで呉れ。大丈夫さ」
少し神経質そうに、工員が小さな歯車を弄びます。指の間を行き来する歯車を見ている内に、少女にはそれが指輪のように思えてきました。さしたる理由もなく、彼女は婚約指輪を連想しました。そしてその刹那、全てを悟ったのです。
(私、この人が好きなのだわ)
工員が来てからというもの、少女にとって川辺は忌むべき場所ではなく、彼と過ごせる幸せな場所となっていました。川辺に戻されなくなったのは、彼を好きになったことで、川辺への負の気持ちが無くなったからでした。執着の無い今、彼女は地縛霊ではありませんでした。
「ねえ、その歯車、一寸貸してくださる?」
少女は工員から歯車を受け取り、指に嵌めてみました。それは、少女の薬指に、誂えたようにぴったりでした。

次の日、少女は川辺で工員を待っていました。
(私が持っていて好いのかしら)
少女の薬指には、まだ小さな歯車が嵌まったままでした。物思いに耽っていた工員は、歯車を忘れて帰ってしまったからです。
(工場で使うかも知れないのは勿論だけれど、婚約指輪だなんて考えたものを持って置くのは、心苦しいわ)
そう思うと居ても立っても居られなくなって、少女は工員の居る工場に駆けて行きました。丁度お昼の鐘が聞こえてきます。もうすぐ工員が午前の仕事を終えて出て来る筈です。擦れ違いにならないよう、少女は急いで橋を渡りました。工場の裏手から、彼の声が聞こえた気がして、彼女は其処へ向かいました。
『君は僕以外の前で姿を現さない』
其の言葉を思い出して、彼女が姿を透明にしたときです。
「僕とお付き合いして呉れませんか」
不意に、彼の声が響きました。小さいけれど、凛とした声でした。少女は声のした方を向きました。椿の垣根の隙間から、彼と、知らない女の人が見えました。
少女の瞳に、含羞みながら頷く女の人が映りました。

「私、成仏することになったみたい」
他の人と弁当を食べることになり、しばらく川辺に来られないと工員に告げられたとき、少女の口は勝手に動いていました。
「へえ、それじゃ」
「ここに戻されなくなったのは、そういうことなの。もう地縛霊じゃないの。あの世に行くの。だから、もうお別れよ」
何か云いかける工員を遮って、彼女はまくし立てました。何も無かったように振舞おうとしましたけれど、出来ませんでした。それでも、椿の垣根越しに見たことだけは、決して匂わせようとしませんでした。勝手な片思いを、醜く終わらせる女にだけは、なりたくなかったのです。
「元気でな」
出会ったときの少年のような笑みを、工員が見せたときも、彼女は泣きませんでした。口の端を無理に上げて、微笑んで見せました。工員が去った後、ようやく彼女は大粒の涙を零し始めました。そして、工場から一歩でも離れようと、素足で石を踏みしめて歩き出しました。

次の朝、少女が目を覚ますと、あの椿の垣根が見えました。
今の彼女にとって、一番心に刺さっている場所は其処だったのです。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

落椿のロンド

Monoさんの楽曲に詞をつけようとしたのですが、いかんせん設定を細かく決めすぎてしまい……
勿体ないのと、詞と併せて読んで欲しいのとで、小説形式で投稿させていただきます。
昭和の雰囲気を出そうとして漢字を多用したのですが、「それ」など平仮名で書いた言葉もあります。要は適当です。

元の楽曲(Monoさん)
http://piapro.jp/t/nr4o


http://piapro.jp/t/knqt

閲覧数:55

投稿日:2018/02/28 22:43:36

文字数:2,439文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました