貴志子は準備完了の報告を聞いて安堵した。分からないことばかりであるが、ひょっとしたらこれで事態が好転すかもしれない。そんな気がしていた。
「これから私が犯人の携帯を鳴らすから。あなたは犯人の目の前に行って、そっちの携帯を突きつけなさい」
 ウイルスは自分の映っていない貴志子の携帯を犯人に突きつけるように命じた。
「後は私がこっちの携帯から相手を追い詰める台詞を出すから、その通りに喋りなさい」
「……分かったわ」
 俄かには信じられないことだが、貴志子には他にどうすることも出来なかった。このコンピュータウイルスを信じる他道は無いのだ。
「しっかりしなさい。殴り合いになったら私は手助けできないのよ」
 頼りなげな貴志子の様子に、ウイルスが檄を飛ばす。
「ちょ、ちょっと殴り合いになったりするわけ!」
 運動することが苦手ではないが、男の人と殴り合いになって勝てるような腕っ節は持ち合わせていない。
「一応手は打ってあるけど、実際に犯人と対峙するのはあなたなのよ。しっかりね」
 貴志子はウイルスに任せることで、どこか安心していた。しかし、やはり最終的に戦うのは自分なのだと分かり、気をしっかり持てと自分に言い聞かせた。亜紀を助けるのは自分なのだ。卑劣な悪人相手でも一歩も引かない。強烈な意思を内に秘め。貴志子の心の準備も整った。
「分かったわ」
 二度目の返事に迷いは無かった。
「それでこそ、私に相応しいわ。じゃあ、いくわよ」
 ウイルスの言葉に貴志子は唾を飲み込んだ。直後、壊れたかと思うほどの音量で派手な着信メロディが流れ始めた。
 
 あいつだ! 
 貴志子は立ち上がるとつかつかとその男に歩み寄った。
「あなた! よくも亜紀を脅してくれたわね」
「な、なんだいキミは……」
 男は携帯から流れるメロディを止めようと必死になっている。貴志子の姿に動揺を隠せないでいる辺り、結構な小心者であるようだ。
「もう分かってるのよ」
 貴志子は言われた通り、自分の携帯の画面を男に見えるように突きつけた。途端に男の顔が青ざめた。
「く、くそっ。どうなってやがるんだ」
 貴志子からは見えなかったが、今その携帯の画面には男の詳細なプロフィールが映し出されていた。例のウイルスがネット上から盗み出してきたデータだ。それによると男は貴志子と同じ大学の医学部の青年のようだった。
 亜紀の携帯に相手を追い詰めるための台詞が表示される。貴志子はそれを口に出した。
「すでに証拠は挙がっているのよ」
 突きつけている携帯の画面が変わる。今度はどこかの病院の診断書のようだ。名前は目の前の男のものではなく、別の男性の名前が示されている。
「な、なんだと!」
 男からは追い詰められた人間特有の焦りが感じられる。
 携帯に表示される文字が変わる。貴志子はそれを口にする。棒読みにならぬよう気を遣い、口調に熱を込める。 
「亜紀の車にぶつけたのは死体でしょ。解剖用に届いた死体を利用して行った犯行。死体は処分されてしまっているでしょうけれど、死亡診断書を見れば一目瞭然、その男は亜紀が車でぶつかる二日前に死んでいるのよ」
 これで大丈夫。表示された台詞から、大体のことを把握した貴志子は安堵した。だが、あまりの手際のよさが、逆に男の冷静さを奪っていた。
「ええい、邪魔だ! そこをどけっ!」
「きゃぁ!」
 男は鳴り止まない携帯を床に叩きつけると、貴志子を押し退けて通路に飛び出した。外に逃げるつもりのようだ。もうここまで証拠が揃っていては言い逃れは出来ない。となれば後は警察の手が回る前に逃げるだけであった。

 逃げられる。尻餅をついた貴志子ではもはや男を捕まえることは不可能。どうしようもなかった。卑劣な犯人を逃がしてしまうことがどうしようもなく悔しかった。
「心配することはないわよ。手は打ってあると言ったでしょ」
 貴志子の心を見透かしたようにウイルスが語りかける。そして貴志子は見た。外にパトカーが止まっているのを。サイレンこそつけていないが、あれは紛れも無くパトカーだ。
「ここまで手を回していてくれたの」
「フフッ。感謝しなさいよ」
 貴志子は感謝すると共に、このウイルスが本当に事件を解決してしまったことに驚いた。
 
 その後、当然のように男は捕まった。無銭飲食の現行犯だ。貴志子と亜紀はその場で警察と話をした。男の携帯と亜紀の携帯からすぐに事情を察した警察は、二人を事情聴取のため最寄の警察署まで送り届けた。
 もう少し後のことだが、この事件は男の携帯以外にも自宅のパソコンや大学の資料などから証拠が続々見付かり、亜紀の無罪は立証され、男は逮捕されることになる。

 
「あーーー。疲れたわね」
 あれから警察での事情聴取ですっかりこの日は潰れてしまった。それでも貴志子は清々しい気分だった。
「ありがとう。貴志ちゃん」
 亜紀は心の底から感謝していた。貴志子がいなければ、お金を振り込んでいたかもしれない。そうなれば後は泥沼だっだろう。
「友達でしょ。困ったときはね、お互い様なのよ」
「うん。でも……本当にありがとう」
 亜紀はありがとうを繰り返すばかりだ。それも確かに仕方ないことだと貴志子は思う。今回は本当に危機一髪であった。あのウイルスの助けが無ければ最悪の結末が待っていたかもしれない。
 あのコンピュータウイルスは一体何なのだろうか。ネット空間に存在していることは分かる。準備するといっていたのは、あの男の自宅のパソコンや大学のパソコン、果ては近辺の病院のパソコンまでを調べまわっていたのだろうか。たぶんそうなのだろう。あのウイルスはネット上を自由自在に動き回れるというようなことを言っていた。もしそうならとんでもないことなのでは……。貴志子は理解不能なことに頭を悩ませた。
 
 アパートに戻ってきた貴志子を出迎えたのは、パソコンの中に居座ったあのウイルスであった。ぼやけた姿ではなく、しっかりとした輪郭を持ち、さながらパソコンの中に3Dキャラクターがいるかのようだ。
「お疲れ様。遅かったわね」 
「なんだかもう慣れたわ」
 貴志子は溜息を付きながらパソコンの前に座った。
「今日はありがとう。あなたには感謝してるわ。未だによくわからないけれど」
「頭悪い子ね。今度はしっかり聞きなさいよ。私の名前はジークルーネ。意思と感情を持ち、ネット上を自由に活動できる超高性能AIよ」
 ジークルーネは胸を張って答えた。
「よくわかんないけど、簡単に言えばネットという世界の人間と考えれば良いのかな?」
 貴志子はとぼけた返事を返す。よく分かりませんというのが本音だろう。
「もう何でもいいわよ。それより約束忘れてないでしょうね」
「忘れてないわよ。それで私は何を協力すれば良いのかしら」
「簡単なことよ。私、今日からこのパソコンに住むことにするから、その携帯も私の棲家にするわね」
 貴志子にはよく分からないことをジークルーネは平然と口にする。
「え? つまりそれってどういうこと」
「このパソコンにあったデータは全部消したわよ。邪魔だもん。携帯も早く新しいのを買いなさい。新しい方に住むのは勘弁してあげるから。優しいでしょ私」
「ちょっと! そ、それって!」
 貴志子はパソコンを操作しようとしたが、マウスポインタが見付からない。仕方なくキーボードを無茶苦茶に叩いてみたのだが何の反応も示さない。
「私のレポートは? 音楽は?」
「全部、消去しちゃった」
 無邪気なジークルーネとは対照的に、貴志子は目の前が真っ暗になった。レポートはパソコンの中とは別に予備のデータがある。音楽はまた買えば良いだけのことだ。それでもパソコンの中にあった様々なデータが消えたと聞いてショックが無いわけではない。
「昼間のこと、忘れたわけじゃないでしょ?」
「ううぅ……」
 貴志子はあまりのショックに昼間のことを言われるまで忘れていた。ジークルーネの協力がなければ、亜紀が轢き逃げの犯人にされるところだったのだ。
「わ、忘れてないわよ。携帯はこれでいいのね。新しい携帯はすぐに用意するから、お願いだからこの携帯のデータは消さないでね」
 ジークルーネの功績を思い出せば、貴志子は観念せざるをえなかった。

「ねぇ。そんなことよりさ。あなたの格好って」
「な、何よ……」
 今までは一定の形を取らないで、絶えず変化していた容姿が今日帰ってきてからは変化せず一つの姿を保ったままなのだ。
「誰かに似てる気がするのよね。よく思い出せないけど」
 ジークルーネの格好は、ノースリーブの襟付きシャツに真っ赤なネクタイ、黒のフレアスカートに腿まであるスーパーロングブーツを履いている。最大の特徴は足元まで伸びた髪だろう。貴志子よりも黒い漆黒の髪を左右でまとめて下している。俗にツインテールと呼ばれる髪型だ。貴志子はどこかで見た覚えがあったのだが、どうしても思い出せなかった。
「私の姿が気になるの? まあ、せっかく世の中に出たんだし、こっちの世界で一番人気のバーチャルアイドルの容姿を頂くことにしたのよ。私に相応しいと思わない?」
「はぁ……」
 貴志子はそんなものなのかと首を傾げるだけだった。言わんとしている事は分かるのだが、どうしてそこまで偉そうなのか。取り立てて害はなさそうなのが唯一の救いだった。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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Double 3話

ここまでで一区切り。読んでいただければ分かりますが、ミクと全く関係ないお話ではありません。直接的に関係するわけではないですが、ちょこちょこと登場したりしなかったり。

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投稿日:2010/03/28 23:06:04

文字数:3,851文字

カテゴリ:小説

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