遠い遠い昔。
そう、あれはずっとずっと前の出来事。
もう顔も思い出せないけれど、若い儂はある人と恋に落ちた。
どんな名前だったか、たしか・・・、凜。
そんな名前だった気がするな。
彼女は美しい人じゃった。
江戸一番、いや日本一といってもいいほどのべっぴんさんでな。
それはそれは男子にもてていたものよ。
だがな、彼女は頑なに男子からの誘いを断り続けたんじゃ。
一回だけ教えてくれたんだが、なんでも幼少に父親から暴力を受けていたらしくての。
男子にはどうしても恐怖を覚えたらしい。
そんな彼女がな、たった一りだけ・・・、儂にだけは微笑んでくれたんじゃ。
優しい、優しい笑顔じゃった。
まるで、世界中の男子を虜にしてしまいそうなほどの笑顔じゃった。
・・・儂ももう長くはない。
・・・よいよい、もう自分で分かっていることじゃ。
最期に、お前に話しておきたいんじゃ。聞いてくれるか?
ありがとう。
江戸。
様々な花の彩りが町を埋め尽くすころ、一人の少女と少年が出会う。
それは運命よりも強く、約束よりも儚い出会いだった。
「いらっしゃい!」
町の一角に位置する小さな団子屋。
赤い布のひかれた椅子に小さく座るその少女の周りには、大きな人だかりができていた。
「おぅ!凜ちゃん、今日は俺と遊びに行こうぜ。」
「何を言うか、民の分際で。・・・凜さん、本日は私と美味しい茶でもいかがですか?」
様々な男からの誘いの声が飛び交う中、当の少女は俯き加減に小さく声を出す。
「あの・・・、すみません、私今日はちょっと用が・・・。」
「いいからいいから!ほら、行こうぜ!」
ぐっと少女の細い腕が捕まれたとき、ひときわ大きな声が人だかりの向こうから飛ぶ。
「おい!引き際を心得ろ!嫌がってるのが分からんのか!」
その声に、人だかりがざわざわと道を開ける。
そこに立っていたのは、金色に青目、派手な黄色の着物を身につけた少年だった。
「余所もんがなんの用でぇ。ひっこんでやがれ!」
人々が罵声を浴びせる中、少年はニヤリと笑う。
と、次の瞬間、少女の腕を掴んでいた男が、臑を抱え、顔を歪ませて地面へと転がった。
「余所もんが何だって?」
いつの間にか男の前に立っていた少年は、見事に男の臑に命中した下駄をはき直しながら、誇らしげな笑顔で言った。
「っふん、余所もんは乱暴だからいけねぇや。」
涙目になりながらも、強がりながらそう言う男は、仲間の肩を借りて、人混みへと消えていった。
それを見ていた周りの人々も1人、2人といなくなり、団子屋には少女と少年だけが残った。
「あの・・・、助けてくださって、ありがとうございました。」
少女は少年に丁寧に礼を言うと、その場を立ち去ろうとした。
が、その少女の手を少年が掴む。
「ちょっと待ちな、お嬢さん。・・・うん、確かにべっぴんさんだなぁ。どうだい、俺と団子でも食わんか?」
「え、あの・・・」
「まぁまぁ、ちょっとくらいいいじゃねぇか!」
少年は少女を椅子に座らせると、店の奥に声を掛ける。
「おおい!団子と茶、2つくれ!」
強引に少女を茶に誘った少年に、少女は少々戸惑っていたが、いつしか少女は微笑みを浮かべていた。
「お嬢さん、笑うと本当に可愛いなぁ。いつもその笑顔でいればいい。」
口にいくつも団子を入れながらもごもごと話す少年に、少女はぷっと吹き出した。
「楽しい方ですね。・・・私、男性とこんなに楽しくお話したのは初めてかもしれません。」
それを聞くと、少年はにっと無邪気な笑顔を向けた。
「俺もじゃ!余所もんじゃ言うて、みな相手にしてくれんから、話し相手がいなくてな。なぁお嬢さん、良かったら俺の話し相手になってくれんか?代わりに、お嬢さんが困っている時は、絶対俺が助けてやる!」
驚いた表情だった少女は、しだいに頬をゆるませていく。
「私なんかでよろしいのなら、いつでもお相手させていただきます。」
少年はよし!と笑うと、少し冷めてきた緑茶をぐっと飲み、大きく息を吐いた。
「お嬢さん、優しいな。俺のことを余所もんとして扱わんでくれるし、見ず知らずの奴の頼みも聞いてくれる。・・・みんながみんな、お嬢さんみたいな優しいやつじゃったら・・・。」
少年は言葉をとぎらせると、哀しい目で遠くを見つめる。
その拳が硬く握られているのを、少女は見逃さなかった。
「・・・あなたは、私の幼馴染みによく似ています。だからこんなに落ち着くのでしょう。彼も、あなたのように楽しくて、優しくて、・・・そして、強い人でした。」
少女は瞳を閉じると、ゆっくりと話し始めた。
少年も、静かに少女の話に耳を傾ける。
「・・・私の母は、私を生んでからすぐに亡くなりました。それから私は父と2人、ひっそりと暮らしていたのですが、私が成長すると共に、父は「お前を生んだせいであいつは死んだ。」と言って暴力をふるってきたのです。・・・その時の傷が、まだ・・・。」
少女は着物の袖を少し上げる。
白い肌には、痛々しい傷跡が幾つも刻まれていた。
少女は自嘲的に笑うと、話を続ける。
「そんな私を救ってくれたのが、あなたによく似た、私の幼馴染みでした。彼は私が父から暴力を受けているところを見ると、泣きながら父を殴って、もう2度と私と関わらないと約束させてくれました。・・・その後、父と別れ、この江戸に来てすぐ、父が自ら命を絶った、という手紙が来ました。」
少年は変わらず遠くを見つめていた。
少女は真っ青な空を見上げる。
「・・・それから、いいえ、ずっと前から、私は幼馴染み以外の男性を見ると、怖くて仕方がないのです。・・・でも、あなたは、あなたは違いました。彼と似ているからかもしれませんが、あなたといると、凄く落ち着くのです。」
少女が話し終えると、少年がぽつりと言った。
「・・・今、その幼馴染みは・・・?」
少女は、寂しそうに笑う。
「・・・亡くなりました。末期の結核で・・・。」
「・・・そうか。」
無言の空気が少女と少年を包む。
賑やかな江戸の町が、2人には何故か遠い世界のように見えた。
沈黙を破ったのは、・・・少女。
「・・・初めてこんな話をしました。胸が軽くなった気がします。・・・ありがとうございました。・・・あの、よろしかったら、また明日、ここで会いませんか?」
少年は笑った。
「ああ、待ってる。」
少女は少年にお礼を言うと、町にとけていった。
一人取り残された少年は、冷め切った緑茶を一気に煽った。
「・・・冷たい。」
そんな少年の呟きは、誰の耳にも届かずに、静かに空気となっていった。
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