「52」のボタンを押すとエレベータの扉が閉まり、緩やかに上昇を始めた。振動はない。
まるで早回しのように階数(レベル)カウントが上がっていくが、「52」に近づくにつれて速度が落ちていき、やがて止まった。
音もなく扉が開くと、清潔感のある白い内装が拡がっていた。リノリウムの廊下は広く、壁はステンレスとガラスを組み合わせた複合材でいかにもオフィス然とした中にも、どこか商業施設のような趣がある。
フロアに下りると正面の廊下を誰かがゆっくりと重々しい足取りで歩いてこちらにやって来るのが見えた。
紫の長髪を尾長に結い上げ、着流しを緩やかに纏って打刀を差したそれは実に傾(かぶ)いた姿で、オフィスビルには明らかに似つかわしくなかったが、私はむしろ納得した。
それは先月発売されたばかりの、インターネット社の新型ヴォーカロイド『神威』だった。
神威は私の前で一礼し、「ヨウコソ」と言った。
「おふぃすハ、コチラデス。ドウゾコチラヘ」
私は軽く返礼して神威についていった。
フロアには神威以外、ひと気はないようだ。動体センサ、温感センサ共に沈黙している。
神威は奥にある一室のドアを開けた。
「コチラヘ」
そう言って私に道を譲る。
私は部屋に入った。オフィスというには物が少ない。使われていないような部屋だった。
「?」
私は咄嗟に神威を見た。
神威は部屋に入り、そして扉を施錠した。
神威の顔は紙の色を刷いていた。その無表情さが、何か得体の知れないものに見えた。
私はこのフロアに下りてから何か違和感を感じ続けている。
私は何を感じている?
この違和感の正体は何?
私は今ここで何に気づかねばならない??
私は全力で後方へ飛び退いた。
緑色の髪が数条、宙に舞った。センサが危険を察知したのはその後だ。
神威の動作をアイカメラは捉えることができなかった。それほどの速度だったのだ。
鍵をかけた神威がこちらに向き直って神速の居合いで正確に私の首を刎(は)ねようとしたのだ。
私は首に手をやると僅かに湿り気を感じた。薄皮が一枚切れてヘムリンゲル液がうっすら滲んでいるようだ。
感圧センサは何も報告してこない。
そして私は完全に横薙ぎの一刀を躱(かわ)していた筈だ。巻き起こった真空が鎌鼬(かまいたち)のように私の皮膚を裂いたというのか。
一の太刀で仕損じた神威はゆっくりと正眼に構えなおす。爛と輝くその紅い瞳には勿論凡(およ)そ人間の持つ感情というものは、ない。
吹き付ける様な殺気に私は思わず後ずさる。
これは……作り物の人形(ヒトガタ)から立ち上るこれは、紛(まご)うかたなき生身の鬼気。何という威圧感だろう。
私はこの時、自然に、ごく自然に思ったのだ。
『殺される』
と――。
サブシステムがスキャン結果を報告してきた。
『脅威の対象…日本刀 素材…74.77%の確率でステンレス合金、12.14%の確率で鋼、5.65%の確率でアルミ合金、その他ロングテール7.44%』
神威が本来持つ楽刀「美振」は虹色にペイントされたアルミ合金製の模造刀だが、今眼前で妖しく鈍い輝きを放っている刃金(はがね)とは似ても似つかない。
私は部屋を見て状況を判断する。出入り口は神威が施錠した。鍵を開けようとまごついたら後から容赦なく斬り捨てられる。窓はハメ殺しの上、ここは地上52 階でテラスのような足場は何もない。リノリウムの床には何も落ちていない。天井にも何もなかった。そしてこの部屋にあるものといったら事務机とパイプ椅子、そしてクリアファイルを納めた本棚が部屋の片隅にあるきりで、しかも今私が立つ位置からは絶望的に遠いのだった。
神威はじりじりと間合いを詰める。
唐突に二の太刀がやってきた。
私と神威の距離は次の瞬間消失し、必殺の一撃が大上段から私の肩口を狙って落ちてきた。軌道計算と回避行動はほぼ同時だった。
私は神威の右手を取る様に左へ、左へと身を躱していく。
無言の舞台の上で、それは二人で舞う円舞曲(ワルツ)のように、きらきらと朝の陽の光を跳ね返す剣を躱し続けて回り踊る。くるくる、狂狂(くるくる)と回り続ける。
その円舞曲の終演に私は立ち会うことができるのだろうか。
私は神威の動きをスキャンしながらネットで情報を収集した。
とあるミリタリーマニアのサイトに信憑性の高そうな情報が掲載されている。
インターネット・テクノロジー・アメリカ社が軍事用に製作した「カムイ」と呼ばれる機体がそっくりだ。
流石に着流しや日本刀は装備しておらず、通常のドロイド用装甲服にH&Kの自動小銃を装備しているが間違いあるまい。
公式発表ではないが全高:1800mm、装備自重:680kg、作戦全備重量:1200kg、作戦行動時間:85時間、装甲:複合装甲、機関:GE製 AGK-1500、最高出力:220kW(300ps)と記されている。足回りの弱さにやや問題があるが、概ね世界でも有数の性能との評価だった。
……緒元に書かれた数字はどれも軽く私の仕様の10倍近い数字だ。
私がこの怪物に勝る要素は何か?
アルミのメーンフレームとチタンカーボン複合材で42kgまで軽量化されたボディと、このクラスとしては34kW(45ps)と高出力なヤマハ製OX39Aエンジンで、パワーウェイトレシオはこちらが上……つまりスピードでは圧倒できる。
このスピードをどう活かせば良い?
私は横っ飛びに飛んでカムイの斬撃を避けたが、僅かにスーツのジャケットが切れてしまった。
どうやらカムイはこの速度を学習して対応を始めたようだ。この速度に対応されたら打つ手はない。その前になんとしても勝負を決めなくては。
私はカムイと対峙した。
弛緩した時間に見えて、それは幾百幾千のシミュレートの結果動きの取れない金縛りのような状態だった。
その瞬間(とき)は突如やってきた。
どんどん、とドアを叩く音が聞こえたのだ。
コンマ数秒、カムイのセンサがそちらに振り向いた隙を私は見逃さない。上体を低く下げてリノリウムの床を力一杯蹴った。雷(いかずち)の速度でカムイの背後に回った私は余勢を駆ってカムイの膕(ひかがみ:膝の裏のこと)を踵で思いっきり蹴りつける。私の関節のベアリングが軋みそうだった。
がくりと膝を折ってバランスを崩したカムイの横を私は走り抜け、ドアの鍵を開いたが、不意に私の首が後ろに引かれた。
カムイが私のツインテールの長い髪を握り締めていた。
引き抜こうと抗ってみたがカムイの膂力(りょりょく)は軍事用のそれだった。
カムイが一刀を右手に下げ、ゆっくりと立ち上がる。
「頭を下げろ!」
怒声にも似た声が雷鳴のように響いて、私はカムイ側に倒れながら咄嗟に頭を下げた。
ドアが開かれて乾いた音がターンと一つ耳朶(じだ)を打つや、オレンジ色の光と爆風が頭上で花開いた。
すると万力か何かで押さえられていたようにびくともしなかった髪がするりと抜けた。
私はカムイを見た。頭部がありえない方向に捻じ曲がっていた。
タン、タンと二度、さらに三度目と音が轟くたび、カムイは右腕を吹き飛ばされ、左足を失い、腹部に大きな穴を穿(うが)たれた。
私は恐る恐るドアを見た。
そこに立っていたのは銃を構えた鈴木刑事だった。
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そんなことを言って本心は欲しかったのは共感だけ。
欲にまみれた常人のなりそこないが、僕だった。
苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
こんな...君の神様になりたい。
kurogaki
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