「下の名前は飛ぶ鳥で」とアスカさんは言ったけれど、僕は彼女の名前を残らずカタカナで書ききったのち出席簿を後ろへ回した。
 アスカさんは気づかない。僕を信用しきっているのだ。僕はこんなちょっとした悪戯にだっていつもばれた時の言い訳を考えているのに、それが披露されたことは幸か不幸か一度もない。彼女が鞄に手を伸ばす。

 アスカさんはおもむろに本を開いた。三人掛けの長机は真ん中に彼女、左に僕が配備され、右の椅子にはチョコレート色のトートバッグが鎮座していた。はるか前方にある長大な黒板には「東西のサブカルチャーと性差」という見出しがうっすらと読めた。
 アスカさんは視力があまり良くないそうだ。それで遠近法の体現みたいな机の配列やその先にある黒板に対して、彼女はいつも完璧に無視をきめこんでいる。僕はもちろん彼女の目のことも彼女が僕のとなりに座ることも知っているし、彼女は彼女で彼女の抗議を僕が受け付けないことを知っている。だから今日も彼女は僕の隣で本を読む。「前の席あいてますよ」スピーカーが講師の声を伝えた。二つ後ろの最後列で遅刻の男子学生が空席を捜していた。黒板に小さな文字が増えていた。
 アスカさんと僕は週に一回、この「比較文化論B」で顔を合わせる。広くて古い講義室に空席の目立つ、全学共通科目の中でもあまり人気のない講義だった。僕は開講から二週目で視線に気付き、三週目で尾行に気付き、四週目で執念に気付き、五週目で逃げられないことに気付いたのだった。「ずっと前から気になってたの」と言った彼女は一年生だったし、窓の外には遅咲きの桜が残っていたし、講義室の壁掛けカレンダーには前期の日数がたっぷり残っていた。僕は三年生で全学共通科目をとっていたけどそのことで彼女から憐憫の情をかけられる筋合いはないはずだった。とりあえず僕の記憶のかぎりは。

 アスカさんの指が動いた。ページをめくる細い指は少し骨ばっていて、しかしその挙措からは十分な繊細さを感じ取ることができた。僕が見ていると彼女は少しそわそわとした。それははっきりそうと判るものではなく、並んで座ってはじめて判るくらいの微妙な変化だった。そういう時、彼女はきまって「講義を聞きなさい」と手で合図し、僕は「アスカさんだって聞いてないじゃないか」と手で合図し、彼女はその意味を取り違えて「この本は貸さないわよ」と返し、僕は徒労感に打ちひしがれつつ「わかったよ」と伝えて前を向くのだった。
 アスカさんがノートをとっているところを、僕はこれまで見たことがない。あるいはそれは彼女のポリシーか何かであるのかもしれなかったし、いつも後ろのほうに座る僕にいくらかの原因や責任やそういったものがあるのかもしれなかった。でも彼女が自分の行動やポリシーについて僕に喋ったことは一度もなかったし、だから僕も気にしなかった。ただ一つだけ、これは誓って言えるけれど、僕のノートは頼らないほうがいい。絶対にだ。もちろん彼女には言わないけれど。
 アスカさんにとってこの時間にどれほどの価値があるかを考えるのは僕にとって難しい作業だった。講義の内容なんて彼女は最初から聞いていないのだろうけれど、かといって講義中に僕と話をすることもまずなかった。結局のところ彼女は彼女の本を読みに来ているだけで、彼女にとって僕は小さな安物のピアスくらいの存在なのかもしれなかった。僕は胸がきしむ音を思い浮かべようとして失敗した。
 アスカさんのトートバッグの向こうで中年講師が足を止めた。彼女は気づかず読書を続けており、僕は講師の顔の部品を一つ一つ眺めていた。周囲の視線が集まっていた。彼女は気づかない。講師は彼女の右肩を叩いた。僕は講師をセクハラで訴えるべきか少し迷ってからやめた。

 アスカさんはそれまで読んでいた『ハヤテのごとく!』とその外側に重ねていた『ノルウェイの森』を講師によって没収された。『ノルウェイの森』の深緑色のハードカバーを見送ったのち、彼女はおおいに不服であるといった顔で「先生が来るなら教えてくれたって」と手で合図した。僕は「寝ていて気付かなかったんだ」と嘘をついた。彼女は「むー」と言った。
 アスカさんが『ノルウェイの森』で『ハヤテのごとく!』を隠したことにどんな意味があったのか、僕は少し気になった。「比較文化論B」に教科書はない。けれど鞄から新たに一冊『天上天下』を出して開いた彼女を見るとそれはどうでもよくなった。
 アスカさんの細い指が『天上天下』を十回もめくらないうちに講義は終わったらしかった。ざわざわした空気と人の流れの中で、彼女は無造作に『天上天下』を閉じたのだった。それからチョコレート色のトートバッグを小さな膝にのせて『天上天下』をすとんとしまい、こちらを向いて「じゃあね」と言った。あとは一度として振り返ることもなく、講義室の後ろのドアから右に折れて消えてしまうまで、その背中は凛としたままだった。
 そんなアスカさんが好きだ。






 

ライセンス

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【小説】アスカさんのこと

2007年2月の作品。
作者なのに、あまり印象にありません…
がっつり村上春樹ですな。

閲覧数:88

投稿日:2016/04/17 12:35:34

文字数:2,059文字

カテゴリ:小説

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