■香良洲で手帳に写した三重海軍航空隊同窓会事務所は田町から2駅先の新橋飲食店街の狭い路地裏の文房具店の中にあった。新生印刷というレタリング文字が入口の硝子面にプリントされている。アルミサッシの引戸を開けて店内に入るとリノリウムの床が一段高くなっていた。店舗面積は四十平米程で店の奥に二階に上がる階段が見えた。右手前にレジカウンターがあり、四、五十代の女性事務員が座っていた。土岐はおずおずと声をかけた。「こちら三重海軍航空隊の同窓会事務所でしょうか」中年の女性事務員は目を見開いて土岐の次の言葉を待っている。「こちら何かの同窓会の事務所になってますか」「すいません、ちょっと社長に聞いてみます」と言い乍事務員は内線電話をかけた。二階で椅子の軋む音がして、やがて階段を下りてくる足音が聞こえた。店の奥から六十前後の短髪の精悍そうな男が出てきた。「ご用件は」男は両手を前で組み揉んでいる。「こちらの住所が三重海軍航空隊の同窓会事務所という情報を香良洲で見たんすけど」「親父のやってたやつですね。もう殆どの方が亡くなられて親父が死んだ後は自然消滅の様な形になってるんじゃないでしょうか」「確か同窓会名簿はこちらで造られた筈すが」「ええ昭和の終わり迄は印刷屋だったんですが、パソコンのプリンターが普及しちゃって、今は文房具の出前で食べてます。社名変更すればいいんですが面倒臭いし、お金もかかるんで新生印刷の儘でやってます。和文タイピストにも辞めてもらって今は女房と二人で細々とやってます」と言い乍事務員を顎でしゃくる。この妻は夫を人前で社長と呼ぶ様だ。「同窓会の方でご存命の方をご存じないすか」「さあ存命かどうか分りませんが私が二十代の頃、同期のいろんな方がここに出入りしていたのを記憶してますが」同期と言う男の言葉に土岐が鋭く反応した。「公認会計士の方はいませんでしたか」「さあ。職業迄はちょっと。それから同窓会の方とは違うらしいんですが先々月でしたか古い会報誌のコピーをお持ちになってある記事を書いた方を知らないかと尋ねて来た方がいました」「それはどんな人すか」「ご老人でしたよ。八十は行ってたんじゃないでしょうか。記名の記事だったんで、この店にあった古い名簿でその記事を書いた方の住所を紹介したら、その住所ならもう確認した。その人はその住所にはもういないとかおっしゃってました」「どんな記事すか」「当時の教官の方が書かれたもので、終戦直前に三田という方が、事故か何かで亡くなられたのを悼むという様な記事でした」「三田法蔵すか」土岐は思わず大声を出していた。文房具屋の主人は足を一歩引いていた。「下の名前はちょっと。三田さんというのは確かだったと思います。この近所にそういう地名があるので良く覚えてます」「その老人は長田と名乗らなかったすか」「いえ名前はおっしゃらなかったと思います」土岐は手帳に挟んであった法蔵寺のスナップ写真のコピーを取出した。「この黒い法衣を着て数珠を持っている男ではなかったすか」「こんなに若くはなかったと思いますが」「これ、三、四十年前の物で」男は改めて写真を見直している。遠ざけたり近づけたりしている。「そう言われてみれば面影がありますね」そこに老婆が現れた。二階が自宅になっている様で長い昼寝でもしていたのか、ゴマ塩頭がぼさぼさだ。寝ぼけた様な眼で何事かと土岐の顔を胡散臭そうにじろじろ見ている。店主が声をかけた。「お母さん。三田法蔵って人のこと聞いた事ある?」老婆のしょぼついた目が一気に丸くなった。「聞いたことあるわよ。随分昔の話だけど」そう言い乍老婆は土岐に近寄ってくる。手の触れる距離だ。「昔は海軍の集まりに夫婦で良く参加したのよ。私のことKAって言うのよね。何の事かと思ったらかあちゃんとか、かみさんとかの略なんだって。暗号って程の事はないわよね」土岐が本筋から外れ出しそうな話の方向を修正した。「それで三田という人についてどんな話があったんすか」「とても優秀な人だったって皆そう言っていたわ。惜しい人をなくしたって。それも事故で。中には殺されたんじゃないかって言ってた人も」「なんで殺されたんすか」「嫉みじゃないかって。とっても隊長さんに可愛がられたそうよ。何でもお坊さんの出で。習慣でどうしても朝早く目が覚めてしまうんで何もやる事ないから小僧さんの時そうしていた様に便所や教室や廊下をたった一人で毎朝掃除してたそうよ。それを隊長さんが知って晩酌によく呼んだそうよ。山海の珍味を御馳走になった様で、それを同級生が妬んでグライダーに細工をしたんじゃないかって。皆さん殺人以外には考えられない事故だっておっしゃてました。でも終戦のごたごたでうやむやになってしまって」土岐は脇で頷き乍母親の話に聞き入っている息子に聞いた。「それでさっきの老人が尋ねた人は何という名前で」「なが、なが」「長瀬ですか」「そうです、確か長瀬でした」それを聞いて土岐は新橋駅に戻った。蒲田駅前で買い物をして事務所に帰着したのは七時頃だった。

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  • 非営利目的に限ります
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土岐明調査報告書「学僧兵」十月七日2

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投稿日:2022/04/08 06:49:40

文字数:2,074文字

カテゴリ:小説

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