「起きてくださいよ」
「う、うぅん……」
 頬に冷たくて硬い感触を覚える。そして埃っぽい匂い。
 うつ伏せで、なんだか床のようだ。手で撫で、このざらざらした感覚はコンクリートに他ならないと思い至る。
「ねぇ起きてくださいってば」
 揺すられる。だるい。
 さっきからうるさい。やかましい。
 人が気持ちよく寝ているのに、邪魔するな。
「おきろ。おっきろ」
 何か二つのやわらかいものが背中に押し付けられていた。弾力に富み、人肌の温もりが心地よく、更に眠気を誘う。そしてドーナツのような揚げ菓子によくある香ばしい匂いも。
「うがぁぁぁ起きろ腐れおっさぁぁーーーーーーんっ!」
 お母さんと呟きそうになったその時、耳が千切れんばかりに引っ張られ、何デシベルあるか測定不能の怒声が惰眠を貪る男の鼓膜に叩きつけられた。
「うわぁ! な、なんだお前っ!」
 男はぶんぶんとあたりを見回して、すぐ隣の『それ』を見つけた。
「こんちわわ~。わたしは夕澪ちゃんです」
「……ゆ、ゆうれい?」
 そこにはなんとも珍妙な格好をした少女らしき物体が行儀よく正座して佇んでいる。
「にゃんにゃん」
「ハァハァ。……おっといかんいかん」
 その少女らしき物体は茶色のふさふさした尻尾を生やし、頭のてっぺんに尻尾とお揃いの色をした猫耳も生やしていた。
 そして西洋風召使い、メイドというのか、つまりそういう服を着ていた。
 ぱたぱたと尻尾が動く。ぴょこぴょこと耳が動く。
「にゃんにゃん」
「ハァハ――そうじゃない!」
「ふわぁっ!」
 男は少女を突き飛ばし、立ち上がりへっぴり腰で後ろに数歩下がった。
 どんと壁にぶつかり、もう逃げ道はないことを悟る。
「な、なんだお前は! なんでそんな変な格好をしてる! こ、こ、こっち来るな!」
「怯えなくてもいいんですよ。ぬふふ……」
「ひぃ!」
 わきわきと両の指を屈伸させ、獲物を狙うが如き赤き瞳はらんらんと輝いていた。やられる! 男ははたかれそうになる猫のような挙動でびくっと身を縮めた。
 そして恐る恐る薄く目を開けると、夕澪と名乗った少女は直立の姿勢でもぞもぞと自らの胸の谷間を探っていた。
 たゆんたゆん、と揺れ続けるその水蜜挑を眺めるうちに一枚の紙切れが取り出され、少女は両手でビッ、とそれを差し出した。男は恐々と手を差し伸ばし――
「いやーん、えっちーっ!」
「うっさい馬鹿」
 あと数センチのところでひったくるようにして奪い、それを見た。
『あの世ナンバー69 管理者夕澪』
 と、それだけ、極太の明朝体で書かれた簡素な名刺を確認した。ただ、乳で挟まれていたのか妙に生温かかった。
「あの世ナンバー、シックスナインと読みます」
「誰も聞いてねぇよ」
 一応裏もひっくり返して見てみたが、やはり何もなかった。白い厚紙には本当にそれだけしか書いていなかった。
 男は少女にさも胡散臭げな目を向け、訊いた。
「あの世ナンバーって、なんだ」
「あ な た は  し に ま し た」
「うっせぇ馬鹿!」
 名刺を床に叩きつけ、夕澪の猫耳をさっきのお返しとばかりに引っ張り上げる。
「いでぁぁい、いでぁぁいよぉぉ」
「なにが、あなたはしにました、だ。ふざけやがって、このっ!」
「いでぁいですぅぅぅ。……やっ、あんっ、そこはぁぁっ!」
 二人の間で筆舌に尽くし難い行為が一通りの終焉を迎えた後、男は向き直って少女を正視した。
「……もっと、詳しく説明しろ」
 服はよれよれ、体は埃塗れ、それでも夕澪はえっへんと腰に手をかけ、頭の悪いお前に特別に講義してやるから耳かっぽじってよく聞けとばかりに偉そうに語り始めた。
 横っ面を張りたくなる衝動に、男は血がにじむほどに下唇を噛んで耐えた。
「この姿は深層心理であなたが思い描くもっとも抵抗の少ない容姿で―――」
「んな事は聞いてないっ!」
 どうして俺がこんな奴に気を許さねばならんのだ。
 ならんならんと思いつつ、つい乳に目がいってしまうのはやはり抵抗が少ないから気を許している事になるのだろうか。呆れるとともに男の下半身はざわめき、熱くたぎっていくのであった。

 順を追って男は整理する。
 珍妙な少女の説明は、やはり珍妙であった。
「……信じられないかもしれませんが、ここは本当にあの世です。あなたは一度死に、そしてここに送られてきたのです。あの世というものは沢山あります。ひとつの場所では魂を処理し切れませんので。そんで、自分が生きていた世界に相当の未練を持っていた者、生きている内にそれなりの手続きを踏んだ者がナンバー六十以降に送られ、新たに人生を歩むかどうかを選択させられるのです」
 つまり、自分は死んで今は『あの世』にいる。そして『あの世』は沢山あってそのうちの一つ、シックスナインとか言うふざけた番号に自分は送り込まれた。
 ここまではいい。
 だが未練を持っていたというのはどういうことだろうか。遣り残した事でもあったのだろうか。
 もしそうなら――と男が考えたとき、ふとその思考は凍りついた。
「ん~? どした~?」
 能天気な声で夕澪が話しかける。が、男はそれに応える事はなく、酸欠の鯉のように口をぱくぱくさせていた。
「おい、おっさん。……こらエロ親父!」
 俺はまだ若い、とつっこみが入るのを夕澪は期待したがそれは裏切られ、かわりにぼそぼそと聞き取りづらい声で彼は何か呟いた。
「……ない」
「へ?」
「記憶が、ない……」
 頭を捻って未練とやらを探ろうとしたが、まるで完成したジグソーパズルがばらばらになったように、何一つ彼は思い出す事が出来なかった。
「……そう言えば、おっさん」
「……なんだ」
「おっさんの名前は?」
 それくらいは――そう彼女に言い、だが何度力んでもだめだった。
「無理だ……」
 がっくりと膝をついて、男は魂でも抜けたような顔で――実際抜けているのだが――呆然と部屋から垂れ下がる裸電球を眺めていた。生気がないとは正にこの事なのだろうと傍らの夕澪はうんうんと唸り、そして彼女はおもむろに自らの胸の谷間に手を突っ込んで言う。「しょうがないな~」と。
「……あー?」
 男はその視線を裸電球から彼女の胸へとターゲットをかえ、今度はそれをじーっとみた。電球が裸になるんだから夕澪も裸になれるはずだと、混沌とした、しかもくだらない思考ばかりが渦を巻く。
 名前が思い出せない。
 俺は誰だ?
 もう、どうでもいいや……。
 痴呆したような男の視線、なんとも居心地の悪い思いをしながら、夕澪はようやく谷間から一本のペンを取り出す。
 それは淡く輝き、彼女が手を離すとそのまま宙に浮いた。
「瑠璃よ……。魂の波よ……。我が願い、聞き届けよ……!」
 ふわふわと浮揚するペンは、夕澪の声に応えるかのようにその白い輝きを更に強めていく。
「この哀れで貧相なおっさんの失われし記憶、今一度蘇らせよ……!」
 酷いいいようだな――。気の抜けたままの男は輝きを増すペンをただ見つめていた。
 やがて打ちっ放しのコンクリートの小部屋は目が開けられないほどの光で満たされ、そして唐突にそれは消えていった。
 男が眩しさに目をやられ、しかめっ面で目蓋を開けたとき、そこには輝きを失ったペンを持った猫耳メイドがぽつねんと立っていた。
「思い出した?」
「……なにが」
「名前」
「だから思い出せないって――」
 そこまで言って気付いた。記憶が戻っている事を。あの眩い光の中、まるで影となった記憶の隙間をあの光が埋めてくれたように思い出せる。
「俺は……」
「うんうん」
「俺の名前は、……ジハドだ」
 ぱぁっ、と夕澪が満面に喜色を浮かべた。
「よかったじゃん、おっさん。じゃなかった、ジハド!」
「うん……、って何度も何度もおっさん言うな! おれはまだ二十五だ!」
「年まで思い出せるなんて、ステキすぎ! 料金は後払いでいいから」
「そうかぁ。料金は後払いで、……あ?」
 これ、金がかかるのか?
 俺、なんにも言ってないんだけど。
 でも、記憶は思い出せたしなぁ。
 けど、やっぱり……、
「クー――」
「クーリングオフはありません」
 がーん、とジハドの頭の上にタライが落ちてくるような音がした。――気がした。
「大丈夫大丈夫、そんなに高くないから」
 そういう問題でもあるまいに。確かに、そう言えば、台詞の言い回しもなんだか心持ち安っぽかった感じもする。
「それで今後についてなんだけどぉー」
 あざとく話題を切り替える辺り、こいつは手馴れているなとジハドは騙された腹立だしさも忘れ純粋に感心した。こういうのをなんというのだろう。商人魂、だろうか。
「でもなんかおかしいぞ。ところどころ欠損がある。やっぱりクー――」
「あぁそうそう。いい忘れてたけどおっさんは電子体として生まれ変わるの。だから全てはデータとして存在している――。アナログなものをデジタルで復元するのは容易じゃないの」
 ジハドは上手い具合に言いくるめられている。
「大抵はここに来るまでに魂、つまりはデジタルデータが損失してしまうから前と完全に同じには出来ないんだ。ペンは魂の損失まではカバーできないから。でもまかせて安心。このわたしに任せるでふよ。あ~らびっくり摩訶不思議。車の傷がこんなに綺麗に!」
「帰る」
 くるりと背を向け、丁度いいとばかりにジハドは部屋の隅にあるドアへ向かう。先程からあの扉が気になって仕方がなかったのだった。
「や~ん、ちょっとしたジョークですよぉ」
 夕澪が慌ててジハドの袖を引っ張る。
「その車の例えだと、うまい具合に傷をごまかすようにしか聞こえないぞ」
「うん、そう」
「うん、そう。ってなぁお前……」
「でもこればっかりはしょうがないにゃー。んじゃ、取り敢えず欠損の状態を出すから、記憶を修復するか、ばっさり削除するかを決めてくだちい」
 彼女はさっきのペンを放り投げるとそれはまた淡く輝き、室内を明るく照らし出した。
 そして浮かび上がるように、何も無い空間に次々と文字がつづられていく。
 いくつもの項目、それはジハドの魂の決定的な損失だった。
『一つにあなたには恋人がいた。               破損率九十七%
 一つにあなたは殺し屋で数々の依頼を受けていた。      破損率六十六%
 一つにあなたの性処理道具は非貫通式である。        破損率四十九%
 一つにあなたは殺されて当然の理由があった。        破損率三十八%
 一つにあなたは武器を持っていた。             破損率二十四%
 一つにあなたの最後の想い出は銀髪の幼い少女である。    破損率一%
                                    以上』

ライセンス

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  • この作品を改変しないで下さい
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緋色の弾丸 その2

分割その2です。

閲覧数:68

投稿日:2010/06/09 03:31:27

文字数:4,445文字

カテゴリ:小説

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