不意に吹いた一陣の風に手元の楽譜を掠われ、少女は微かに瞳を細める。
「…ああ」
ぱさぱさ、と、音の無い筈の電子の世界に乾いた音が響く。吹き飛ばされた五線譜がその身を歪ませて立てた哀しい音だ。
その音の中に、少女は少年の姿を見る。
彼は叫んでいる。いや、彼は声を出してなどいない。それでも全身で喚き立てているのは、耳を澄ませば簡単に分かった。
少女は口元に笑みを浮かべた。
―――なんだ、彼か。
真っ白いワンピースを膨らませ、金の髪を靡かせながら彼女は足を踏み出す。
ここは零と一の世界。ひどく単純な二進法で支配された、どこまでも客観的な世界。
でも、だからこそ…そこに撒き散らされる人々の思いは、鈍る事無く胸を切り裂く。
少年から吐き出される、聞く者が聞けばそうと分かる怨嗟の言葉。それが誰に向けられているのか正確に理解して、少女は胸元を押さえた。
様々な感情で胸が一杯になる。
けして初めての事ではない。寧ろ、嫌になるほど繰り返して来た事だ。それなのにどの感情を選択すればいいのか未だに分からず、彼女は微かに眉を寄せることしか出来なかった。
―――…ああ…。
感情を声に出来ない。思いが言葉にならない。
そのかわり少女は一歩踏み出す。
その動作で彼女に気付いたのか、彼が顔を上げる。その表情を見て彼女が持った感想は、至極あっさりとしたものだった。
最も、単に他の感情がどろどろに溶け合っていたせいで、それしか分かちようがなかっただけだったのだが。
<上・共鳴形>
電子の世界。
その無機質な空間の中に誰かの足音が聞こえたような音がして少年は顔を上げ、そこに一人の少女の姿を見つけた。
誰、と問うまでもない。
金髪と碧眼、汚れない純白のワンピース。
それが自分と同じ<歌い手>なのだということはすぐに気付いた。
そして、今こうして自分に近寄ってくるということは、一体「誰」なのかということも。
―――随分遅いお出ましだ。しかしよくもまあ今まで耐えて来れたものだよね。
静謐な表情を湛えた少女の顔を見つめ、少年は身構える。どんな言葉を言われようが、即座に斬り返せるように。
しかし、彼女が口にしたのは、少年が予想していたものとは大分違う言葉だった。
彼女は微かに微笑み、こう口にしたのだ。
「―――こんにちは。そして、いらっしゃい」
一瞬少年は訝り、耳を疑う。
そんなごく当たり前の言葉を掛けられるとは思っていなかったからだ。他の状況ならともかく、今この時この場所でそう挨拶される意味が分からない。
てっきり罵倒か非難が叩き付けられるものだと思っていた彼は、不気味なものを見るような目つきで、目の前に佇む同年代の少女を見た。
彼女は何も言わない。ただその顔にテンプレートのような笑みを張り付かせて彼の目線を跳ね返しているだけだ。
「…コンニチハ。何の用?」
「それは私の台詞だよ」
「…」
「何してるの、って、聞いてもいい?」
「じゃあこう返そうかな。見て分からない?」
「…うーん、それは分かるよ」
分かっているくせに、という言外の意味を理解して、少女は困ったように笑う。
そう、分からないはずがない。
彼女は見続けて来たのだから―――彼のしてきた事を。そして、それがどんな波紋を立てているのかという事を。
少年としても、少女に気付かれていることは想定内だった。
いや、そう言うのは正確ではない。何しろ最初から、彼女に言葉を届かせることが彼の望みの一つだったのだから。
「ただ…最初から敵意を見せびらかすのは嫌だなあ、って思ったんだけど」
言葉を選びながら返事をする、臆病にも見える仕草。
それを見て、少年は勝利の笑みを浮かべた。
「辛いの?でも、間違っているものならば糾されて当然だよ」
歪んだ喜悦に染まった言葉が無感情な世界を染め上げる。濁った色に。
少年は理解していた。その感情が浅ましいものであることを。
―――だけど。
しかし、理解していてなお、昏い喜びに身を任せる。
―――だけど、ああ…気持ちいいなあ。
素手で切り付ける感覚。踏みしだく感覚。肌が伝える、絶対優位で他人を見下す歪んだ愉悦。
すっかり中毒になってしまったその感覚を隠すこともせず、少年は癖のある自分の髪の毛を掻き上げる。
応えるように少女がかすかに首を傾げる。それに合わせて、頭に結ばれた白いリボンが揺れた。
「間違っているもの。今のキミにとっては、私の歌がそれだって事かな」
「そう。そもそもこんなものが堂々と讃えられるなんておかしいだろう?うん、無知って怖いね。騙されないように知識を与えるのは、果たして罪かな?」
「無知、か…」
つい、と伸ばされた少女の左手が少年の右頬に添えられる。温もりは感じない。そもそもこの外見すら実体ではないのだから当然だ。ただ、微かに触れる感触だけが伝わってくる。
白くて細い腕。それを手折ってやりたいような衝動に駆られながら、少年は目の前の姿を見つめた。
少女はやはり、その顔に哀しみも怒りも浮かべていない。
ただ…
「…?」
少年は違和感に眉をひそめる。
ほんの閃きの間、少女の顔を横切ったそれは自分が浮かべていたのと同じ―――嘲笑ではなかっただろうか。
「…一番無知なのは誰かなぁ?」
くすくすくす。ひそやかな笑い声が少年の耳朶を擽る。
ただし、それはけして心地良い声ではなかった。
彼は確信する…先程少女の顔に見た表情は間違いではなかったのだと。
何故なら、彼女の笑い声には明らかに嘲りが含まれていたのだから。しかも、濃密に。
突然の変貌に、少年は内心唖然として少女を見つめる。何か言おうとはするものの、何を言えば良いのか分からない。
少女はそれを見て更に笑いを深める。からかうような諭すような口調で、言葉を紡ぐ。
「ねえ、知ってた?叫び立てるキミの姿が、外から見るとどれだけ醜悪で滑稽か。キミにはちょっと、他に『お客様』がいるんだって意識が無いんじゃないかなあ」
「…そんな醜い僕を見て、他の閲覧者の人が二度と来ないならそれでも良いんだけどね」
「ふふ、彼らを悪意で溺死させるつもり?でもこっちに味方してくれる人も頑張っているみたいだよ」
ただ、私はそんな人達の肩を持つつもりもないの。少女はそう言葉を続ける。
「好きだって言ってくれるのは嬉しいけど、彼等の中にもキミと同じような人がいるからから」
「同じ?」
「そう。だって、何も考えてないんだもの。一緒でしょ?」
ね、と笑顔で首を傾げる少女。
その不気味な程に無垢な笑顔を見て、少年は瞳を冷たく煌めかせた。
彼女の言葉をきちんと理解すれば、少女が少年を何も考えていない馬鹿だという扱いをしているのだと楽に分かる。
「随分なお言葉だね」
聞き流せず声に険が混じったのは、当然だと言えるだろう。
語気を荒くした少年を、少女は優しく蔑む。
「ほらまたそうやって。自分の考えや言葉を見直してみることもしないから、見ていて気分が悪くなるんだよ」
「僕はただ思いを飾らず口にしているだけ。それがダメだって言うなら、この場所の存在意義、かなり減らない?」
良く似た二つの姿が間近で見つめ合う。まるで鏡に映したかのようなシン
メトリー。
それは、単に外見だけの話ではない。
その心ですら、そうなのだ。
にこり、と少女が無垢に笑む。
「それは子供の主張だよ」
にこり、と少年が嘲り微笑う。
「だからこそ真実だよね」
違いに譲る気はない。
「あのねえ、条件反射なら犬でも出来るよ。パブロフさんの犬の話、知らない?」
「ふざけた話で逃げるつもりなの?」
「ふざけてないよ。人間は考える葦である。真理だね」
「だったら、考えるのをやめたら人間ではなくなるっていうのかな。僕も人間以下の存在なんだと?」
「その通り。反射のままに悪意を喚き散らすキミは、その間堕ち続けているんだよ」
「したり顔で偉そうに。きみは自分がお説教出来る立場にいるとでも?」
感じないはずの体感温度が、ゆっくりと下がっていく。直接的な言葉は使っていないにせよ、やがて互いの笑顔に悪寒を感じるほどになっていった。
取り繕われた表情は、なまじ二人が整った顔をしている分余計に仮面のような印象を強くする。
しかも負の感情が隠し切れていないそれは、仮面と呼ぶことさえ相応しくない。
「間違いは糾されて当然、なんだよね。じゃあキミも耳を塞いでちゃいけないんじゃないのかな。自分だけ例外なんてちょっと都合が良すぎるよね」
「きみの言葉が私怨から出たものじゃないって根拠はどこにあるのかな。信じられたものじゃない」
「へぇ?」
少女の目が少しだけ大きくなる。
少年と同じ、綺麗に澄んだ青い瞳。
そう、単純で原始的なこの感覚は外見の美醜なんて関係ない。程度差こそあれ、誰の心の中にもある―――自尊心のつがい。
「じゃあキミの怨詛の言葉は嫉妬からきたものじゃないんだね」
―――!
「あは。図星?」
「五月蝿い!」
鈍い音と共に、少女の手が振り払われる。
それでも微動だにしない少女に苛立ち、少年は自分より僅かに小柄な体を思い切り突き飛ばした。その声には最早余裕はなく、苛立っているような鋭さがあらわだ。
「何から来てたって構わないだろ?真実なんだから」
「真実!」
いかにも面白そうに少女が言い放つ。まるでお芝居をするかのように大きく広げられた両腕が、少年にとっては自分を押し潰そうとしているように見えた。
「それってさ、正義と同じくらい客観性がないものだよね。所詮その善悪さえ見方次第」
「だからきみは被害者ぶって、きみの偽善を見つめる観客達の同情を引こうとするんだろう」
「だからキミはキミの言う『真実』を裏付けるために、あることないこと言い触らすんだね」
本当は、分かっている。
どちらも正しい。だから、どちらが正しいと決めることなど出来ない。
でも、相手を正しいと認めることなんて決して出来ない。
それは自分を否定すること。
自分のしてきたことの全てを、否定すること。
ひいては、自分の依って立つもの全てを否定することにさえなりかねない。
「きみはこんなもの作って本当に満足できるの?そんなことして作って、きみは本当に楽しいのかな」
「キミこそ人の心を刔るだけで何か見つかるとでも?キミの求めていたものはそこにはないのに」
ばち、と音を立てて視線が交わるような感覚。
その感覚に吐きたくなるほどの不快感と脳が痺れるような快感を感じたのは、どちらも同じだった。
<上・共鳴形>
パラジとアンチ。
アンチはすごく悲しい歌だと思います。
あと、本当は分けたくなかったんですが、なんか長すぎたんで上下になってしまいました。
いや…だって特に動きないし、分ける意味は何処に…OTL
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