「リン?」
名前を呼ばれて、あたしはびくりと肩を震わせた。
「起こしちゃった?」
結局、会う勇気もなかったあたしは、メイコ姉も寝てしまった真夜中に、ようやくレンの部屋に行った。まさか、起きているとは思わなかった。
「眠れなくて。日中も寝てるから。時間感覚、おかしくなりそう」
荒い息の下から、絞り出されたような声。カーテンの向こう側にいるはずの彼、暗くてよく見えないけれど、かなりつらそうだ。
「おかしくなってもいいよ、そんなの。そんなのどうでもいい」
あたしは多分、泣きそうな顔をしていたと思う。夜の闇に感謝して、ベッドの方へ近づいた。カーテンの向こうから聞こえる息遣い。あぁ、生きてるんだ、とやっと実感して、それだけで身体が震えた。
「……かもな」
あたし、何しに来たんだっけ。何日間も考えていたはずなのに、もう何も思い浮かばなかった。ただ、カーテンの向こうにいる彼を、思い切り抱きしめたかった。でもまさか、そんなことが出来るはずもない。
「レン」
「ごめんな」
あたしが呼びかけるのを遮るように、早口にレンが言う。意味が分からない。何を謝っているんだろう。
「なにいってるの」
「こんなことになってごめん。役立たずでごめん。先走って勝手に怪我して、馬鹿みたいだな、俺」
わけが分からない。レンは何を言いたいんだろう。あれはあたしのせいなのに。
カーテンが、鋼鉄の扉のように見えた。どうしようもない隔たりが、そこにあるような気がした。そんなものを、創ってしまったのはどっちだったんだろう。あたしか、レンか、それとも時間か。
「巻き込んでごめん。……なぁ、リン、」
いつの間に、弟はこんなに遠くに行ってしまったのだろう。考えも思いも、共有できていたはずだったのに。もう、彼の言葉の意味すら、あたしには理解できない。
どうしてあんたは、あたしのことばかり気にしているの。怪我しているのは自分の方なのに。つらいのは自分のはずなのに。ねぇ、どうして……。
「手首の傷、治ったか? 痕残ってないか?」
あたしは、耐えられなくなって、カーテンを開け放ち、レンの頬を思い切り殴った。
「そんなこと、どうでもいいでしょ!」
あたし、どうかしてる。レンがどれだけ酷い怪我してるのか知ってて、こんなことして。そう頭の片隅で思うのに、止まらなかった。
あたしの目から零れた涙がレンの頬に落ちて、レンは驚いたように目を瞬いた。
「こんなのどうでもいいでしょ! なんで謝るの! なんであたしのことばっかり言うのよ! つらいのはあんたの方でしょ!」
押さえた手首は、未だに痛む。出血はほとんどなかったけれど、紅く腫れあがった部分は、痕が残ってしまうかもしれない。王女の肌としては欠陥品になるかもしれない。でも、そんなことどうでもいい。レンの身体に比べたら、こんなもの。
「そんな酷い怪我して……本当に馬鹿だよ!」
支離滅裂なこと言ってる。分かってる。分かってるんだよ、あたしも同じだって。
「リンだって……あのとき、自分が怪我すればよかったって思ってるんだろ?」
あたしも、あんたと同じ。
「リンは、俺のこと考えてないのか?」
ずっと、あんたのことばっかり考えてる。
ねぇ、どうしてこうなってしまったの?
昔は、お互いのことを考えていれば、同じことを考えていれば、それだけで幸せだった。今は、想えば想うほど、遠くなっていく気がするよ。
あんたのことを考えて、あんたのことを見て、それはあんたも一緒のはずなのに、そのことが今は哀しいよ。あたしのことなんて無視してくれればいいのに、あたしなんていなければよかったのに、そうしたらあんたは……。
でも、結局あたしには、あんたを手放す勇気なんてどこにもないんだ。
あたしは……。
止まらない涙を乱暴にふきながら、カーテンを閉めて、歩き出す。もうこれ以上、ここにいたくなかった。もう、ひどいことしか言えない気がした。
「リン?」
レンが、不思議そうにあたしの名を呼ぶ。あたしは、無視して部屋の扉を開けた。
「……ちゃんと、食えよ」
だから、なんで、そういうことばっかり。あんたは、馬鹿だよ。本当に馬鹿。でも、あたしはもっと馬鹿だ。
いつもなら寝ている時間。ただでさえ寝不足と栄養失調で具合が悪かったのに、貧血で頭がくらくらしてきた。
なんでほとんど無傷のあたしがそんな状態になっているのか、意味が分からない。こんなだから、心配ばかりかけてしまう。でも、あたしだって、それくらいあんたのこと心配してるのに。馬鹿。
メイコ姉の部屋に戻ると、メイコ姉はあたしが出て来たときと同じ体勢で寝ていた。
「起きてる?」
小さな声で、訊いてみた。答えはなかったけれど、一瞬その寝息が止まった。やっぱり、起きてる。
「分かるよ。メイコ姉の寝相の悪さは知ってるからね。あたしが帰ってきたときには、あたしが寝るスペースなんてないと思ってた」
返事はない。
「……ありがと、メイコ姉」
本当は、いろんな人に感謝しなくてはいけないのだと思う。自分が今生きていること。レンにも、ミク姉にも、カイトにも。でも、そこまで頭が回らなかった。自分が生きていることが正しいのかすら、よく分からなかった。
自分が死んだら、レンは泣いてくれるだろうか。そうだとしたら、嬉しくて悲しい。
ベッドに入り、まだ温かいシーツにくるまれて、手首を見た。夜の闇の中では、ほとんど何も見えない。傷なんて分からない。この傷は、罰なのだろうか。何の。
「ねぇ、メイコ姉。カイトと、結婚したい?」
あまりに唐突な質問だったためか、狸寝入りをしていた姉は、吹き出した。
「はぁ!?」
急にがばぁっと布団を放り投げる勢いで起きられて、貧血気味だったあたしは意識を失いそうになる。
「なんで! この私が、そんなこと思わなきゃいけないのよ! 仕方ないのよ、政略結婚なのよ、分かるでしょう!」
「いや、それは分かるんだけど……落ち付いて……」
ミク姉はどうなんだろう。結婚するのが当然だと思っていた、とミク姉は言った。それは別に、結婚したかった、という意味ではないと思う。疑問を持つ隙すらなかったのなら、嫌がらないのも当然だと思う。
あたしはどうなんだろう。あたしだって、いつかは親の都合でどこかに嫁ぐ。レンはどうなるのだろう。自分でお父様から土地を借りるのだろうか。いずれにせよ、離ればなれになってしまう。その時は、決して遠くない。
そうだ、あたしは分かっていた。最初から、永遠なんてないことを。でも、それとは違う。今の状況は、覚悟していた別れとは違う場所へ、続いている気がする。
そして、あたしはそれを、全力で拒もうとしているんだ。
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