雨の上がった夜、イアは友人のルカに電話をかけ、馴染みのバーに行くことにした。せっかくの週末だ。気分の晴れることを願って、少し気合いをいれたオシャレとメイクをして、夜の繁華街に繰り出した。
待ち合わせした通りの向こうで、ルカが知らない誰かと喋っている。
少し近づいてみると、滑らかな英語が聞こえる。どうやら、道に迷った外国人観光客に駅までの道順を教えているようだ。
ルカと見知らぬ人物が離れたのを見てから、イアは驚かすように後ろからルカにとびつき、声をかけた。
「流石ね、バイリンガル」と、からかうと、「イア~。お化けかと思ったじゃない」と、ルカは言う。
2人はしばらくキャッキャとはしゃぎ、目的の店へ向かい始めた。
カランコロンと、ドアベルが鳴る。
目の前には、薄暗く落ち着いた暖色のライトに照らされた、クラシックな空間。一瞬カフェかと思ってしまうほど、衛生的で洒落たバーだ。
だが、何か騒がしい。いつもゆったりとした音楽の流れているはずの店内に、クラブさながらの賑やかな音色が響いている。
「いらっしゃい」と、バーカウンターの向こうから、バーテンダー兼マスターが声をかけてくる。
「マスター。久しぶり」と、ルカは積極的に声をかける。「今日はどうしたの? 雰囲気替えた?」
「いや、大得意さんのリクエストでね、今からリサイタルなんだ。しばらく我慢してくれ」と、マスター。
「誰の?」と、イアが聞くまでもなく、ピンライトのあてられたステージには一人の少女が立っていた。
年の頃は16歳と言う様子で、透き通った緑の目と、鮮やかなアッシュグリーンの長い髪をしている。髪はツインテールに結い、結い目には桜の花を模した髪飾りをつけている。
少女は小悪魔的な笑みを浮かべ、転がるようなロックンロールに合わせて、男言葉で単調な旋律を繰り返す。
店の雰囲気は台無しだが、「大得意様」達は非常に盛り上がっている。
今日の運勢は12位かしら? そんなことを思いながら、イアはマスターにカクテルを頼んだ。
歌が終わったことに気づき、ふとイアは歌手のほうに目を向けた。
中年と言うより高齢者に近い「大得意様」達が、やんやと歌姫を囃し立てている。
愛想笑いにしては陽気な笑顔で、少女は観客に無邪気に微笑みかけ、手を振って、一度ステージを離れた。
少女は、バーカウンターに座っていたイア達を見つけると、気後れもせずに隣の席に座った。
「マスター。私にも一杯。オレンジジュース」と、頼む声は歌声より少し低い。「私、ミクって言うの」と、何の前置きも無く少女は名乗る。「あなた達の名前は? お姉さん?」
イアとルカは少し驚いたが、夫々の名前を教えた。
ルカが、「あなた、新しい歌手さん?」と聞いた。
ミクと言う少女は、笑顔で皮肉交じりに返す。「ええ。あれだけ歌ってて歌手じゃなきゃ、なんなのよ?」
「確かにそうね」と言って、ルカも微笑む。少女のフレンドリーさが気に入ったようだ。
イア達はカクテルを、ミクはジュースを飲みながら、ひとしきりおしゃべりをした。
ミクの癖なのか、時々、瞬きもせずにじっと話している相手の顔を見る。いや、顔を見ていると言うより、目の中を覗き込んでいるようだ。
イアはそれに気づいて、人懐っこい子なんだろうな、くらいの感想を持った。
おしゃべりがひと段落すると、喉の癒えたミクは客のアンコールに応えて、次の歌を歌いに行った。
ミクの歌声は多種多様だった。さっきまでポップスの恋歌を歌って居たかと思ったら、歌謡曲やシャンソン、ジャズやバラードも歌いこなす。
「良い子が来てくれたわね」と、ルカはマスターに言う。
「ああ。良い子なんだけど、ちょっと変わってるのは、さっき分かったろ?」
マスターにそう言われ、イアとルカは顔を見合わせ、首をかしげた。妙にフレンドリーだとは思ったが、変わったところと言われても思いつかない。
「変わってるってどこが?」
イアが聞くと、マスターは声を潜めて、「他人の目をじっと見てくるときがあるんだ」と囁いた。
ほろ酔いの二人が家路につく頃、イアのマンションがある町への最終列車の時間が迫っていた。
近道をしようとして、イアはいつもは通らない路地に入った。表通りからはそれるが、20メートル程の短い路地だ。さして不安もなく歩いて行くと、突然、後ろから誰かに突き飛ばされた。
イアが転びそうになると、突き飛ばした人物が、さっとイアの腕をとり、身を起こさせた。そしてイアが何も言えないうちに、「走るよ!」と言って、イアの腕を引っ張り、路地を疾走した。
背後で、誰かが呻いた。
路地を出た場所で、イアは、ぎゅっとつかまれていた腕を離してもらえた。
金色の髪に青い目の、人形のような少女が、「驚かせてゴメン」とイアに言う。「でも、あなた、自分が殺されかけたのに気付いてる?」と、少女は言う。
イアが息を整えながら背後を見ると、今、走ってきた路地から、金糸の長い髪を一束に結った少年が、軽い足取りで追いついてきた。
少女と同じ色の目をしている。薄明りでは顔は見えづらかったが、たぶん少女の兄弟だろう。
「レン。殺して無いでしょうね?」と、少女は物騒なことを言う。
「安静にしてれば死にゃしないよ」と、少年は答える。
「お姉さん。もっと安全な場所に移動しよう」と少女は言うと、呆気に取られているイアの手を引いて、先に歩き出した。
金色の髪の双子は、外にいる間、始終辺りを警戒しているようだった。
成り行きから、見知らぬ少女と少年を自宅に招いたイアは、二人をリビングのソファに座らせ、話を聞いた。
先に少女のほうが言い出した。「私はリン。それと、弟のレン。私達、ミク姉に頼まれたの。あなたに付き添うように」
イアは、バーで働いている歌手の少女と同じ名前が出てきて、一瞬、偶然なのかと思った。だが、リンが話すには、あの歌手の子で間違いないらしい。
リンは神妙な顔で言う。
「いきなりは信じられないかも知れないけど、ミク姉は、他人に憑りついているものが見えるんだ。目の奥を覗くと、その人の頭の中に何が住んでるのか分かるんだって」
「頭の中?」と、イアは聞いた。
「そう。つまり、心の中。あなた、最近、死にそうになったりしてなかった? 殺人だけじゃなくても、事故とか病気とかでも」と、リン。
イアは、つい昨日、事故に遭いかけたのを思い出した。
「車に轢かれそうになったことはあるけど、そんなの、よくあることでしょ?」
その話を聞いて、リンとレンはアイサインをした。
「それ、その花を買いに行ったときでしょ?」
リンにそう聞かれ、イアは、部屋の傍らに置いてある、写真立ての横のブーケを見た。
「そうだけど…なんでわかるの?」
リンはその問いに答える。
「私達も、ミク姉ほどじゃないけど、少しだけ観えるんだ。私は、誰かを守っているものの姿、レンは誰かを害するものの姿が観える」
そこで言葉を切って、リンは向かいのソファに座っていたイアに、静かに近づいた。
そして、イアの菫色がかった青い目を覗き込む。
「間違いない。この写真の女の子だ。今まで、この子が守ってくれてたんだ」
リンがそう言うと、それまで何も言わなかったレンが口を開いた。
「誰かに守られてるって言うのは、聞こえは良いけど、自分で自分の身を守る方法が分からなくなるってことでもあるんだ」
そう言って、レンはイアの左肩の少し上を指さした。
「そこに、『悪魔』が巣くい始めてる。求めているものは、あんたの魂。もしくは…」と言いかけ、レンは言葉を切った。「もっと悪いパターンもあるが、聞かないほうが良い。あんたみたいな、キラキラの魂を持った人はね」
それを聞いて、リンは天を仰ぐ。
「何カッコつけてるのよ。怖がらせるだけ怖がらせて、なんにも教えないの?」
「リンみたいな根性太い女になら教えても問題ないと思うけど、死人にブーケ供えるような繊細な女性に、世の悪辣を教えても夢見が悪いだろ?」と、レン。
「あんたの基準で根性太いとか言われたくない」と、リン。
イアは口喧嘩が始まりそうな予感がしたが、双子はそれ以上言い合わず、また真剣な顔をしてイアを見た。
リンが言う。
「しばらくの間、私達をあなたの側に居させて。プライベートには干渉しない。主に、外出するときの、護衛をさせてほしいの」
イアは、自分の身に、そんなに恐ろしい事が起こるかは予想がつかなかったが、リンの言葉を承諾した。
リンとレンがイアの家を去る時、リンが言った。
「近いうちに、ミク姉とあなたが逢える機会を作る。それまで、気を付けて。私達も最善を尽くす」
その声には、14歳くらいに見える少女の言葉とは思えない力強さがあった。
一人、家に残ったイアは、12歳で時を止めた親友の写真を見て、自分の中であの子は生きていたんだ、と、不思議と落ち着いた気分になった。
同時に、左肩に手を置き、寒気を覚えた。「悪魔」が巣くい始めている、という、この左肩。
イアは肩越しに後ろを振り返った。自分には何も見えない。
ひとつ大きくため息をつき、写真を見つめ、イアは声をかける。
「アイ。私には、まだこの世での役目があるみたい」
窓の外から、囁くような雨の音が聞こえてきた。
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