いくつかの修正パッチが出ているが数百MB程度なので一瞬でダウンロードが終わる。
パッチを当てている間、私はCPUコンソールからニュースサイトを覗いた。
ニュースでは主だった事件や政治の動向、天候や紫外線の情報が流れているが、特に重要度の高そうなニュースは見当たらない。
GPSによればここは新ヨコハマシティ。今世紀初頭まで日本の首都であった東京は温暖化による海面上昇で既にイーストエリアの大部分が海没し、実質の首都機能はここ新ヨコハマに遷(うつ)っている
http://flood.firetree.net/?ll=35.4696,139.6301&z=5


日本は少子高齢化と産業の空洞化で世界での競争力を一時失いかけたが、ロボトロニクスと付帯するロボット製品の実用化に成功し、再び影響力を強めつつあった。
特に二足歩行型ヒューマンドロイドの商品化は世界唯一の成功例として世界にその技術力をアピールした格好だ。

それまでもユビキタスコンピューティングがもたらす家電のロボット化、自家用車のロボット化が進んではいたが、真の意味でヒューマンドロイドが一般家庭でも見られるようになったのはここ十年程の話。
当初は家事手伝い、介護型のホームドロイドが高齢化によって失われた労働力を補填する形で導入されたが、昨今ではより人に近しい姿を求めて飽くなき開発競争が繰り広げられ、昨年クリプトン・インダストリアル社から福祉施設向けに発売された「初音ミク」型ファシリティドロイドがあまりにも人間にそっくりであったためか、はたまたユーザーの琴線に触れるものがあったのか、一般的なホームドロイドの倍近い価格にもかかわらず生産が追いつかないほどの大ヒットとなった。

「初音ミク」型ドロイドはCV(Communication Vantage)シリーズと呼ばれ、新開発の「感情(センス)モジュール」を搭載している。
これは環境に応じてプリセットされた膨大な反応パターンを組み合わせて自律システムを制御し、人間の感情をシミュレートするシステムだ。
褒められると喜び、怒られると悲しむと言った単純な反応から学習次第では人間そっくりの反応を示すことがあると言う。高齢者や身体障害者などには冷たい機械の反応が時にストレスとなることが知られているため、「人に優しいシステム」として開発されたとされているが、この感情モジュールを最も早く、そして高く評価したのは秋葉原や日本橋の住人だったと言うのはある意味日本らしい話であろう。

その後もCV02としてCVKR「鏡音リン」、CVKL「鏡音レン」が発売され、これも高い人気を誇っている。
これに続けとヒューマンドロイド開発で先鞭をつけたホンダ・ディベロップメントやヴォーカロイドシステムの基幹部を作り上げ、最近ではドロイド開発にも力を入れているヤマハロボトロニクス、インターネットテクノロジー社、そして新進の外資系メーカー、ヴェルナー社などが同様のシステムを搭載したドロイドを発表している。

体内時計がちょうど正午を指し示す頃、マスターは一つ伸びをした。
私は待機モードを解除した。
マスターはちらりとこちらを見て手招きする。私は立ち上がった。少しバランスを崩す。そういえば自立したのは初めてだった。バランサーに何も補正をかけていなかった。
不安定なベッドから床に降り立ったのもバランサーの補正再計算に余計なパラメータを増やす結果になった。
私は大きく上体を右に傾かせたが、不意に傾きが止まった。
マスターが抱きかかえてくれていたのだ。
その瞬間、感情モジュールは「歓喜」と「羞恥」を出力したが、CPUはたっぷり3秒間フリーズした。
ピコセカンド(1兆分の1秒)レベルで動作しているコンピューターにとって3秒は永遠にも似た時間だった。発声モジュールがコンフリクトしていなければ意味不明な言葉を発していたに違いない。
……?
今なぜ私は意味不明な言葉を発しそうになったのだろう?

バランス補正計算が終了して私は体勢を立て直す。
マスターの顔が近い。心配そうに私の顔を覗き込んでいたマスターが安堵したかのように微笑んだ。
また自律システムがエラーを起こした。マルチリンゲル液ポンプのポンピングベロシティ値(稼働率)が規定を超えている。
どうやら不良品と判断されたのはあながち間違いではなさそうだ。こんなにエラーを頻発するとはどうかしている。
私は急いでマスターと距離をとった。
少し私の顔が紅潮しているようだ。人工皮膚用のヘム鉄を含んだヘムリンゲル液流量が奇妙なほど高い数値を示す。感情モジュールは沈黙したままだ。一体どういうことなのだろう?
残念ながら各種センサモジュールの報告からはその答えは得られなかった。声が出ない不具合と何か関連があるのだろうか??

マスターは壁にかけてあった黒いジャケットを羽織ると、私を手招きした。
ついて来い、ということなのだろうか?
そう言えば私はマスターの言葉を聴いていない。否、通常ならユーザー情報に声紋が登録されるはずだが、声紋情報は空欄だ。
もう一つ疑問があった。
私は「身障者介助用ホームドロイド」として登録されたのだ。身体障害者?
マスターは迷わず玄関へと歩いていく。私はその背中を追った。

どうもここはマンションの一室のようだ。規格化された部屋の構造だが、キーボードやギター、各種アンプやコントローラーと思しき機材がこの部屋を画一された部屋とは違う独特の空気で満たしていた。
マスターがドアを開いた。
その断面構造から防音ドアであることが窺(うかが)い知れる。おそらく壁も防音壁だろう。借家で音楽を嗜む難しさはこうした設備面の不備によることが大きい。それを鑑みればここはかなり優れた音楽環境にあるといっていい。

機材もそれほど古くはなさそうだし、よく使い込まれている。
マスターが靴を履いて外に出るのに続いて私も出ようとし、裸足であることに気が付いた。
勿論機能上は問題ないが社会通念上問題がありそうだ。
マスターは玄関口でフリーズしている私を見つけ何度か目をしばたいたあと、ぽんと手を打った。玄関に戻ったマスターは私のためにサンダルを用意してくれた。
サンダルは男性用でかなり大きかったがないよりはマシだろう。
私がサンダルを履いて外に出るとドアが閉まり、電子錠が下りる音が聞こえた。

外に出るとすぐ廊下になっていて、外の様子が見渡せた。
マンションはレンガ調の外壁を持った瀟洒(しょうしゃ)な5階建て。そしてここは5階だった。周囲は閑静な住宅街で、甍(いらか)の合間に目の醒めるような緑が見える。
廊下の手すり越し彼方に海が見えるが、所々海から前時代の高層建築物が突き出していた。海に没することが判っていた低地の建築物は下層部を防波コンクリートで覆って水上都市を形成しているが、埋立地など土壌が軟弱な場所に建つ高層建築物は放棄せざるを得なかった。放棄された廃ビルに一部のホームレスが船で渡って住み着いているとも聞くが、漁礁となるため大半の建築物は残されたままだ。

気が付くとマスターが廊下の先でこちらを見ていた。私は小走りでそのあとを追う。
エレベーターの前でマスターに追いついた。
マスターはこちらを振り向いてしばし何かを考えていたが、不意に手をさささっと動かした。私はそれがなんであるか知っている。否、それは障害者介護ドロイドに必須項目としてデータベースへ記録されている。
それは手話だった。
マスターは……聴唖者なのだ。

ライセンス

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存在理由 (3)

閲覧数:205

投稿日:2009/05/17 22:51:51

文字数:3,102文字

カテゴリ:小説

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