十四人目は風だった。大会が近いせいで、その日は部活の終わりが遅くなり、帰りも夜遅くになってしまっていた。暗い路地を歩いていると、唐突に背後から声が聞こえた。
「わすれものはないか?」
 振り返っても誰もいなかった。歩いてきた路地が街路灯に照らされているだけだった。誰もいない空間に向かって、僕は言った。
「ありません」
「そうか」
「あの、訊いても良いですか?」
「何だ?」
「あなたは誰ですか?」
 びゅう、と風が吹いた。初夏の夜風は心地よく、涼しさを纏って僕の頬に触れた。
「わたしは風だ」
「風?」
「そうだ」
「なぜ僕に話しかけるのですか? "わすれもの"とは、どういう意味ですか?」
 僕は訪ねた。風は姿を見せず、ただ暗闇の中から僕に語りかけるだけだった。
「それはおまえが優しいからだ」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。どれ、わたしはそろそろ失礼する。風は同じ場所に留まってはいけないから」
「待ってください」
 びゅう、とまた風が吹いた。風は音を立てながら、月の浮かぶ夜空に消えていった。僕はしばらく見上げたあと、家に向かって歩きだした。

 十五人目は、鏡の中の自分だった。
「わすれものはないか?」
 はっきりとそう尋ねる自分の姿は、ひどく奇妙なものだった。
「ないよ」
 僕は自分に向かって答えた。すると、鏡の中の僕は笑った。自分が笑うとこんなふうなのか、と少し不気味に思いながら、僕は鏡を見ていた。
「そうかい、わすれものはないのかい、お前はいつだって、忘れっぽいのにな」
 鏡の僕は笑いながら言った。僕は否定しなかった。そうだ、僕はいつも忘れっぽい。
「きみは誰だ?」
「さあ、誰だと思う?」
 鏡は逆に問う。
「君は僕なのか?」
「さあ、誰だと思う?」
 鏡は同じことを言う。
「僕は、君は鏡の中の僕でしかないと思う」
 僕は問いに答えた。鏡の僕はまた笑った。
「大正解だ」
 僕は洗面所を後にした。

 十六人目は、夢の中の僕だった。
「わすれものはないか?」
「ないよ」
 これは夢だ、と、はっきり認識できたのはなぜだろう。暗闇の中で、僕は自分と同じ姿の少年と向き合っていた。
「君は誰だ?」
「さあ、誰だと思う?」
「君は鏡の中の僕なのか?」
「そうだ。また会ったな」
「なぜ鏡の中の君が、僕の夢にでてくるんだ?」
「さあ、なぜだと思う?」
 僕は黙った。その問いに対する答えが、いつまでも見つからなかった。しばらくすると、正面の僕は口を開いた。
「教えてやるよ。それはな、お前が優しいからだ」
「どういう意味?」
「つまりな、俺が鏡の中のお前でしかないのと同じように、お前だって、鏡の外のお前でしかないんだよ」
 やはり、わからなかった。
「わからない。君の言っていることはわからないよ。もっとちゃんと説明してくれないか?」
「ほら、忘れてる」
 鏡の僕はにやりと笑って、僕を指さした。
「お前は忘れっぽい。だからわすれものをするんだ」
 そんなことは知っている。
 朝になり僕は目が覚めた。鏡の中の僕は、二度と現れることはなかった。

 十七人目は、この間会った黒猫だった。
「わすれものはないかにゃ?」
「ないよ。ねえきみ、また会ったね、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「何にゃ?」
 僕はその猫を引き留めることに成功した。猫は笑ったような顔で座り、僕を見上げていた。
「君は誰?」
「さあ、誰だと思うにゃ?」
「君は…、君は猫だ」
「大正解にゃ」
「なぜ猫が僕に話しかけるんだ?」
 僕は尋ねた。猫は、その瞳を細めた。
「その答えは、お前はもう知っているはずにゃ。お前は忘れてなんかいない。ちょっと考えれば、すぐわかることにゃ」
「忘れてなんか、ない?」
「そうにゃ、お前は、忘れてなんか、ない」
 そう言うと、猫は目にも留まらぬ早さで暗闇に飛んだ。僕はすぐに見失い、それ以上話をすることも出来なかった。
 僕はその日から、何人に話しかけられたかを数えるのをやめた。

 もう何人目だろうか。その人物は、死んだ祖父だった。
「わすれものはないのか?」
「ないよ、じいちゃん」
「そうかそうか、じゃあ、久々に会ったんだし、小遣いをやろう」
「いらないよ。僕はもう、そんな年じゃないし」
「そうか? お前も、大きくなったんだなあ」
「そうだよじいちゃん、僕は、大きくなったんだよ」
 死んだ祖父の顔は、明るかった。最後に会ったときよりも、皺が少ない。まるで若返っているようだった。
「じいちゃん、若くなったみたいだ」
「そうか?じいちゃんは死んだときのまんまだぞ」
 祖父は剽軽に答えた。昔から、気さくな祖父だった。
「聞いてもいい?」
「おう、何でも聞いていいぞ」
「あなたは誰ですか?」
「さあ、誰だと思う?」
 祖父は逆に問う。その目は、光を湛え、まっすぐ僕を見つめていた。
「あなたは僕の祖父です」
「大正解だ」
 祖父は快活に笑った。とても愉快そうに、笑っていた。
「お前は、優しい子だ」
 祖父は言った。
「お前はとても優しい。だが、その優しさ故に、人を傷つけることも、何かを忘れることもあるだろう」
 慈愛を含んだ暖かい声で、祖父は僕に話しかける。
「でも、いいんだ。お前は優しいのだから。たまにはわすれものをしてしまっても、いいんだ」
 目を開けると、そこは暗闇だった。祖父の姿も、声も、何もなかった。
 当然だ。祖父はもう、死んだのだ。

 もう何人目だろうか、その人物は、自分を科学者だと名乗った。
「やあ、忘れ物はないかい?」
「ありません」
「じゃあ、困ったことはないかい?」
 背の高い、細身のその男は眼鏡をかけていた。飄々とした態度で、僕に聞いてきた。
「ありません」
「あれ、ないの? 君は今、困っていないのかい?」
「困ってはいません。ただ少し、奇妙な気分であるだけです」
「へえ、それはどうして」
「さあ、どうしてだと思いますか?」
 僕は訊いた。科学者だと名乗るその男に、挑発するように。しかし男は楽しそうに答えた。
「君がわすれものをしているからだ、と思うね」
「それはなんですか?」
「そうだなぁ、例えば」
 男は薄笑いを浮かべながら、僕の胸を指さした。
「そこ、とか」
「……」
 目を開けると、そこは暗闇だった。

 もう何人目だろうか、わからない。だが、僕はやっと、その人物に会ったのだった。
「こんにちは」
 その人物は挨拶をした。透き通るような声に、僕は答えた。
「こんにちは」
「あなたは誰?」
 純粋な声で、その人物は僕に尋ねた。
「僕は…」
「忘れているの?」
「違う。ただ、僕は…」
「苦しいの?」
 気づけば、僕は自身の胸を押さえていた。
「苦しくなんか、ない。僕は忘れていない。君は、君だけは」
「本当に?」
 静かに落ち着いた声が、僕の鼓膜を揺らす。そして、僕の胸を痛ませる。
「僕は忘れていない」
 僕は彼女を抱きしめて、言った。彼女は微笑んで、僕の背中を撫でた。
「そう、嬉しい。やっぱりあなたは優しいのね」
「僕は…」
 僕はそれきり、何も言えなかった。

―――――――――


}end


 少女は小さなため息をつくと、膝に置いたノートPCを静かに閉じた。窓の外では、自分のいない世界が、自分を抜きにして動いている。時間のない空間に閉じこめられたまま、少女は日々を過ごすだけだった。
「素敵ね」
 ベッドの横の丸椅子に腰掛けた、少女より一回り年上の女性が言った。その人は、彼女にとって頼れる姉のような存在となっていた。
「そうですか? 今回のは、ちょっと失敗作かなと思ったんですが」
「そんなことない。いいと思うわ」
 女性は優しい笑顔で言う。その顔に、自分は何度救われただろう、と思った。
「じゃあ、そろそろ行くね。元気でね」
 女性は立ち上がって、少女に手を振った。そして病室を出る間際に振り返り、楽しそうに言った。
「わすれものは、ないかしら?」
 少女はくすりと笑って、こう答えた。
「いっぱいありますよ、私には」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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記憶への欠落、それまでの忘却 2/2

title:きおくへのけつらく、それまでのぼうきゃく

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つい先日、電車で知らないおっさんに「わすれものはないか?」と話しかけられたので、「ないです」と答えました。実話です。
あれは何だったのか…

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投稿日:2014/01/13 21:20:28

文字数:3,328文字

カテゴリ:小説

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