十月五日 翌朝午前十一時半の特急はくたかで富山迄行き、富山で三十分余りの待合せで特急しらさぎに乗継いで敦賀迄行く事にした。時間が余っていたので駅前の観光案内看板を見て乏しい観光資源の中から駅に近い一の宮にある相馬御風記念館で時間をつぶす事にした。表の固定看板に月曜日休館とあったが、その日は別の日の振替えで偶々開いていた。時間を潰し乍土岐は自分の無知を知らされた。早稲田大学校歌、都の西北や日本初の流行歌、カチューシャの唄や童謡春よこいの作詞者が相馬御風である事を初めて知った。更に戦前の新潟県を中心とした二百校余りの小中高等学校の校歌を作詞している事に仰天した。作詞した校歌の校名一覧には圧倒された。そればかりではない。七十を超える流行歌や百を超える童謡や四十余りの社歌・団歌等、夥しい数にのぼる。土岐が生まれる遥か前、昭和二十五年に亡くなっている事を知って土岐は自らの無知を慰めた。記念館を出る際、土岐の記憶に何か引っかかる物があった。そう言えば廣川も同じ様な事をしていた。糸魚川出身の相馬御風と京都出身の廣川、昭和二十五年に没した御風と昭和二十五年以降、伝説の総会屋として活躍し始めた弘毅。どこかに繋がりがあるのか?二人の共通点は校歌や社歌や団歌しかない。土岐は偶然だと考え事件とは無関係だと断じ記憶の抽斗に仕舞込んだ。
■敦賀に到着したのは午後三時半頃だった。夕暮れが近付いていた。急ぎ足で法蔵寺に向かった。昨日と同じ庫裡の玄関で土岐は声をかけた。「今日は。どなたかおられますか?」暫くして昨日の住職が腫れぼったい顔で現れた。昨夜精進落としの会席でもあったのかも知れない。住職は数秒で昨日の土岐を思い出した。「また何か」「すいません度々。実は昨日お聞き漏らした事がありまして」住職は欠伸を噛殺し乍土岐の次の問いを待受けている。「長田賢治さんについてなんすが」「オサダケンジ?」「戦前、こちらに小僧さんでおられたとか」「オサダケンジという人は知りませんね。永田賢蔵さんではないんですか」「いえ長田賢治さんを糸魚川からこちらへ小僧さんとして連れてきた禰宜の身内の方に聞いてきました」「どういう字を書くんですか」「長短の長い田んぼ賢く治めるという名前す。昨日永田賢蔵という人の写真をコピーさせて貰いましたが、その人はひょっとして長田賢治さんではないんすか」「そうですか、そう言われるならそうかも知れません。長田賢治という名前が出家する前の名前だとすると永田賢蔵の賢蔵は出家した時の名前で、永田という姓は私の記憶違いかも知れないです。この寺では僧名に蔵を付けるのが仕来りで長田賢蔵さんは還俗されて元の賢治という名前に戻したんですかね。私は先々代の葬儀の時にまだ小学生でしたが、たった一度しか会った事がないんです。その時に長田を永田と記憶したんでしょうかね」「賢蔵さんはこちらにはいつ頃迄おられたんすか」「戦前は浄土宗の大学がなかったんで多分終戦前後に京都の浄土宗の専門学校に行かれたんじゃないですか。その頃は京都の同門の寺の智恩寺の方丈に寝泊まりして通ったんじゃないですかね。私も僧侶の資格を大学院で取りに京都に行った時は智恩寺にお世話になっていました」「智恩寺というと壱萬遍の」「そうです」と言われて土岐は学僧兵のストーリーを思い出していた。確か京都の専門学校に行ったのは主人公の有部昭夫一人ではなく、もう一人網田雄蔵もいたはずだ。「もう一人、後か、先か、賢蔵さんと同じ様に京都に行かれた方はおられましたか」「ええいた様です。戦争中に亡くなられたんで私は一度もお目にかかった事はないんですが確か三田法蔵という人です。出家する前は法雄と言ってた様です。とても優秀だった人みたいでその方が書かれた香偈、三宝礼、三奉請、懺悔偈、十念、開経偈、勤行で使われた写経を今でも使っています。本堂の南無阿彌陀佛というお軸も法蔵さんが書かれたものと先代から聞いてます。宜しかったらご覧になりますか」「掛軸すか」「本堂にあります」と言い乍住職は手の平を土岐に向けて玄関から上がる様に促す。土岐は何かの役に立つかも知れないという思いで住職に従った。「ミタホウゾウはどう書くんですか」「三つの田んぼにこのお寺と同じ法の蔵です。先々代の祖父は彼を非常に高く買っていた様でゆくゆくは大叔母と結婚させてこの寺を継いで貰おうとも考えていた様です。残念乍終戦の直前に特攻で亡くなられたと聞いてます」長い回廊を軋ませ乍歩いて薄暗い本堂に入ると住職は本堂右奥の抹香臭い壁にかかっている墨痕鮮やかな南無阿彌陀佛という掛軸を指し示した。
■京都へは敦賀一六時四二分発の特急雷鳥に乗って一七時三九分に着いた。京都駅で既に二泊しているホテルの予約をとった。予約掛のフロントは土岐の名前を覚えていた。シングルがとれた。近く迄市バスで行った。夕食を一度行った事のある中華料理店で取る事にした。見覚えのある中年のでっぷりした下膨れの女が注文を取りに来た。他に客はいなかった。土岐の事を覚えていた。土岐は前回と同じとんこつラーメンを注文した。コップに水を入れて持ってきた中年女に聞いてみた。「そこのお寺の前に、駐車場がありますよね。あの土地を昔持っていた廣川というお宅の事をご存知すか」「いつごろの事でっしゃろう」「終戦直後だから六十年位前」「そんな昔の話、お父はんに聞いてみないと」と言って女は縄暖簾を掻分けて調理場に入って行った。暫くしてラーメン丼を持った老人が薄汚れた前掛の儘出てきた。「こないだの方や。東京の人でっしゃろ」「終戦直後の話なんすけど戦前からそこの駐車場の土地持ってた廣川というお宅御存じないすか」「何とのう覚えてま。戦時中は誰も住んでおらんかった様だったけど終戦直後、廣川のあんさんが帰ってこられて暫くおられはった思う。裏のお寺の寺男の様な事しておられた」「どんな仕事すか」「戦時中は人が仰山亡くなられはったんでお骨を持って舞鶴港から引揚げてこられる方も仰山おられてお寺は連日の様に葬式やら法事やらで忙しかった。昭和二十二年の農地解放迄お寺も小作を仰山持っておられたし、えらい景気がようどした。廣川のあんさんは多分昭和二十三年頃迄智恩寺の寺男みたいな仕事されはってた思います」「智恩寺に戦時中、三田法蔵という人がいたんですがご存じないすか」「あのお寺には仰山若いお坊さんがおらはった様な記憶はありますがお名前迄は」「それじゃ長田賢治という人、賢蔵と言っていたかも知れませんが御存じないすよね」「長田はん?同じ人かどうか分からしまへんけど他のお寺の人が賢蔵はんって呼ばはってた人からようお菓子を頂きました。戦後の事どすけど。賢蔵はんはその後もようみかけました。仏教関係の骨董品とか観音様の焼き物とか純金の指輪や腕輪とか時計とか高価なお数珠とか盂蘭盆や檀家の念仏の集まりのある時に大きなバッグもって行商に来なはってた。私もそこの檀徒なんで糸魚川産の翡翠のお数珠を買うた事あります。四条河原町辺りにそうしたお店が昭和四十年代頃、仰山出けたころから次第に来なはらへん様になりました」土岐はショルダーバッグから廣川のパスポートを取出して写真を見せた。「この人が廣川という人す。四十歳すぎの写真すが」「ええ確かに少しお年をとらはってる様ですが、廣川はんどすな」ついでに斎藤写真館で複写した写真も見せた。「ここに写ってるのが廣川さんと賢蔵さんすよね」「そうどす。なんと懐かしい。これどこで撮った写真です」「敦賀の法蔵寺で、四十年位前の」麺が太めの素麺の様になっていた。
■飲食店を出てからその裏手にある智恩寺の庫裡に向かった。夜の底がすっかり冷え切っていた。庫裡の窓からは室内の照明が境内にそこはかとなく漏れていた。入口で声をかけると先日の若僧が出てきた。土岐の顔を覚えている様だった。また何かという様な顔付きをしていた。「先日廣川家の墓参りに来た者すが今夜はこちらに寄宿されていた方についてちょっとお伺いしたくて参りました」どんなことかと若僧は土岐の質問を待受けてこめかみの血管をひっくつかせて神妙な顔付をする。土岐は若僧の背後に漂う霊的な薄暗闇に何となく不安を感じ乍、若僧では戦前の話は知らないだろうと質問するのを一瞬躊躇った。「実は戦時中の事で」「へえどんな事どすか」「こちらに三田法蔵という人と長田賢蔵という人が寄宿されてたと思うんすが」「長田賢蔵はんは存じ上げませんが三田法蔵はんは知っとります」「特攻で亡くなった方すけど」「本院ではとても高名な方どす。お見せしまひょう」と言って若僧は土岐に框に上がる様に促した。乞われる儘に土岐は若僧の後に付いて行った。庫裡から本堂への渡り廊下は冷え冷えとした板が歩く度に軋んだ。本堂の天井に薄明りが灯されると仄な明りの向こうの須弥壇の中央に鈍い金色の阿弥陀如来が座しているのが浮かび上がった。若僧が解説する。右脇士に観音菩薩立像、左脇士に勢至菩薩立像、右脇壇に高祖善導大師木像、左脇壇に宗祖法然上人木像が蒼然として祀られている。その傍らに極太の墨痕黒々と南無阿彌陀佛の掛軸があった。法蔵寺で見た物より蝋燭の煤で地が焦茶に変色していたが土岐には同じ手の物に見えた。「このお軸を書かれはったのが法蔵はんどす。六十数年前裏の墓所の卒塔婆の梵字を全部書直したのもそうどす。今でも勤行の時使っている経典を写経したのもそうどす。その当時は専門学校でしたが今の浄土大学に入学試験で満点で合格したのもそうどす。それ以前にもそれ以後にも満点合格の入学者はないそうどす」土岐は話題を変えた。「このお寺の北に禅宗の清浄寺がありますがお坊さん同士で交流があるんすか」「特にないどすけど墓所が垣根一つで繋がっとりますので朝の掃除の時、顔合せる事ありますけど」それが何かと疑問符のある顔付で若僧は土岐を見る。「もう亡くなられたんすが作家の塔頭哲斗が戦時中いたのご存知すか」「聞いた事あります」その先を土岐は知りたかった。若僧が気付きそうになかったので痺れを切らし問うた。「その当時の事、詳しくご存じの方はおられませんか」若僧は考込んだ。「知ってるとすると八十以上の方どすよね。ひょっとしたら、うちとこの出入りの花屋の御隠居はんなら」「その花屋どこすか」「壱萬遍の交差点の向こうの角どす」と聞いて土岐は智恩寺を辞した。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月五日1

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投稿日:2022/04/07 14:23:15

文字数:4,246文字

カテゴリ:小説

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