■JR紀勢本線で高茶屋から津乗換えで近鉄名阪乙特急で近鉄名古屋に着き名鉄名古屋から神宮前に着いたのは丁度四時だった。駅から徒歩三分程度で東門の鳥居に辿り着いたが、そこから本宮迄は玉砂利に足をとられて十分近くを要した。夕暮れ前で晩秋間近の日差が弱々しく社の森に漂い、ほの暗い黄昏が木々から零れる秋の空を稠密に埋め始めていた。本宮前の五、六段の広い石段の中央で焦茶のベレー帽を被り後ろ姿でじっと拝礼し続けている老人がいた。土岐は背中から声をかけた。「失礼すが堀田さんすか」振返ると柔らかそうな銀髪が二、三本額に乱れ、黒縁の眼鏡の奥から焦点を合わせる様に土岐の顔を捉えようとしている小さな眼があった。「トキさんですか?」「はい」「態々東京からご足労です。今香良洲から来られたとか」「ええ英霊を懇ろに弔ってきました」「そうですか。私は近くに住んでるんですけど最近は殆ど香良洲には行かないですね。もう同期の殆どが物故した事もあるし」堀田は本宮に一礼すると踵を返して木漏れ日の中を南に向かって歩き始めた。「お帰りはJR?それとも地下鉄で」堀田の言葉には境内で聞くせいか言霊の様な静謐さが感じられる。「新幹線で東京に帰りますので、どちらでも」「今東門から来たんですか」「そうす」「それじゃ西門から出ますか。地下鉄があります」堀田はややO脚気味の矍鑠とした足取りで玉砂利を踏みしめて行く。土岐は左斜め後方から堀田の横顔を窺う様に質問した。「三田法蔵を御存知すよね」「彼の事は第五班のみならず隊員全てが知ってる」「八月十四日に殉職された事今日知りました。その状況はどうだったんしょうか」「ワイヤーのフックが外れずグライダーが滑走路に叩きつけられて即死だった」「事故だったんしょうか」「事故とは考えられない。自殺か他殺だ」「自殺?」「まあ他殺でなければ自殺という事だ。フックをはずすのは本人だからフックに異常がなかったとすれば自殺。心神喪失状態になっていたとすれば事故だろうが」「他殺だとしたら誰が犯人しょうか」「隊員全員が彼に嫉妬していたから嫉妬が動機だとしたら隊員全員が容疑者だ。惚れ惚れする様な美男子でラブレターがよく来てた。それがよく盗まれたらしい。彼は全く気にしていなかった様だが。それに手先信号、航海術、空中航法、滑空機操縦術、飛行機基本操縦術、航空術、運用術、見張術、六十年たった今でも教科を覚えている。記憶は鮮明だ。戦後のぬるま湯の様な人生は薄いベールの掛った様な記憶しかない。彼は何をやらせても満点をとった。それに特攻志願のアンケートを教官がとった時、彼は何の躊躇もなく真先に志願すると答えた。何の迷いもなく特攻志願する者等本当は一人もいなかった。特攻志願すれば間違いなく戦死する。故郷にも帰れないし両親や兄弟にも恋人にも永遠に会えなくなる。心中では誰もが特攻に志願したくなかったが、それでも一人も特攻を志願しないと答えた者はいなかった」「三田は自殺したという可能性もあるんすか」「俺はひょっとしたらと思ってる。嫉妬だけでは殺す動機としては弱い。それに予備学生がグライダーに細工するのは物理的に困難だ。歩哨の不寝番もいるし士官はともかく学生が用もないのにグライダーの近くをうろうろしてたら咎められる」「教官が容疑者の可能性はないすか?例えば長瀬啓志とか」「動機が見当らない。彼はどの教官からも好かれてた。どんな問題を出しても満点をとる生徒というのは教官冥利に尽きるんじゃないだろうか?誰しもが三田は天才的だと評していたが俺はそうは見ていなかった。彼は夜中自転車から懐中電灯を取外してハンモックの中で毛布を被って勉強してたんだ。寝る前に水を飲みすぎて夜中、偶々便所に起きた時に見かけた。朝が白けてくると彼は廊下や便所の掃除を始めてた。だから殆どの隊員は彼が真夜中ハンモックの中で勉強してた事を知らないはずだ」右手に築地塀が見えてきた。信長塀と呼ばれているという説明書きがある。「三田は眠くはなかったんですかね」「彼は良く昼休みに居眠りしてた。他の隊員はお喋りしたり手紙の読み書きをしていたが彼だけは別だった。話が合わなかったという事もある。早稲田や慶応の学生はご飯の中にコクゾウムシが入っていると気持ち悪くて食えないと言って指でご飯茶わんから摘み出して食べなかったが彼はコクゾウムシは米しか食べていないからコメと同じだと言って喜んで食べてた。入隊して余りに激しい訓練で疲れきって食欲をなくし、げっそりと痩せてしまった者が多かった中で彼だけが逞しくなって行った。俺は彼は天才ではないと見てた。類稀な努力家だと考えてた。それが分ったのは彼が死んで遺品の整理をしてた時だ。ハンモックの中から錆びた縫針が出てきた。縫針としては使い物にならない程錆びていたので最初は何で彼のハンモックに錆びた縫針があったのか分らなかったが、少し血の臭いがしたのと湯灌した時に彼の体中に赤い点々が無数にあったので彼が縫針で自分の体を刺していた事が分かった」「リストカットみたいなものすか」「いや違う。眠気覚ましだ。多分真夜中ハンモックの中で勉強している時に眠気に襲われると自分の体を縫針で刺していたんだと思う」「でも何でそれ程迄していい点をとろうとしたんしょう」「教官が学徒兵のモチベーションを高める目的で飛行機が殆どないので成績の良い者から特攻させると言ったからじゃないだろうか。彼は一番になりたかったんだ」右手前方に大楠が見えてきた。説明書きに弘法大師が植えたとある。「でも殆どの人は特攻に行きたくなかったんすよね」「だから彼の優秀さが際立ったんだ。皆うっかり一番になったら特攻に行かなければならないと思ってた。勉学に身が入らなかった。勉学の手を多少ぬいても後ろめたい気持ちにはならなかった」「でも三田はなんでそんなに特攻に行きたかったんしょうか」「奴とは一度酒を飲み乍本音を語合った事がある。禁句ではあったが彼はこの戦争は間違いなく負けると言っていた。それを聞いた時、一瞬辺りを見回した。特高を心配したんだが軍隊には密告者はいても特高のいる訳がない。飛ぶ飛行機もないのに勝てる訳がないとも言ってた。嘆きと言うよりも冷静な判断だったと思う。作戦参謀が特攻を作戦として取上げた時点で負けた様なものだとも言ってた。この物言いには多少、作戦参謀に対する怒気が込められてた。優秀なパイロットから順に死んでったら空中戦で勝てる訳がない。山本大将も言っておられたが近代戦で制空権をとられたら勝ち目はないとも言ってた。それじゃ特攻は犬死かと彼に聞いたら、いやアメリカに二度と日本とは戦争をしたくないと思わせる効果がある。八月十四日には日本が無条件降伏をするらしいという噂が流れてた。誰もが戦争が終わって晴々した様な気持ちになろうとしてたが彼は逆だったのかも知れない。彼の気持ちを推し量る事はできないが平和になる事を悲観して自殺したのかも知れない。あの時彼が生きてた目的は特攻にあった。終戦でその目的が失われる。だから生きてる意味がなくなったのか。ようわからん」柄杓が並ぶ手水舎の脇の鳥居を潜って右手に折れると、西門の鳥居が見えてきた。西門の鳥居を潜る頃には、つるべ落としの陽はとっぷりと暮れていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月六日2

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投稿日:2022/04/07 14:33:04

文字数:2,978文字

カテゴリ:小説

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