先に帰りな、と君はうながした。べしょべしょになったハンドタオルを握りしめて、私は頷いた。
もう夕日は沈みきっていて、東のほうは暗くて、青かった。生ぬるく湿った風が通り抜けて行って、髪がふわりと持ち上げられた。
髪を押さえながら、屋上のドアを開けて、一度だけと思いながら君の方を振り返った。
君はこちらに背を向けて、もう赤くない街を見下ろしていた。私を見てくれるような気は、しなかった。
少し、期待していた。好きだって、言ってくれるんじゃないかって。でもなぜか、ここに着いた時にはもう、そういうことにはならないんだろうなって気付いていた。高い壁が建ってしまったことに、もう呆然としてしまって、そこまで手が回らないというか、これでもうおしまいなんだろうなって、なんとなく感じてしまった。
でも、そんなことを悟ったからって、納得できるくらい私は強くない。
いつもは自転車で来る場所だけど、今日は歩いて来た。三十分くらい、ゆっくり歩きたかったから。でも、やっぱり自転車で来れば良かった。泣きながら歩くのが、こんなに苦しいと思わなかった。歩くから苦しいのか、結局何も言えずに終わってしまったから苦しいのか、もうわからなかった。
* * *
家に着いて、自分の部屋に閉じこもった。カーテンは閉め切っていて、光は全然無かった。真っ暗な部屋の中で布団をかぶり、さらに暗闇に沈んだ。
すごく、胸が痛かった。痛すぎて、もう肺が潰されてて、空気が吸えなくて、苦しくて、死んじゃうんじゃないかと思った。
なんで言ってくれなかったんだろう。好きじゃなかったの?勘違い?それはそれですごく痛い。
自分が、これは恋なんだって自覚したのはいつだったっけ。でも気持ちを伝えたら、このままじゃいられなくなることはわかってたから、ずっと心の奥底に隠していた。
気持ちを伝えてこのままじゃいられなくなるのと、引越しちゃってこのままじゃいられなくなるのでは、どっちが幸せだったんだろう。
君はきっと、私が気持ちを隠してたのにも気付いてたはずなんだ。それなのに見えないふりをして、最後も結局そのまんま。『また会えるから』なんて、ほんとにそう思ってる?会いに来てくれる?嘘でしょ、わかってるよ。ギター持って歌って回るなんて、そんな柄じゃないでしょう。なんでそんな、見え透いた嘘を最後に吐くの。それで満足すると、納得すると思ったわけ。
「嫌い」
布団の中でつぶやいた声は、思ってたより大きく耳に届いた。
わかってくれてないんだ。嫌い、嫌い嫌い。もう忘れたほうがいいんだ。あんなやつ、好きでいたってもうどうしようもないんだから。
そう思ってるくせに、嫌いだってつぶやくたびに痛くなるのはなんでなんだろう。忘れたいって思うごとに、自分が消えてしまいたくなるのはどうしてなんだろう。
涙は、いつになったら枯れてくれるんだろう。
「うわあぁ……」
自分の泣き声と、呼吸と、心臓の音がうるさかった。
私が悪いんだ。何もできなかったのは私で、勇気が無かったのは私で、思い込んでたのも最後のチャンスを無駄にしたのも私なんだ。
嫌いになれないよ、忘れることなんてできないよ。
頭のなかでぐるぐると、できる、できないが回り続けて、そのまま私は眠ってしまった。
夢を見た。
私たちは屋上に居た。
振り返って見た時と同じように、君の背中しか見えなかった。
無音だった。何も聞こえない。でも、君が何か言っているのはわかる。なんて言ってるの?聞こえない。気になるのに、私は近寄ろうともしない。
東側がまぶしくなって、そのまま光で何も見えなくなってしまう。
未だにその夢をたまに見る。起きてからカーテンを開けて、その先の光に君が見えるんじゃないかなんて思うんだけど、そんなわけはない。見えたら逆に危ない気もする。
もう、泣かないことにした。君に会う時まで、泣くのは我慢することにした。会う時なんて、きっと来ない。それでも、何か目標を決めないと私は耐えられないから、そうすることにした。
強くなって、今度は君の泣き顔を見る。それが私の、密かな目標になった。
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