・一応全部ボカロです。当て嵌めながら読んで下さい。
般若の面に、宿るは―――
<五月雨と現 上>
海渡は独り、夕時の雑木林の中を歩いていた。
山は怖い。みだりに入ってはならない。
彼の村でも、その近くの村でも、子供達はそう教えられて育つ。大人達はそう言って畏れる。
平野が人の里なら山は神の里。そこには人の身には推し量れぬものが蠢いている。
確かに海渡もそれを信じ、山を畏れ敬って来た。
そして敬意を持って接すれば、山は豊かな恵みを齎してくれる。特に今、夏を迎える雨の季節を目前にしているこの時期には尚更だ。
しかし、今の彼はそんな畏れるべき山の中を躊躇う事無く進んでいた。
捜し物があったからだ。
「…おかしいな」
額に浮かんだ汗を拭い、海渡は小さく呟く。
彼が山の裾野に生えていた木で見つけた銀灰色の苔。それは、「彼等」がやって来たという証の筈なのだ。
やや暑くなり始めた時期とはいえ、木々の間に入れば日蔭になり、涼しい。
夕暮れ時の気怠げな風が肌に心地良かった。
「来ているのなら、この辺りの筈なんだけど…」
『一年経てば、我々は又此処に現れるでしょう』
少年少女の姿をしていながら、その二人は大人びた何かを持っていた。そんな彼等に、海渡は強く惹かれた。
俗世等知らぬ気な、神仙かと見紛う存在。一年前のこの時期、彼等と別れるのが本当に残念だったのを良く覚えている。
彼等は去り際に海渡に小さく耳打ちをした。
肩までの金髪を軽く揺らし、額に乗せた面を鈍く輝かせながら囁いたのだ。
『御若い方、美しいと思われたものには御注意なされませ』
『え?』
『美しさは異界のもの。聞けば、異国の堕ちたる天使等も其の美しさで神の軍勢を誘惑したと言います。殊に貴方は付け込まれ易い方』
どうか、御気を付けて―――…
…その声の響きは一年の間海渡の耳に付いて離れなかった。
彼等は嘘を吐くような存在ではない。
彼等が戻ってくると言ったなら、戻ってくる筈なのだ。
海渡は殊更辺りに気を配りながら、再び林道を歩き出した。
草深い薮を掻き分けるようにして、ひたすら歩く。空は夕日の色に染まっているが、林の中までその光が届く訳ではない。
なのに、視界を何か輝くものが横切った。
形は何故か捉えられない。しかし、そこには確かに何かが居る。
あれは―――…
「さぎり!」
ほぼ反射的な海渡の呼び声に、金の光―――髪がぴくりと動きを止める。同時に夢の中の様な空気が霧散し、そこに立つのはどう見ても一人の少年以外の何者でもなくなった。
海渡より五つは下に見える、幼い造作。そして、夕焼けの中でも尚鮮やかな金髪碧眼。この国には本来有り得ない、きららかな色彩が海渡に懐かしさを呼び起こす。
左の額に乗せられた般若の面が、この少年が間違い無くさぎりだと語っていた。
彼はその括られた髪を揺らし、優しく笑う。
「今晩は、御若い方。見付けられて仕舞いましたか」
「帰って来たのか!」
海渡は喜びの余り、躊躇う事なく少年―――さぎりに駆け寄る。
言おうと思った事は沢山有ったものの、口を突いたのは姿の見えない少女についてだった。
「うのかは?居ないのかい?」
「居りますとも。直ぐに来る筈ですので、少々御待ち下さいませ」
さぎりは海渡の視線を微かに動かし、けぶる様な緑の木立の中へと向かわせた。
最初、海渡には何も見えなかった。…ただ薄闇が在るだけではないか、と。
だが、やがて闇が形を取り始める。さぎりを見つけた時、そうであった様に。
しばらくの後に目に映るようになったのは、見たことの無い二つのすらりとした影。しかし、さぎり達の同類であると示す般若の面が確かにその頭を飾っていた。
「彼等は…新しい連れかい?」
「左様です、御若い方」
さぎりは軽く頷いた。
「我々は行く先々で奏者や舞娘を探して居りますから。矢張り数が揃わないと淋しいものに成って仕舞いますし」
確かに、その数の差に因る重厚感の違いというのは、どれだけ個人に技量があっても如何ともし難い。
彼等はやはり旅芸人の様なものなのだろうか、と海渡は考える。しかし、それにしては何処かで公演する様子も無いのは何故なのか。
「へえ…ええと、皆さんの名前は?」
「はい、先ずあの娘」
さぎりが引き締まった腕を伸べ、桜色の髪と青い瞳をした女性を指す。
すらりとした長身と大人びた美貌、妖艶とも言える雰囲気の彼女は、少女と言うよりも蛹を捨て切った蝶の美しさを持っていた。
「あれはながると申します」
「ながる。女性には少し珍しい名だね」
「やも知れません」
応じたのは微かな含み笑い。
少年と言うにはやや老成したその声。しかし、それに慣れてしまった海渡にとっては特別注意を引かれるようなものではない。
当然ながら、其処にどんな感情が在ったのか気付く筈も無く。
「そして、隣の青年」
続いてさぎりが示したのは、ながるの隣で笙の様な笛を吹いている男性。
こちらも若いが、さぎりよりは海渡の年齢に近いようだった。或は海渡よりも年上かもしれない。
軽く括られた深紫の髪が風に靡き、隣のながるの桜色の髪と混ざり合う。夕闇の中、ぼう、と流れる二つの色はとても良く映えていた。
「あれの名はかむい。中々の楽の名手です。ながるとかむいは同じ村の出なのですよ」
「へえ、近場なのかな。村の名は?」
海渡の問いに、さぎりは爽やかな笑顔で頭を振った。
影の濃い木立の中、金髪が静かに揺らめく。
「其れは秘密で御座います。何分、我々は隠れ住む身なのですから」
「あ…そうか」
そうかもしれない、と海渡は改めてひらひらと舞うながるとかむいを見詰めた。確かに仲間に迎えられるだけあって、新入りとは思えない。
海渡が眺めているのにも気付いている筈だが、二人共此方に意識を向けさえしない。普通の生活なら無礼に当たるだろうが、此処では寧ろ相応しい態度の様に思えた。
―――人間離れした美しさ。そうとしか形容のし様が無い。
本当に、美しい。
海渡はじっと二人の戯れに見入る。
「さぎり」
不意に、凜、と透き通った声が投げ掛けられ、さぎりと海渡は同時に顔を上げた。
何時の間にか日が沈み、世界には闇が迫っている。
その薄闇の奥から抜け出す様に現れたのは、さぎりと良く似た金髪碧眼の少女。但し、その容姿は確実に娘としての華を持っている。そして左の半顔を隠すように飾られている、般若の面。
女性としての美しさを極めたようなながるとは違い、何処か澄んだ―――言うなれば無性の清らかさを持ったその姿は、対の様なさぎりと並ぶとそれだけで息を飲むかの様だった。
うのかだ。
うのかもまた、さぎりと同じ様に少女と言うには大人びた態度をしている。
「あら、御若い方。先に御会いしてから、もう一年に成るのですね。御久しゅう」
「お、お久しぶりです」
「其の様に畏まらなくても良いのでは?」
「そう…だね。久しぶり」
「ええ、御健勝そうで何よりで御座います」
うのかが一礼すると、纏っていた組み紐や紗がしゃらりと揺れる。りり、と鳴るのは、素のままの足首に飾られた鈴輪だ。
「そちらもお変わりなく、と言うか、うのかやさぎりは年を取らないのかい?本当に変わり無く見えるのだけど」
「勿論取って居りますとも。だからこそ貴方を『御若い方』と呼んで居るのですよ」
「…いくつ、って聞いてもいいかな?」
「ふふ、内緒にさせて下さいませ」
「う」
軽く指を立てるうのかに、海渡は気不味いものを感じる。家で女性陣に気遣いが無いと貶されたのが、意外と心に焼き付いていた様だ。
くすくす笑ううのかの隣でさぎりが自分の面を少し引き下ろし、悪戯っぽい笑顔で微笑んだ。
「御若い方はご存知有りませんか?面には心が宿るのですよ。いえ、面と限らず物には皆心が宿るのです。我々は人の形を取れど、其の実はそう云うもの…」
さあ、と木々を揺らす風に揺れる前髪を意識しながら、海渡は慎重に口を開いた。
「付喪神、の様な?」
「はい。但し、神と名乗るのは少々おこがましい気も致しますが。ですから我々に年を問うのは余り意味が無いのです」
「へえ…」
そう言われても、海渡にはさして驚きは無かった。
心の何処かでは既に気付いていたのかもしれない。
「では君達は何なんだい?人間…ではないと言う事だろう?」
海渡の問いに、うのかとさぎりは微かに首を傾げる。
「妖もの、或は化生とでも云うのが正しいのでしょう」
「…ああ、矢張りそうか」
当たり前の事だった、と海渡は素直に納得する。
そう、彼等が人間等と言う平凡な存在である訳が無いのだ。もしもそうならばこの様な幻想的な空間が作れる筈が無いのだから。
くす、と軽やかな声。うのかの立てた珠のような笑い声に、海渡は考えを打ち切って急いで顔を上げる。見遣ったうのかは、面白そうに微笑みを浮かべていた。
「これはこれは。私達は其れ程化け物らしく見えるのですか」
「あ、いやその」
そんな意味では無い、そう弁解しようとした海渡を制す様に、うのかは白い繊手を振った。
「ふふ。冗談で御座います。御若い方は相手を傷付ける様な事はなさいますまい」
「…あ、良かった。一寸慌ててしまった」
「悪巫戯けをして済みません」
笑むうのかに海渡が笑みを返した、丁度その時―――ぴくり、とさぎりが身を震わせた。
「さぎり?」
うのかの問いに、さぎりは目配せを返す。はっとした様にうのかもまた耳を澄ませ、しんと押し黙る。
「どうかしたのかい?」
急な沈黙に、海渡は恐る恐る二人に声を掛ける。応じたのは、少し困った顔のさぎりだった。
「…あの、御若い方。御家族が捜していらっしゃる様ですよ」
「えっ!?」
さぎりの言葉に海渡は思わず飛び上がる。確かにそうだ、夜になっても居場所が分からなければ心配するに決まっている。
「そうか、流石にもう帰らないと…」
「ええ、其れが宜しう御座いましょう」
うのかにも同意され、海渡は慌てて辺りを見回した。何時の間にかながるとかむいも静かに傍らに立っている。その手には、見慣れない形の笛。
何を、と瞬く海渡に、うのかとさぎりは良く似た顔で微笑んだ。
「では別れに、一舞」
かむいとながるの奏でる楽の音の中、滑るように足を踏み出す二人。うのかの柔らかな紗とさぎりの細く裂かれた布が近付き、離れ、触れては引かれる。
闇夜に閃く白い肌と金の髪、そして生きているかのような飾り布達が織り成す風景は、正にこの世の物とは思えない異様な美しさを漂わせていた。
海渡は全てを忘れてそれに見入る。
いつの間にか姿を見せていた爪先の様な細い月は、今や山の端に沈もうとしていた。
「兄さん!」
「海渡!」
ぱっ、と閃くように頭に入り込んだ明るい声に、海渡は目を見開いた。
気付けば、自分が立っているのは家の玄関。目の前にいるのは家族。
いつ戻って来たのだったか、と困惑しつつ外を見ると、そこでは既にとっぷりと日が暮れていた。
「何処に行っていたのよ!ああ、未来、皆に教えて来て頂戴!」
「はい、芽衣姉さん!」
二条に括った髪を靡かせ、未来は走って玄関を飛び出す。恐らく、隣人達に海渡の帰りを伝えに行ったのだろう。
その軽い足音が消えたのを見計らうかの様に、芽衣は海渡に向き直る。その目には心配と怒りが半々で浮かんでいた。
「海渡、いい加減にしなさい。気付いたら消えているのだもの…しかも、山に入った姿を見た、なんて話も聞いたし…本当に、山へ?」
「…うん。御免、心配させたね」
流石に反省を込め、海渡は穏やかに頷く。
その落ち着きに、芽衣は毒気を抜かれた。本当は諌める言葉を用意していたのだが、結局言わず終いとなってしまう。
結果、芽衣は一つ溜息を吐くに留まった。
「…正直、薦められないわ。山が掠うのは幼子だけではないのよ」
神隠し。
確かにそれは時折起きる悲劇だ。時折村から人が欠け、彼等は二度と戻って来ない。戻って来たとしても、最早日常生活さえもまともに出来ない事が多い。
―――山に掠われたのだ。
その度に人は、そう囁く。
…けれど、彼等がそんな事をする様には思えない。
海渡はあの朧な姿を思い出した。
月の下の、美しき仮面のもの達。悪意を向けられた事も危険に巻きれたことも無いせいか、邪悪だとは思えない。
―――彼等の何処が、いけないのだろう。
海渡は、ぼんやりとそう考えた。
その目の内には、今でもあの艶やかな舞がちらついている。
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