「勲章なら大したもんやけどこれは黄綬褒章で」「勲章と褒章とどう違うんすか」「勲章は政府が一方的にくれるもんで貰える人も少ないけど褒章の方は一杯貰えて国民があの人にやろうちゅうて推薦を受けて貰える。わいは一般推薦でもろたんや」「大したもんすね」「大したことないわ。先代の社長、今の会長さんがわいの事思うてくれて京都の清和さんにお願いして内閣府賞勲局に推薦状を書いてもらたんやわ。会長は何も言わなんだけど、それなりのお礼はしとる筈やわ。それに会長自身が賛同書を書いてくれて今の工場長も賛同書をかいてくれたわ。それだけでこれもろたわ。なんやこの道一筋の職人みたいな者が対象らしいわ。清和さんの推薦状が効いたと会長は言わはっとったわ。何でも年八百人位もろとるらしい。平成十五年から一般推薦の制度が出けて、今じゃそれを商売にし出した所もあるっちゅう話や。くれる前に身辺調査があったらしいわ。犯罪歴のある者は駄目やから、わいが吉野と玉井の拷問に屈してしてもない罪を被っていたら貰えんとこやったわ」土岐は坂本の話に何度も頷いた。「私なんか無縁の世界すね」「んなことないやて。あんた今の商売何年目や」「まだ五年もやってないすね」「そうか、何でも二十年以上同じ仕事やってたっちゅうのが目安らしい。あと十五年頑張りいや。それか七十歳以上が条件やから精々長生きするこっちゃ」「でも推薦なんかしてくれる人いないしょう」「そこはじゃの道は蛇やて。わいがもろたんは今の会長さんが関西の経済団体の役員をしとって、そこそこに知名度があってそれに会社の知名度をあげて工場の工員の士気を高めるちゅう狙いがあったからや。推薦状はお礼すれば書いてくれる人が居るっちゅう話や。あと犯罪歴がない事、これが肝心やな。こればっかしは一度やってしもたら消せんからな。わいはラッキーやった。中卒の何の知恵もない者が歳食って偶々理工系の大学院卒の連中を集めた新製品開発チームの取纏め役になって、そこで出けた新製品が爆発的に売れて、それが褒章の理由になった。わいは何もしとらん。定年間際に形だけやけど取締役も二年やらさせてもろたし、何もゆう事はないわ。まあしいて文句言えば受章のお祝い返しで大分持出しになったこと位かな」坂本の話を聞き乍サイドボード上のブロンズの胸像に土岐は気をとられていた。最初はインテリアかと思って見ていたが荒削りな印象派風な彫刻が次第に坂本の頭部に見えてきた。土岐は目線で坂本の了承を得てその胸像に触れた。「これは坂本さんすか」坂本の顔がだらしなく崩れた。「えへへ似とりまっか」「最初は誰だろうと思ったんすが、じっと見てたら坂本さんと瓜二つに見えてきました。不思議すね。抽象的と言う程でもないけど、随分荒削りで、えいやって造った様な感じすよね」「そうでっか。わいもそう思とります。こうゆうのは本人と見間違う様に造るもんだと思とりましたがこういうラフな感じの方が何とのう芸術的でんな」土岐は胸像の裏の作者の刻印を探した。驚く程達筆な筆致で浦野と刻まれていた。「この浦野というのはどこの人すか」「なんか東京の芸大の助手の方だそうです。何れ大家になるだろうから安い買い物だと言われました」「誰にす」「わいを内閣府に推薦してもろた清和はんです。えらい高い買い物でした。これも入れて祝賀会やお祝い返しや何だかんだで退職金の半分位がなくなりました」それを聞いて土岐はそこを辞した。坂本の嬉々とした表情が印象に残った。土岐はその足で千里中央のネットカフェに寄りセンチュリー監査法人をウェッブ検索してみた。該当する件数は少なかった。その内の一つがセントラル監査法人のサイトにあった。その記述は社史の中にあった。センチュリー監査法人は昭和五十五年にセントラル監査法人に吸収されていた。長瀬は昭和五十五年にセントラル監査法人の代表社員になっている。これで繋がった。廣川は粉飾決算を既に知っていたのだ。坂本にインタビューしたのは、不良在庫の情報が工場長から流れたと思わせる事にあったとすれば辻褄があう。警察はその筋書きに沿って坂本を取調べた。坂本は吐かなかったが吉野は嘘をつき通したと思込んでいる。センチュリー監査法人には手を回さなかった。廣川は株取引には一切手を出さずリスクを冒した見返りに第三者が空売りから得た株式売買益の一部を受取ったに違いない。その支払は雑誌の広告か購読で一括払ではなく長期の支払にしたのだ。そうすればカネの流れに不自然さがない。廣川は株主総会に出席する必要も企業の総務部に恐喝をかける必要もない。長瀬も株取引には一切手を出さず何らかの形で報酬を受取り、こうしたぼろ儲けを繰返していたに違いない。
■新大阪に着いた時既に三時を過ぎていた。晩秋に追われた陽光は頼りなげに西に傾いていた。京都に着いたのは丁度四時だった。地図を見て智恩寺の場所を確認した。智恩寺の北には隣接する様に清浄寺があった。もしやと土岐は思い立って学僧兵の巻末の年譜で確かめるとやはり塔頭哲斗が出家した禅寺だった。市バスで智恩寺に到着したのは四時半頃だった。東京や大阪と比べると高層ビルの少ない分、空が広く感じられる。既に辺りは秋の夜の帳が降始めていた。土岐の首筋を比叡山からの寒風が掠めた。土岐が東京からウエッブ予約したビジネスホテル大原は壱萬遍の交差点を挟んで京都大学と対角線の位置にあった。先にチェックインをすませ荷物を置いて手ぶらになって智恩寺に向かった。東大路通を渡って駐車場を抜けて山門を潜って庫裡の玄関で声をかけた。暫くして青みがかった坊主頭の若僧が洗い晒しの黒い法衣で出てきた。土岐は手帳を見乍問いかけた。「田中門前町の廣川さんのお墓をお参りしたいんすが、どの辺でしょ」「廣川さん言わはっても仰山おられはりますが」「実家がこの近くにあって三十年以上前に人手に渡って今は駐車場になっているらしいんすが」「そうどすか。ちょっとお待ち頂けますか?調べてみまひょ」と言残して僧は奥に入って行った。大分待たされた。その間土岐は後ずさりして寺院全体を眺めて見た。墓所は庫裡の裏手にある様だった。庫裡と釈迦堂の狭い通路にせり出す様に乱杭歯の様に伸びている卒塔婆の林が望めた。暫くして若僧は小さなメモ用紙を持って現れた。「多分北の隅にあるお墓や思います」北方は比叡山の方角だから庫裡の裏手の左奥だろうと土岐は見当をつけた。釈迦堂の傍らに積まれている桶を取り通路の水道の蛇口で水を満たし柄杓を突込んで庫裡の裏手に向かった。伽藍より少し狭めの墓地がひっそりと佇んでいた。新しい墓石が目立たない程、苔蒸した墓石が多かった。秋の彼岸が過ぎたばかりで真新しい卒塔婆が新芽の様に散見された。北端の北東角に廣川家の墓石があった。近年殆どお参りに来ていない様で周囲に枯れた雑草が散らばっている。三段墓の頭には鳥の白い糞が点在している。黄昏の薄暗闇の中で眼をこらして廣川家墓の裏の墓碑銘を見ると納骨されているのは二人だけで昭和十一年一月八日廣川滋、昭和十五年五月二十二日廣川真子と刻まれているのが辛うじて確認できた。弘毅は昭和十五年十二月に太平洋戦争が開戦となる前に両親を喪っていた事になる。それからどうやって生活していたのか?土岐は墓参を済ませてから東大路通に出て近くの飲食店を覗いて見た。とんこつラーメンを注文して店のでっぷりとした下膨れの中年女に聞いた。「田中門前町の生徒が通っていた戦前の中学はどこだか分りますか」「戦前って六十年以上前の」「ええ旧制中学校で戦後は多分高校になったと思うんすが」「ちょっと待って。お父はんに聞いてみる」暫くしてラーメンの丼を持った薄汚れた白衣を纏った老人が落ち窪んだ眼をしょぼつかせて出てきた。「この辺の旧制中学校やて」「今は何高校になってるんしょう」「門前高校やないだろか、よう分らんけど」「場所はどの辺すか」「今出川通を鴨川に出て南に少し下った所だす」
■秋の夜が古都の町を覆い店舗の黄色い照明がくっきりと闇に浮かび始めていた。薄ら寒いせいもあったが土岐は体が火照ってくる程の速足で歩いた。途中郵便局があったのでATMで加奈子からの入金を確認した。門前高校は鴨川の東側の川端にあった。授業はとっくに終わっているだろうと思った。一階の職員室らしき所に明りが見えた。正門は閉じられていたが守衛らしい男が大きな郵便受けから夕刊を取出していた。土岐は頭を下げ乍声をかけた。「すいません。東京から来た者すが旧制中学の同窓生名簿を閲覧したいんすが」守衛らしい男は東京と聞いて目を丸くして素っ頓狂な顔を造った。「旧制中学の?どないやろか。職員室に聞いてみまひょ」守衛が守衛室から職員室に内線をかけ、土岐の申出について掛けあっている。「東京から来なはったそうで」という文句を二度繰返していた。「会うてくれはるそうです」土岐は職員室の場所を教わって走る様に向かった。黄ばんだワイシャツ姿で職員室の扉の前に立っている人影があった。初老の教師の様だった。鬢の銀髪がきらりと光った。「すいません夜分遅く」土岐は職員室の明りを背景にして目鼻立ちの見えにくい人物に向かって五メートル手前から低頭した。そのぼんやりとした人影は土岐が近付くと右に向かって歩き出した。「あるとすれば図書室だと思います。態々東京から来られたそうで」図書室は校舎の二階の階段脇にあった。教師が蛍光灯のスイッチを入れると書架が真暗闇の中に突然現れた。教師は書架の天井に近い場所から踏台を使って古色蒼然とした綴りを取出した。作業テーブルにその資料を広げ乍「終戦間際の物はない様です。ここにあるのは太平洋戦争の初期の頃迄の物で昭和十八年が最後です。でご覧になりたいのは」「大正十五年の早生れで廣川弘毅と言います」「という事は昭和十七年か十八年卒という事になるんでしょうか」教師は同窓会名簿の卒業生一覧で廣川弘毅を探している。右手に眼鏡を持ち資料に裸眼を擦付ける様にしている。「ありました。廣川弘毅ですね。昭和十六年度卒で豊橋第一陸軍予備士官学校が進路になってます」「すいません」と言い乍土岐はその資料を受取り他の卒業生の進路先をざっと確認した。豊橋第一陸軍予備士官学校は廣川以外には見当たらない。遅ればせ乍土岐は名刺を差出した。「こういう者すが、また何かありましたら東京に帰ってからお伺いする事があるかも知れませんので。その時はまた宜しくお願いします」「今名刺を持ってないんで。職員室に戻れば」「いえ結構です。お名前だけお聞かせ願えれば」「吉川言います」「有難うございました」と礼を述べ乍土岐は手帳に踊る様な文字で廣川弘毅、昭和十六年度卒、豊橋第一陸軍予備士官学校とメモした。ホテルに戻ると部屋でシャワーを浴びた。さっぱりした所で部屋の中でパソコンを探したが見当らない。フロントに電話してインターネットのできる所を聞いてみたら一階ロビーのフロント奥にパソコンルームがあるとの事だった。洗髪の儘パソコンルームに向かうとフロント奥の自販機前のテーブルに使い込んだ二台のノートパソコンが置いてあった。椅子もないので立った儘インターネットを立上げ手帳のメモ書きを見乍豊橋第一陸軍予備士官学校を検索した。CPUが古く動作が遅い。余り出来の良くない彩りの悪いホームページがのっそりと出てきた。卒業生一覧があったのでサイト内検索で廣川弘毅という名前を探してみた。一回目は該当なし。廣川を広川に変えて繰返したがやはり該当なしだった。土岐は長瀬、船井、馬田との奇妙な一致に思い至った。しかし長瀬、船井、馬田は海軍、廣川は陸軍だ。卒業生名簿に名前がないのが偶然の一致でないとしたら?

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月二日2

閲覧数:16

投稿日:2022/04/07 14:17:18

文字数:4,782文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました