3.
鋼鉄の都市の中央である一番地区。二十階を越える建造物が集まる高層ビルエリアの中でも一際高いその建物は、都市行政庁舎という名前だった。が、ここの持ち主――市長の名前から広くギュスターヴタワーと呼ばれ、市民の多くもそれが正式名称だと認識している。
仮に――ほとんどあり得ない話だろうが――市長が変わったとしても、この建物はギュスターヴタワーと呼ばれ続ける事だろう。
建物は無骨な鉄骨の外観をしている。その意匠は昔ながらの装飾に凝った建物ではなく、無駄を省いてシンプルで機能的。そして、そうであるが故に否応無く威圧感を周囲に与える無機質さがあった。
鋼鉄の都市のシンボルでもある“鉄の塔”の偉容だった。
建物の正面、広いが無愛想な車寄せに、一台の高級車が入ってくる。
速度や馬力重視の、運転者の為の車ではない。後部座席の快適さにこだわった、運転を任せられる従者を持つ特権階級の為の車だ。
高級車は車寄せの中央、正面玄関の扉の前で静かに停車。後部座席の扉が開き、身なりを整えられた少年が降りてくる。
すぐに車内を振り返り、手を差し出す。
「マム。どうぞ」
「ああ」
その手を車内から取るのは、黒いレースの手袋に包まれた、ほっそりとした手だ。
少年に導かれて車内から出てきたのは、細身の女。女性には珍しく、パンツスーツの上下に身を包んでいる。彼女は被っていた山高帽の縁を少しだけ持ち上げ、不適な笑みを浮かべる。
唇からは細い棒。それは丸い飴玉についた柄――ロリポップを口にしているのだ。
「ったく、何度来ても薄気味ワリィ建物だな」
この都市の最高権力者の建物を前に、相当に不遜な物言い。目の前の少年は思わず背後の建物を振り返り、主の言葉が誰かに聞かれていないかと見回してしまっていた。
「落ち着けってヨハン。誰も聴いちゃいねーよ」
「はい……。申し訳ありません、マム」
少年の顔は見て分かる程に緊張している。まるで一つのミスが命取りになる、と言わんばかりの面持ちだ。
そんな少年――ヨハンの態度に気付いていないのか、女は気にする様子もなく車に振り返り、燕尾服のドライバーに声をかける。
「ディミトリ。一時間はかかるハズだ。車で待ってな」
「承知しました、ミセス。お気を付けていってらっしゃいませ」
「ああ」
女は臆する事なく堂々と、ヨハンは怯えておっかなびっくり、連れ立って行政庁舎へ向かう。
正面玄関は単なるガラス板でしかなかった。扉を押すための取手すらついていない。
「マム、これは――」
「――そっか。ヨハンは初めてか」
どうやって中に入るのかと困惑するヨハンを余所に、女が扉の前で手をかざす。
「……!」
女が触れたわけではないのに、ガラス板がスッと両側にスライドして入口が姿をあらわす。
他では滅多に見られない、最先端の自動ドアだった。
がり、と口内の飴を噛み砕き、何も無くなった棒を吐き捨てると、女は少年に振り返る。
「行くぜ、ヨハン」
呆気に取られるヨハンの様子にカラカラと笑い、女が中へ。ヨハンも慌てて後へと続く。
――が、入ってすぐに正装した二名の警官に呼び止められる。
「ここは行政庁舎だ。無関係の者は立ち入ることが出来ない。お引き取り戴きたい」
女から見て右側の屈強な警官が、丁寧だが居丈高な態度で、有無を言わせない口調で告げる。
建物のエントランスホールは、広い吹き抜けになっている。
奥には上階へと続く階段。その前には受付のデスクがあり、さらにその手前に警備として警官が立っている。二人を引き留めたのはその警官だった。
女は警官のそんな対応など分かりきっていたらしい。丁寧だが簡単に言えば「帰れ」と言ってきた相手に、心底可笑しそうなニヤニヤ笑いで警官を挑発する。
「バカ言ってンじゃねーよ。市長に呼ばれてワザワザ来てやったってーのによ。いいから早く取り次ぎな」
「貴様、しょっぴかれたいか!」
「滅多に人なんか来ねぇ閑職やってるクセに、威勢だけはいいんだな。市長サマの客人を勝手に犯罪者にして、職を失うのは果たしてどちらかね?」
「なにを……っ!」
ヨハンは戦々恐々としているが、ヒートアップしている警官と、それをからかっている女の二人は気付きもしない。
「いいから。さっさと確認しろって。それもテメーの仕事だろ?」
「フン。威勢が良い上に口も悪いとはな! とても女とは思えん」
「言ってろ、ヒマ人」
警官は更に悪態をつきながら大股で受付のデスクへと向かい、女には聞こえない音量で何事か受付の女性と会話を交わす。
「――」
「――え? しかし――」
「いいんだよ。――」
「はぁ……」
受付の女は怪訝そうな顔をするが、ややあって受話器を取り何処かへと電話をかける。
が、彼らは女に何かを告げるでもなく、ただそのまま何かしている……フリをしている。
その光景を横目に、女はジャケットのポケットからロリポップを一つ取り出し、包装紙を取って口に含む。
それからやけに長い間待たされ、ヨハンが不安そうに女を見上げる。
「……マム、もしかして……」
「ククッ、分かってるさ。程度の低い嫌がらせだ。バカだなぁ。奴等はすぐに思い知らされるってのに」
ロリポップがなめ終わるほどに待たされた女は、咥えた棒をゴミ箱に捨てながら、そうつぶやいて笑う。
嫌がらせだと分かっていて尚、可笑しそうに笑う女に、ヨハンは理解が及ばず彼女の顔を覗き込む。
「まあ見てなって……と、ほら。市長のお出ましだ」
女が視線を上げる。
エントランスホールの上、受付の向こうに見える二階のエレベーターホールから、高級そうなダブルのスーツの男性が姿を見せる。
年齢は四十を越えたくらいだろう。その男性が女の言う通りこの都市の市長だとすると、驚異的な若さだ。とはいえその分激務でもあるのか、丁寧に撫で付けられた髪には、既に白髪が混じり始めている。
「――ニードルスピア卿! 来ていたのかね! いつも時間通りの君が遅いなど、珍しい事もあるものだな。思わず降りて来てしまったじゃないか!」
「よぉ、ギュスターヴ市長」
快活な声を上げて階段を降りてくる市長と、鷹揚な態度で返事をする女。二人のやり取りを聞いて、警官が片眉を跳ね上げる。
「ニードルスピア“卿”だと? まさか、爵位持ちだと言うのか? こんな……しかも女が?」
「警察とはいえ、歩哨がそんな口を利くのかね。我が友人たるニードルスピア卿に向かって?」
階段を降りきった市長が、驚く警官の背後で冷徹な声を発する。
「し、市長!」
「全く、近頃はまともな礼儀すら知らん者が多くて困るな」
「滅相も御座いません。私は――」
顔を青くして背筋を伸ばす警官の声を遮り、女は市長に声をかける。
「――言っとくけどな、オレはちゃんと時間通りに来たんだぜ。三十分待たされたがな」
「ほう。それは――」
じろりと睨む市長と、凍りつく警官。
「――大変な失礼をしてしまいましたな。私には連絡がありませんでな。部下の粗相とは……実に許し難い」
「ええと、その、私は……」
「黙りたまえ。君の振る舞いが市長に謝罪をさせたという事……どういう事か分からんかね?」
「……!」
何とか言い訳を口にしようとする警官は、最早どうにもならないと絶望を悟る。
「だーから言ったのによぉ。くだらねー見栄張ったせいで中流階級から零れ落ちるなんてバカのやる事だぜ。……おっと、なるほど。だからやったのか」
「きさっ……」
辛うじて「貴様」と言い切る事は避けたものの、既にどうにもならない。この都市で一度でも職を失った者が現状の生活水準を保つのは至難の技だ。
「スラムじゃ、元警官って肩書きはすこぶる評判が悪い。野垂れ死なずに済んだら誉めてやんよ。ククッ、頑張んな」
警官に手をヒラヒラ振って目の前を通り過ぎる。
「行くぜー、ヨハン」
「す、すみません!」
平然と市長の隣に並ぶ女に、まだ建物入口に居たヨハンが慌てて追いかける。
「しかし……君と会う度に誰かを解雇している気がするな」
「あんだよ。“燃やす”のは市長の得意技だろ。オレのせいたぁ心外だね」
「否定できないから困ったものだな。確かに卿の責任ではないのだが」
「あんたが一人一人の雇用チェックなんかやってるヒマなんざあるわけねぇし……となると、人事のトップが無能なのか、それともアレでもマシな方なのか……難しい問題だな」
「……全くだ。卿の会社はどうやって愚かな者どもをしつけているのかね? 是非ご教授戴きたいものですな」
「高いぜぇ、オレの授業はな」
二人は階段上のエレベーターホールで笑う。気の知れた仲であり、遠慮する必要の無い間柄でもあるのだろう。
その後ろで、ヨハンはビクビクと二人の様子を伺っている。
市長は鷹揚に手招きをして、開いたままのエレベーターに乗り込む。中には控えめな色合いのフォーマルワンピースを着た女性が居た。
「エコー、待たせたな。私の部屋まで頼むよ」
「承知しました、ギュスターヴ市長」
エコーと呼ばれた女性はエレベーターの最上階を示すボタンを押す。扉が静かに閉じ、上昇を始める。
「なんだ、また若い女を侍らせてンのか。エコー……懐かしい名だな」
「そういう誤解を招く表現は止めてくれたまえよ。彼女は非常に優秀だからこそ私の秘書として働いておるのだ」
「ギュスターヴ市長……」
エコーが照れたように俯く。
「非常に優秀な人物が、たまたま女性であり、たまたま稀有な美貌の持ち主だったというだけだろう」
「市長……持ち上げすぎです」
「ケケケ。女たらしめ」
心底可笑しそうに笑う女に、流石の市長も不満そうな顔をする。
その光景にエコーとヨハンが顔を凍り付かせるが、市長はそれ以上に怒りをあらわにはしない。
「ニードルスピア卿……私が美醜などというものよりも優秀さを重視しているのは知っているだろうに」
「市長。あんたがそんなに必死に弁明するのがワリーんだぜ。オレは面白いことにゃあ目がねーんだ」
「まったく、私に冗談を言うのは君くらいのものだよ。君の他は私に怯えてばかりで会話もままならん」
「いやいや、そりゃー下に降りてくるなり一人クビにするようじゃ、そんな風にもなるだろ」
「そうでもしなければ、私の望む都市になどなりはせん。まあ……友人がおらぬことなど、必要な犠牲だと思わなければならんか」
「そーだな。オレも似たようなもんだ」
「……」
「……」
会話が途切れるが、エレベーターはまだ上昇を続けている。
エコーもヨハンも、余計な口を開く事は出来なかった。
ややあって、エレベーターが減速し、止まる。
「着いたか、待たせたね。我が執務室へようこそ」
市長は扉を出ると、仰々しい仕草でお辞儀をして二人をエレベーターの外へと招いた。
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