リリィが地元の駅に着いた頃には、もう時計は10時を回っていて、所々人通りも少なくなってきた。
神威の地元駅はリリィの住む場所より二つ先なのだが、「家まで送っていくよ」という神威の提案で、神威もリリィと同じ駅で降りる。
「あのさ、神威」
二人は駅のホームに立っていた。電車がすっかり行ってしまうと、そこには静けさだけが残る。人も全くいない。
「ん?」
神威が聞き返してくると、リリィは反射的に黙ってしまう。果たしてこれは言っていいものかどうか。このまま黙っていても、もしかしたら暗黙の了解で事は進むのだろうか。
しばらく迷った。そんな様子を見て彼も少し感づいたのか、不自然に思ったのかは知らないが、目を細めた。
黙っていても仕方がない、言おう。
「今日さ、家、親いないんだ。よかったらその……来る?」
顔は合わせられなかった。その言葉がどういう意味を持っているのか、よく分かったから。
ただ神威との手を絡めたままで、リリィは地面を見つめたまま、言った。
あぁ、言ってしまった。
その瞬間に恥ずかしさの塊というか、色々なものが一気に波のように押し寄せて来て、爆発しそうなくらい顔が熱くなる。そんな顔は、彼には見せられなかった。
パタパタと必死に手で顔を仰ぐが、そんな事をしてもかえって顔は熱くなるばかりで、なんとかそれをごまかそうとリリィは言った。
「あ、で、でも、私の家全体的に散らかってるから、来ないほうがいいかもね。うん、そうだよ。来ないほうがいいって、ホントヤバいから!玄関入った瞬間からもうヤバいから!なんか色んなのがわーってなって、これに慣れてない人だときゃーってなっちゃって、うわーってなっちゃうの!だからやっぱ今のなしで!」
あぁ、自分で言っておきながら意味が分からない。こんなに意味不明な言い訳は初めてだ。
神威は一体どんな顔をしているんだろう。呆れてるのか、怒っているのか。
怖くて、確認しようにも出来なかった。
「リリィってホント面白いな」
手をつないでいないほうの手で、頭を撫でられた。恐る恐る、リリィは顔を上げる。
彼は笑っていた。微笑んでいた。
その瞬間に、空回りしていた心が何故か少し落ち着いた。
彼の笑顔を見ると暖かいものが胸の中にするりと落ちてくるような気がした。これが恋の力なのか。
「リリィ見てるとさ、マジで可愛いって思う」
「そんな、私はそんなに――」
「可愛いって絶対。自信持てよ」
「あ、ありがと」
「そんで、リリィん家に行っていいのか、俺は?」
「あ、いやその……今のはホントに聞かなかった事にして。ちょっとまだ……アレだから。取り乱しちゃってゴメン」
「大丈夫さ、リリィがそう言うんなら、俺は何もしねえよ。さ、行こうぜ」
「うん」
彼はホームを歩きだす。自分の歩幅に合わせてゆっくりと。
駅を出てもしばらくの間は、少し恥ずかしさが残っていてリリィは何の言葉も発せなかった。
二人無言で暗い夜道を歩く。
街路灯が道を照らしているが、それでも暗い道だ。神威が隣にいてくれるだけで安心だった。
しばらくすると、神威は鼻歌を歌い始めた。無言だと気まずいとでも思ったのだろうか。
あるいは暇になって自分の世界に入ってしまったんだろうか。すると、何も話さなかった自分が途端に恨めしく思えてくる。
いや、けれどまだ遅くない。なにか、話しかけなければ。
「ね、ねぇ、神威」
「ん?」
神威は鼻歌をやめてリリィの方を見た。街路灯の白い光が、彼の肌に当たっていて、眉目秀麗な彼の顔をより一層引き立たせているような気がした。
「それ、何の歌?」
「ん、今の?これはー……まぁ、オリジナルソングってやつかな」
「え、神威の?神威って曲作れるの?」
「ん、まぁな。曲作んのが趣味だったりする」
「へぇ~、凄いじゃん!将来の夢はミュージシャン?」
「まさか。俺にそんな才能はないよ。それにこんなのただの趣味だしさ」
はは、と彼は笑った。
「発表とかしないの?自分の作った曲」
「しないよ。別に俺は名声浴びたいわけじゃないし。というかあんまり目立ちたくないから、曲作ってる事もあんまり人には言わないんだ。でも、リリィには聞いてほしいかも。俺の曲聞いてくれるか?」
「いいよ、もちろん」
「サンキュ。ま、歌詞もタイトルもないんだけどな」
そう前置きして、すっと彼は息を吸い込んだ。旋律がゆっくりと紡ぎだされ、彼の声が静かな夜の通りに響く。
優しいバラード調の曲だった。彼の低音で強い声に、思わず歩み続けていた足を止めてしまいそうになったが、彼はそのまま歩き続けているので、リリィも歩き続ける。
ゆっくりとした声の音調が、耳に澄み渡るように広がっていく。
サビと思しき部分を迎えると、その声は優しくもしたたかに、そしてはっきりと声が大きくなる。
大地の草がなびくように、強くも堂々とした声で、彼は歌い続ける。
歌詞や楽器の音なんてなくても、ボーカルのメロディーだけで十分聞きいってしまうような曲だった。
やがて曲を歌い終わり、神威はふぅと息をつく。ここがどこかの舞台だったら、間違いなく拍手だのアンコールだのが送られるだろう。
「まぁ、ざっとこんな感じで。ホントはボーカルの後ろに、ピアノとかギターとか入るんだけどな」
「すごいじゃん、完璧じゃん!」
「はは、完璧だなんてそんな。高三のアマチュアが書いた曲だぜ」
神威は照れて笑う。
アマチュアとは言っても、レベルは高い方なのではないか。曲の善し悪しなんてどこで区別したらいいのか、素人なので分からないけれど。
というか、善し悪しだの考えるよりも先に、直感的に「凄い」と思えばそれでいいのではないだろうか。
具体的な理由なんて何も必要ない。抽象的なものでも構わない。聞く人が聞いて、カッコいいと思えばカッコいいし、凄いと思えば凄いのだ。
「私、神威に才能を感じるよ」
「才能はねえと思うけどな。お世辞どうも」
「ホントだってば。歌詞も完成したら、改めて聞かせてよ」
「歌詞?そんなん最初から作らねえさ」
「え?」
「てか、作れないんだよ。曲はなんとか書けるけど、歌詞となるとてんでダメなんだ。何も思い浮かばなくてさ」
だから俺の作った曲には一切歌詞が無いんだ、と彼は説明した。
しかし彼の曲に歌詞がつけば、より一層光も増すし、彩りも付け足されるのではないか。彼の曲に歌詞が無いのは少し惜しい。
歌詞が無いからこそ、曲に対して想像力がわくのかもしれないが、やっぱりここは詞が欲しいな、とリリィは思った。
「じゃ、じゃあさ!私が作ってもいいかな、歌詞?」
「へ?リリィ、歌詞作れんの?」
「やった事ないけど、やってみたい。神威の曲に歌詞が無いのって、ケチャップのかかってないオムライスみたいだもん」
「どういう例えだよ、それ」
リリィがそう言うと、神威は笑った。歩みを進めながら、ふと夜の空を見上げる。星はよく見えないが、月が綺麗だった。
二人はちょうどコンビニの前を通り過ぎる。ここを通ってもうあと少し歩けば、リリィの家に到着する。
駅から一人で歩くと長いのに、二人で歩くとあっという間だった。
「共同制作みたいでいいじゃん、神威が作曲担当で、私が作詞担当」
「へぇーなるほどね、共同制作か。それもいいかもな。歌詞のついた曲も聞いてみたいし。作詞、任せていいか?」
「うん、喜んで」
「んじゃ、明日曲のデータ渡すよ」
「ありがとう。私、がんばって歌詞作ってみる」
その後も、学校の事などで少し会話したが、そうしている内にすぐに家の前についてしまった。
いざ着いてしまうと、少し寂しくなる。彼と話せるのは今日これで最後だと考えると、繋いだ手を放せなくなってしまい、つい手に力が入る。
リリィはゆっくりと、彼の目を見た。
神威はリリィの気持ちを察したのか、静かな声で言った。
「大丈夫さ。明日だって会おうと思えば会える」
「うん……、そうだよね」
「そ。だから、今日はもうゆっくり休みな」
「うん。神威、今日はありがとね」
「いや、こちらこそ」
ゆっくりと、神威は手を離す。汗ばんだ手が、互いにゆっくりと離れた。
そして神威は、リリィの背中に手をまわし、優しく抱きしめる。
いきなりの事だったので、リリィはビックリしてしまった。朝のように、また「ひゃっ」と素っ頓狂な声をあげそうになるが、なんとか息をのんでそれを抑える。今日いちばんの驚きだった。
今日初めて彼と手をつないだ時よりも、その衝撃は大きい。
多分、今私の顔は耳まで真っかっかだ。もう湯気どころか火が噴きそうなくらい赤いだろう。顔が熱い。
「か、神威……」
言葉を出すのが精いっぱいだった。神威は何も言わずに、一度身体を離す。
そして。顔をゆっくりと近づける。
心臓の鼓動が激しく脈打つ。リリィも神威も、目を閉じた。互いの唇と唇が触れ合う。
その時世界が一瞬だけ止まって、音も何も聞こえなくなったような気がした。
やがて顔を離した瞬間に、色々なものがリリィの中に溢れてくる。
何が起こったのかは、分かった。しかしそれはやっぱり夢のようで、信じがたいような気持ちのまま、神威を見る。両目には、うっすらと涙がにじんでいたのが自分でも分かった。
神威も顔を赤く染めていた。照れながら、彼は言った。
「今日はありがとな、リリィ」
幸せな一日だった。
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