十月六日 翌朝九時半頃にチェックアウトを済ませてバスに乗って浄土大学に向かった。浄土大学は北大路通と千本通の交差点近くにあった。土岐は広大な正門前で守衛に聞いた。「すいません。戦前の専門学校当時の同窓会名簿を閲覧したいんすが」守衛は口に手を当て暫く考えた。「それでしたら交差点の斜向かいのあの丸いビルに同窓会の事務室がありますんでそこでお尋ね頂けますか」警察官に似た身なりの守衛の指さす方角を見ると正面が全面硝子張りの丸いショールームの様なビルが見えた。硝子にどんよりとした曇空が映っていた。交差点を渡りビルの中に入った。吹抜けのエントランスに受付があり丸い窓口を覗込むと還暦に近そうな丸顔の婦人が奥の机に座って地方新聞を読んでいた。「すいません、ちょっとお尋ねしたいんすが」婦人は老眼鏡を外して首だけ捻って土岐を認めると若草色のカーディガンのボタンを一つ留め乍立ち上がった。「はい」と柔らかな上目使いで土岐の前に来た。腰が少し曲がっている。「戦前の事で恐縮なんすが専門学校当時の同窓会名簿はこちらにあるしょうか」「あります」「一寸閲覧させて貰えないしょうか」「どうぞ」と婦人は受付から出て土岐を受付脇の別室に案内した。十畳程の資料室の様だった。窓外に裏庭があり壁の両面に書架と書類棚があった。ドアの手前と中央の机の上には未整理の資料の類が足の踏み場もない程に乱雑に山積みになっていた。「あの辺が専門学校当時の同窓会名簿どす」と言って婦人は窓際の一番上の書架を指差した。二段の踏台をその下に置いた。「ごゆっくりご覧下さい」と言い残して部屋を出て行った。校風なのか土岐に誰何すらしない。法蔵が専門学校に入学したのが昭和十八年頃とすれば二年間の修学期間を終えずに戦死したとすれば昭和二十年度頃の卒業者名簿に物故者として掲載されている筈だった。しかし昭和二十年度の同窓会名簿は存在しなかった。終戦直後の混乱や紙資源不足で卒業者名簿どころではなかったのかも知れない。昭和二十一年度の同窓会名簿を見ると百数十名の名前の中に下に括弧書で戦死という記述の者が多く散見された。あいうえお順に辿って行くとマ行に三田法蔵:三重海軍航空隊入隊:戦死という記載があった。ついでに昭和二十二年度の卒業生名簿を見るとア行に長田賢蔵:中途退学という注記があった。一般的に卒業生名簿には在学中に死亡した者や退学した者の名前は記載されないが制作したのが仏教系の同窓会のせいか、茶に変色した模造紙の名簿には入学者全員が載っていた。土岐は資料室を出ると隣のパソコンルームで久邇頼道の会社の住所を調べた。久邇商会という一部上場企業の本社は虎ノ門にあった。住所と電話番号をメモした。ついでに三重海軍航空隊と打込んで検索すると、記念館のホームページが出てきた。火曜日の開館を確認した。東京に戻る途中下車で津市香良洲の三重海軍航空隊址の記念館に立寄る事にした。
■十一時前の新幹線のぞみで、名古屋に着き十一時半過ぎの快速みえで津で紀勢本線に乗換え十三時前に高茶屋に着いた。駅員に聞くと香良洲迄は徒歩で四十五分との事だった。土岐は手元不如意で少し躊躇したが、タクシーで行く事にした。十数分で記念館に着いた。三田法蔵とは何者かという思いが、土岐を地の果ての様な松原に導いた。海の近くだった。潮の香りが鼻腔を掠めた。眼前に拡がるのは何もない松林だった。砂地に基地跡の碑が建っているだけだった。近くに二階建の記念館のあるのが眼に入った。入館してみると記帳台があり入口に老女が座っていた。土岐は本名を記帳した。その右に般若心経の写経台があり千円の写経を納める箱と献金箱があった。その傍らに線香が積まれていて一束五百円で脇に入金箱があった。館内には所狭しと海軍航空基地の記念品が展示されていた。最初に掲示されていたのは沿革だった。軍服、制帽、武運長久と大書された日の丸の寄書き、海軍機上練習機白菊の主翼とプロペラの残骸、水上特攻ボート震洋のエンジンとスクリューの残骸、ゼロ式戦闘機の残骸、戦艦・駆逐艦・巡洋艦のプラスチック模型、航空戦の絵画、軍靴、新聞の切抜、集合写真、手紙等の遺品、遺影、遺書等が硝子ケースの中に展示されていた。特攻隊員が家族や恋人にあてた手紙を読んでいると土岐の胸に込上げてくる物があった。展示物の多くには寄贈者の名前が小さく書かれていた。展示物の一つに軍刀があった。土岐は寄贈者の名前を見て体が硬直し、その場から動けなくなった。寄贈者名は長瀬啓志となっていた。寄贈の日付は昨年になっていた。土岐は一階の入口に座っていた老女に聞いた。「そこの軍刀を寄贈した長瀬という人について何か分かる事ありますか」管理人らしい老女は椅子から立上がり、土岐が指さした軍刀の前に立った。「ご家族の方ですか?この方には最近になって大変お世話になっていて去年多額の寄付もして貰いましたし館の運営にもアドバイスを貰いました。維持費が大変だろうからこれを売りなさいって」と言い乍写経セットと線香を見せてくれた。「名簿に記載があると思いますよ」老女が事務所の奥から持ってきたタイプ印刷の古い名簿で索引を引くと長瀬の名前があった。肩書と記載を見ると海軍中尉・海軍手先信号法教官・昭和二十年七月着任とあった。土岐が蒲田の事務所でインターネットとeメールで調べた限りでは長瀬は昭和十八年に旧制神奈川中学校を卒業して海軍経理学校普通科練習生となったがそこを卒業していない。三重海軍航空隊に教官として昭和二十年七月に赴任する迄の履歴は不明だ。しかし、これで三田との接点は確認できた。だが廣川との接点がまだ見えてこない。三田とどういう接点があったのか具体的には分らない。ついでに経年自然劣化の激しい同じ名簿で三田法蔵を検索した。肩書と記載は甲種飛行予科第十五期前期練習生・昭和十九年九月十五日入隊・昭和二十年八月十四日殉職とあった。土岐が聞いてきた情報では三田は特攻死のはずだった。殉職というのはどういう事なのか。土岐は老女に名簿を見せ乍聞いてみた。「この三田法蔵という人は昭和二十年に殉職となってますが特攻とは違うんすか」老女は土岐が開いた名簿を白髪の混じる眉根に皺を寄せて覗込んだ。「昭和二十年八月にはこの航空隊には飛行機は一機もなかったのよ。殉職というのは戦闘機がなくってグライダーで飛行訓練していた時だと十五期の会報誌に書いてあったわね。グライダーは本来、飛行機に牽引されて上空で切離されて、あとは滑空だけで滑走路に戻ってくるんだけど当時牽引する飛行機もなくてグライダーの練習はグライダーをワイヤーでウインチで引張って浮上がった頃にワイヤーのフックを切離して滑空する事をしていたらしいんだけど、そのフックが外れなくなってその儘地面に叩付けられて殉職したと十五期の人に聞いた事があるわ。死ぬには惜しいとても優秀な方だったらしいですよ。戦後に三田が生きていればと、ここに来られたどなたもおっしゃってましたね」そう言って老女は入口脇の椅子に戻って腰を下ろした。土岐はワープロ印字の名簿の三田の同期で同じ第五班の名簿の中から存命の三名の連絡先を手帳に写した。其々鳥取の自営業で薬屋を営んでいる者、仙台の木材商で有限会社の社長になっている者、名古屋の熱田で無職の者だった。他の班員は悉く物故していた。最後に奥付を手帳に写した。同窓会事務所は新橋にあり住所は新生印刷株式会社と同じだった。「そう言えば先々月も三田さんの事を聞きに来られた方がいたわ。まだ蝉が鳴いていた頃だったと思うけど」土岐は誰何せずにはいられなかった。「どんな人した」「ご高齢でしたよ。会報誌の記事を読んで滂沱の涙を流されてコピーを取ってゆかれました。記事に記録者の名前があったのでその名前で名簿で住所を探されてメモを取って行かれました」「その人、記帳したしょうね」「普通の人は入館すると必ず記帳するけど、若い人は冷やかし半分で入館するので中には記帳しない人もいますよ」「先々月のいつ頃すか」「八月末だったと思います」「曜日は分りますか」老女は考込んだ。腕組みをして首を振っている。「すいてたので土日ではないと思うんですが」「すいません、閲覧させて貰えますか」「記帳をですか」なんの為にと言いたげに老女は「どっこいしょ」と掛声を出して億劫そうに立上がり事務室の奥の書類棚から横長の記帳ノートを出してきた。表に黒いサインペンで八月分と書いてある。土岐はそれを受取ると八月三十一日分から記帳された名前に目を通して行った。達筆、悪筆、乱筆、速筆、蚯蚓ののたうち、金釘文字、右上がり、掠れ文字、はみ出し文字、豆文字、様々な署名が並んでいる。その中の一行に土岐の目は釘付になった。長田賢蔵という署名は他の署名と比較すると老獪さが際立っていた。決してうまい字ではなかった。土岐はその署名を老女に指し示した。「この長田という人に記憶はないですか」「さあ会報誌のコピーを取った人の名前ですか」土岐は手帳を出し挟んであった法蔵寺で借りてコピーをとった写真を見せた。「この黒い法衣を着て数珠を持った人じゃなかったすか」「随分お若く見えますが」「ええ三、四十年前の写真す」「そう言われてみればそうだった様な気がしない事もない様な」土岐は記帳ノートを老女に返した。老女はそれを元の書類棚に戻し、入口脇の椅子に座りなおした。老女の傍らに山積みになっている線香の束には飛魂香という名前がついていた。土岐はその線香を買い、火をつけて英霊に手向けた。線香の香りが鼻腔の奥に拡がって行った。特攻者名簿に手を合わせ、その記念館を出た。松風がうるさい程に鳴いていた。土岐の体全体が焦げつく様な熱に包まれた。突然眼の奥に熱く込上げてくる物を感じた。松林の向こうの青い海と白い雲の風景が次第に歪んできた。目に溢れた滴がぽつんと落ち砂地にゆっくりと染込んで行った。海で行止まりになっている広い道路の真中で三田と同期第五班の名古屋在住で無職の堀田という老人に電話をかけた。呼出音六回で出てきた。「堀田さんすか」「はあ」「突然のお電話失礼します。私、東京から来ました土岐と申します。戦時中三重海軍航空隊で殉職された三田さんについてちょっと調べてる者なんすが、お会いしてお話できないしょうか」「今は年金暮らしだから時間は幾らでもありますが」「実は今香良洲におりまして、これから名古屋に向かいますので四時前頃にはそちらに着くかと思うんすが」「それじゃ四時すぎに熱田神宮の本宮前でいかがですか」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月六日1

閲覧数:28

投稿日:2022/04/07 14:31:21

文字数:4,313文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました