サンドイッチを食べ終わった後も、わたしたちはベンチに座って、話をしていた。さっき見た映画のことや、これからのことを。四月になれば、わたしたちは三年生になる。
「……三年になったら、クラス替えがあるのよね」
クラス替えなんて、なければいいのに。クラスが替わったら、レン君やミクちゃんとは、同じクラスになれないかもしれない。
「でも同じクラスかもしれないよ。俺もリンも、文系私大コースなんだから」
それはそうだけど……文系私大コースに進む生徒だけでもかなりの人数だし。
「それに違うクラスになったって、今までみたいに昼は一緒にいられるだろ?」
レン君はわたしの手を握った。わたしの方も、手に力を込めてみる。
そう……よね。高校の間は、少なくとも同じ学校にいられるんだもの。
「……やあ、レン君じゃないか。奇遇だね、こんなところで」
突然そんな声が聞こえて、わたしはびっくりしてそっちを見た。……ハク姉さんぐらいの年齢の、背の高い男の人が立っている。レン君の名前を呼んだんだから、知っている人よね。もしかして、お姉さん繋がりかな?
「そっちの子は、友達かい?」
青いマフラーを巻いた男の人は、笑顔でそう訊いてきた。レン君の知り合いなら、わたしは紹介されるまでは、黙っていた方が良さそう。
「友達じゃありません。彼女です」
あれ? レン君、なんだか声が緊張してるみたいだけど、どうしたんだろう……? わたしは、思わずレン君の顔を見た。やっぱり緊張してるみたい。この人、もしかして苦手な人なの? 悪い人には見えないけど……。
「えっ? レン君は高校生なのにもう彼女がいるのか。メイコさんは知ってるの?」
やっぱりお姉さんの知り合いみたい。
「姉もこの交際は承知してます」
そう答えると、レン君は不意にわたしの手をつかんだまま、立ち上がった。つられてわたしも一緒に立ってしまう。
「それじゃ、俺たちはもう行きますから」
え? レン君の言葉にわたしは驚いてしまった。別にどこかに行こうなんて話、してなかったわよね? でもレン君はわたしの手を強い力で引いて、歩き始めた。わたしは慌てて、ベンチに置きっぱなしになっていた、自分の鞄をつかむ。タッパーとか水筒とか、先にしまっておいて良かった。
「え……レン君?」
男の人が、面食らった声をあげている。心境はわからなくもないけど……。
「忙しいんです」
冷たくレン君がそう答えている。
「忙しいって、君たちさっきまでベンチで座ってのんびり……」
「折角のデートを邪魔しないでくれっ!」
レン君がきつい調子でそう言うと、男の人はショックを受けた表情で立ち尽くしてしまった。……いいのかな。全然知らない人だけど、なんだかちょっと可哀想な気がする。
「ね、ねえ……」
「リン、今はちょっと黙ってて。あいつ、厄介だから」
有無を言わせない口調だったので、わたしはそれ以上何も言えず、レン君に手を引かれたまま、その場を後にした。
わたしは何がなんだかわからないまま、レン君に引っ張られて歩いていた。さっきの男の人、一体何だったんだろう? あの演劇部の一年の子とかなら、レン君がぴりぴりするのもわかるけど、そういう感じじゃなかったわよね……。それに、話の流れだとお姉さんの知り合いみたいだった。そういう人に、あんな態度を取ってしまって良かったんだろうか。
……多分、良くない、わよね。でも、レン君にも何か理由があるのかもしれないし。レン君が理由もないのに妙な行動を取ったことなんて、ほとんど無かったわ。だったら、ちゃんとどうしてなのか訊いてみないと。
そう思ったわたしは、何気なく周りを見た。……ここ、どこ? ビルだらけなのは都心だから仕方ないにしても、どのビルも中に人がいる気配が無い。それに、その辺りを歩いている人もほとんどいないし、車も走ってない。
わたしはなんだか気味が悪くなって、思わず足を止めてレン君の腕を引っ張ってしまった。
「リン?」
「ここ、どこなの?」
「……どこだろ」
それが、レン君の返事だった。え……わたしたち、今どこにいるのかもわからないの? それって……。
「もしかして、わたしたち迷子になったの?」
「あ~、心配しなくても、駅とかに行きたければ携帯で道調べられるから」
レン君はその辺りのことは、全く心配していなそうだった。迷子になることだけは、避けられたみたい。ちょっとほっとする。
「ここ……都心なのに、全然人気が無いのね」
「オフィス街だからね。平日は賑やかなんだよ」
え~と、今日は日曜日だから、この辺りはみんなお休みなのね。だから人気がないのか……。
「なんだか、別の世界に迷い込んだみたい」
がらんとしてて、灰色で、しんとしている。ついさっきまで、もっと賑やかなところにいたから、余計そう感じるのかもしれない。
「そうかもな」
あ……そうだ。さっきのこと、訊かなくちゃ。
「レン君、さっきの人、誰なの?」
「あ、うん。リン、ちょっと座ろうか」
レン君は、近くのビルの植え込みの縁石に座った。わたしも隣に座る。
「俺の姉貴がファッションデザイナーのアトリエで働いていることは、前に話したよね?」
訊かれたので、わたしは頷いた。デザイン画から型紙を作るお仕事をしているという話は、前に聞いたし憶えている。
「さっきの奴は始音カイトっていって、姉貴を雇ってるデザイナーさんの弟なんだ。それだけならいいんだけど……あいつ、君のお姉さんの婚約者を知ってるんだよね」
え? わたしは、一瞬、言われたことが信じられなかった。さっきの人は、神威さんの知り合い……? 神威さんの知り合いということは、ルカ姉さんを知ってる可能性もあるわけで、じゃあ……。もし、わたしのことが知れたら……。恐怖で、全身に震えが走った。
震えだしたわたしを慰めるかのように、レン君が肩を抱いてくれたけれど、震えはなかなか止まってくれなかった。
「大丈夫、知ってるっていっても間接的にだし、親しいわけじゃないみたいだから」
「で、でも……名字を言っていたら、気づかれたかもしれないのよね……。レン君のお姉さんが、わたしの名字を聞いて、ハク姉さんのことを思い出した時みたいに」
だからレン君、あんな態度取って、あの場を離れたんだ。わたしに話題が向かないように。わたしのこと、守ろうとしてくれたんだ。
「あ……うん。だから、さ。なるべく一緒にいない方がいいと思ったんだよ」
やっぱり、そうだったんだ。わたしは、レン君の肩に自分の額を押し付けた。……ごめんなさい、そんなことさせてしまって。レン君の手が、わたしの髪を撫でてくれた。
「……ごめんなさい、わたしのせいで」
「気にしなくていいよ、大したことじゃないから。リンのせいでもないし」
レン君はそう言ってくれたけど、わたしはやっぱり不安だった。それに……。
「でも……お姉さんを雇っている人の、弟さんなんでしょう? レン君のお姉さんが、職場に居辛くなったりしたら……」
下手をすると、レン君のお姉さんにまで迷惑がかかってしまう。レン君のお姉さんには、ハク姉さんのことでお世話になった。だから、レン君のお姉さんに、迷惑をかけるようなことはしたくない。
「姉貴には俺から説明しとくよ。……大丈夫だって、姉貴はあれで仕事できるしボスからも信頼されてるし」
それで大丈夫なの? わたしにはわからない。でも、レン君を信じたい気持ちがある。
「信じていいの?」
わたしは少し身体を離して、レン君の顔を見た。レン君が、安心させるように笑ってくれる。
「大丈夫だって。姉貴のボスって俺も会ったことあるけど、いい人だよ。ちゃんとわかってくれるって」
信じないと、駄目よね……。わたしが疑ってるようじゃ、きっと上手くいかない。けど、やっぱり不安がつきまとってくる。
レン君の手が、わたしの頬に触れた。顔が近づいてきて、額に柔らかいものが触れる。あ……。心臓の鼓動が早くなって、頬が熱くなる。わたしは瞳を閉じた。
「リン……俺を信じて」
「う、うん……」
頷くと、唇を塞がれた。そのまま強く抱きしめられる。抱きしめられるのは、好きだ。レン君に抱きしめてもらうと安心できるの。……ちょっと恥ずかしいけど、キスしてもらうのも、好き。
レン君とのデートを終えて帰宅したわたしは、少し不安な気持ちでキッチンを覗いた。あ……良かった。誰もいないわ。お母さん、まだ夕飯の支度にとりかかってないのね。
今のうちに、タッパーと水筒を洗ってしまおう。こんなもの、どうして持って行ったのかなんて訊かれたらややこしいことになるもの。わたしは鞄からタッパーと水筒を取り出すと、流しの蛇口を捻った。
タッパーと水筒を洗ってしまうと、わたしは布巾で綺麗にそれを拭いてから、もともと入っていた戸棚に戻した。戸棚をぱたんと閉じようとした、その時。
「……リン、帰ってたの?」
「きゃっ!」
わたしは、思わず悲鳴をあげて飛び上がってしまった。……おそるおそる振り向く。キッチンの戸口に、お母さんが立っていた。わたしを見て、「どうしたの」と言いたそうな顔をしている。
「お、お母さん……」
「帰ったのならただいまを言ってちょうだい。お母さん、びっくりしたわ」
「う、うん……ごめんなさい。そして、ただいま」
わたしは慌てながら、エプロンを外して、キッチンの調理台の上に置いた。お母さんが、怪訝そうな表情でエプロンを見る。
「リン、洗い物をしてたの?」
「え、えーと……『楽しむために作った時は自分で後片付けまでちゃんとやる』が、キッチンのルールだったから……」
我ながら苦しい言い訳。だってこれ、お菓子作りの時のルールだもの。
「お弁当箱ならいいわよ、お手伝いさんに頼んでも」
「う、うん。でも自分で最後までやりたかったの」
お母さんは首を傾げていたけれど、それ以上は何も訊かなかった。助かった……。その気持ちと同時に、また罪悪感がこみ上げてくる。だって、わたしが言っているの、嘘ばかりだから。
「そうそう、リン。残っていたサンドイッチ、お母さんお昼に食べたけど、ちゃんとできてたし、とても美味しかったから」
あ……タッパーに入りきらなかった分、お皿に乗せてキッチンの台の上に置いておいたんだけど、お母さんが食べたのね。
「あれなら、どこに出しても恥ずかしくないわよ」
「でもサンドイッチだし……」
そんなに難しい料理じゃない。
「リンなら、他の料理もすぐに作れるようになるわよ。味覚もしっかりしてるし、きちんとやることの大切さもわかっているから。料理は結果が出るのが早いの。興味があるならちゃんと教えてあげる」
教えて……もらおうかな……。サンドイッチだけじゃなくて、もっとちゃんとしたもの、食べてほしいもの……。どうやって持って行ったらいいのかが、まだわからないけど……。
「う、うん……。じゃあお母さん、お料理教えて」
「わかったわ、リン」
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