「ねえ、明日は出張なんでしょ。準備しなくていいの?」
呼び出された数学科準備室で、未だデスクの書類から目を離さない彼に問いかける。
私が入室して十分程経つが、彼は入室の許可以外に全く言葉を発していない。
人を呼び出しておいて待たせるなんて、という在り来たりな不満はとっくの前に投げ捨てている。
「春休みにわざわざ来ていただいているのにこう言うのもなんですが、誰から聞いたんですか」
「神威先生と咲音先生が話してたのを偶々聞いただけ。もしかして聞いちゃいけないことだった?」
「別にそういうことはありませんが。それに、ただの研修ですから、特に準備するものもないですよ」
「ふーん。その割には忙しそうじゃない?その書類、そんなに厄介なわけ?」
「まあ、厄介といえば厄介ですかね」
その厄介な書類も、私が文句を言えばすぐに手放す程度のものらしい。
誰に対しても冷ややかな瞳がこちらに向けられて、その行動一つひとつを監視されているような感覚にもすっかり慣れてしまった。
目を逸らしたら負けなような気がしてじっと見つめ返していると、その頑なな表情がほんの僅かに緩んだ。
「厄介なのは、出張先でも煙草を吸えないことくらいですかね」
「許可するわけないでしょ。というか、今となっては一日二日くらいなんともないでしょ。土日とか大丈夫なんだから」
「簡単に言いますけど、この禁煙はきみがいて初めて成り立ってるんですよ」
次の言葉を返すより先に、彼の口が私の口を塞ぐ。
それは昔思い描いていた理想のキスとは程遠い、互いの酸素を奪い合うような荒々しいものだけど、そんなことに文句を言える立場にはない。
最初の頃こそすぐに息が上がる程余裕をなくしていたけど、今では息継ぎをするタイミングがわかるくらい、彼とのキスに慣れてしまった自分が腹立たしい。
氷山キヨテル。私のクラスの担任。
彼が誰かと話していることも、笑顔も、彼についての情報は誰一人知らない。
最低限の事務的な会話を除いて、彼が誰かと関わることはほとんどないせいだ。
それに加えて、彼のクラスの日直は通常の倍の雑用仕事を課せられる。
彼の性質を嫌い、大抵の生徒が彼を避けている。
そもそもの始まりは六月末、クラス恒例『担任からの雑用』を日直で請け負ったあの日から。
彼の本質を見抜いた車内、初めて無感情かと思われた彼の心情を聞いた。
私たちは互いの心に欠けたものを埋め合うように、今の関係をずるずると続けている。
私が数学係なのをいいことに、彼は放課後に準備室に呼び出して、彼の口寂しさを埋める手伝いをさせている。
その理由も『私に興味があるから』らしいけど、その興味も随分と長く続いている。
私とのキスの理由だって、いくらでも後付けできたはずだ。
彼は『口寂しさを埋めてもらう』と言っていたが、それだけなら飴を舐めるなり何なりすればいい。
最初の夜、私が言ったことを覚えていて、それを契約のように忠実に守っているだけなのだろうと私は思う。
“そんなニセモノの仮面なんか捨てて、ホンモノの私を見てよ。さっきみたいに、心の底から、私を欲しくなるように“
あの時は半ば雰囲気に流されるようにそう言ったけど、彼は良くも悪くもポーカーフェイスを崩さないから、実際は私をどう思っているのかなんて、彼にしかわからない。
「何か考え事でもあるんですか。悩みなら聞きますよ」
「…別に。悩みなんて真剣に聞く気は更々ない癖に。それよりもういいでしょ、そろそろお茶飲んでいい?」
「素っ気ないですね。僕としてはもっとしていても構わないのですが、きみがそう言うなら」
その余裕綽々な台詞も眉毛一つ動かさない表情も、やっぱり少しだけ苛立ってしまう。
少しの不快感を振り払うように、彼の味が残る口内にお茶を流し込んだ。
先程までのロマンチックの欠片もない雰囲気とは一転、彼の表情はもうとっくに教師としてのやり方を取り戻している。
隣に座るその視線が向かっているのは私の教科書。
紡がれる言葉は授業の延長、彼が握っているのもチョークではなく私のシャープペンシルだ。
『補習授業を行うこと』、それがこの関係に提示した私の条件だった。
いろいろ考えた結果、自分に利点のある交換条件はこれしかないと思った結果だ。
クラスの誰もが忘れていた上に考えもしなかったが、彼が自己紹介をした際に「要望があれば個人授業も引き受ける」と言っていたのを思い出したのだ。
てっきり跳ね除けられると思っていたけど、意外にも彼はすんなりとこの条件を受け入れた。
彼はもう少し渋ると思っていたのに。
しかし彼の方は、私がそう言うことをなんとなく予想していたらしく、彼の手のひらの上で踊らされているようで気に入らない。
何より、個人のための補習授業というのは、長期休暇の際に呼び出す上で最も都合がいい理由だったから。
とは言っても、長期休暇に関しては一週間に一度あるかないかくらいの頻度に抑えてくれてはいたが。
「先生さ、面倒だと思わないの?普段雑用を生徒に押し付けるくらいなんだから、個人授業なんて尚更厄介じゃない?」
授業とは何の関係もない質問をした私に注意するわけでもなく、彼はじっと私を見てから言う。
「一応僕でも、教師としての最低限の義務は守りますよ。教えることを生業としていますから」
「この関係になった時点で、とっくに教師としての義務は守れてない気がするけど。それは責めないであげる」
「それはどうも。それは別として、きみは数学がやや苦手なようですから、意地でも理解してもらえるようにこちらも必死なんですよ」
「はいはい、ご指導ありがとうございまーす」
私が放課後数学科準備室に行くようになったことを、クラスの人間は悪くは思っていないらしい。
それもそうだろう。日直当番二人に課せられていた雑用を、数学係の生徒一人が全部やってくれるのだから。
数学科準備室の周りに生徒は寄りたがらない。このあたりの教室は、普段生徒が授業で使うこともない。
だからこそ、彼もここを指定して呼び出しているのだろうけど。
「きみも随分慣れてきたようですし、そろそろ聞こうと思っていたんですけど」
「先生から質問なんて珍しいわね」
「今更ですが、きみは危機感を持った方が良いと思います」
「…ん?いきなり何の話?」
問題集から目を離さないまま質問の意味を問う。
なにせ章のまとめの問題だから、最後の方はちょっと難しい応用問題があるのだ。今忙しい。
「個人授業と引き換えにキスをする、その本質をよく考えたことはあるんですか」
「そんなの、条件を提示する前にたくさん考えたわよ。でもそれっぽい利点を考えるの苦手だし、それが一番ベストかなって思って」
「辻褄合わせのことじゃない。きみは一つ大事なことを忘れてますよ」
「大事なこと?他に何かあったっけ」
あくまで問題集に集中する私の曖昧な返しの後に、肩を強く掴まれ、彼の方に体を向けられる。
突然のことに驚いた私は、そのまま何かを考えるより先に、後ろに倒れこんだ。
二つ分のパイプ椅子が倒れる派手な音と、背中に伝わる固い感触。
後頭部に回された手のひらのおかげで頭を打つことはなかったけど、少し複雑そうな彼の顔と無機質な天井を目にして、ようやく彼に押し倒されたのだと気づいた。
「忘れてますよ。僕が一人の男だということを」
「先生は男性でしょ。そんなの聞かなくたってわかる」
「ならば、どうして考えなかったんですか。僕がきみを、襲う可能性があることを」
首筋をゆっくりなぞる指先は、迷いなんてなかった。
「だって…先生は先生だから。生徒に危害を加えるわけがない」
「一般的には、生徒にキスをした時点で立派に危害を加えているんですけどね。だけどきみはそうは思わなかった。それどころか」
耳、鼻、首筋と、流れるように彼が口付けていくその場所が気になって。
掴まれたことで乱れた制服の首元を引っ張って、露わになった鎖骨に押し付けられる唇。
わずかに身じろぎする私に向けたその瞳は、あの夜のように、確かな熱を宿している。
「こうまでされないと、きみは僕に警戒しなくなった」
その感情を押さえつけたような声がいつもより低くて。
本気なのだと気づいた瞬間、身体が恐怖から震えだした。
「それがきみが、きみ自身につけた価値ですか。個人授業程度で差し出していいものなんですか」
太もも、腰と、少しずつ制服を崩してから、また唇を触れさせる。
大人の男のひとだということを主張するような行動に、何を言えばいいのかわからない。
固まる私に、彼が指先を止めた。
「…今日から四月なんです。新学期が始まれば、また同じクラスの数学係になれるとは限らない。それ以上に、きみは受験生になる。放課後をひとりの教師に教えを請うのは余りに非合理的です。だから、もう終わりにするべきなんです」
「それ…生徒に冷たくて無関心な、氷山先生が言うの?まるで私の未来を、真剣に考えてくれてるみたいで、違和感があるわ」
「僕はきみに興味があると言ったでしょう。それにホンモノの私を見ろと言ったのは、他でもない、きみ自身ですよ」
その彼らしからぬ言葉の真意を考える。
まさか、本気で私に向き合ってくれているのだろうか。
生徒の顔さえろくに覚えず、世間話すら嫌うこの人が。
「もう辞めにしませんか。僕にきみを売る理由はない。担任の煙草事情なんて生徒には関係がない。断る理由はいくらでもあるんですよ」
彼は今、たった一人の似た者同士の理解者を、嫌いにさせて突き放そうとしているのだろうか。
怖い思いをさせたほうが突き放しやすいと、こんな不器用なやり方を選んだ。
確かにそれが正解なのかもしれない。
互いが関わる前の生活に戻って、先生は先生の、生徒は生徒の仕事だけをしたほうが良いのかもしれない。
だけどもう、今の私は、彼の色以外を知らない。
片手を彼の背中に、もう片方を彼の頬に添えて、顔を引き寄せて唇を重ねた。
彼の体がわずかに動いた。
表情は想定外のことをされたのかぽかんとしていて、その表情が面白くて、また唇を重ねた。
探り当てた舌を、ややぎこちなく絡めてくる。
唇の端を繋ぐ唾液の糸を、口を拭って断ち切った。
彼に始まりの夜を思い出させるように。
「これまで何十回、何百回としたキスを、今度は誰にしろって言うのよ」
「いや…それは。きみがいつか、大切な誰かとするべきではないでしょうかね」
「今更何言ってんの?…はあ。わからないなら、さっさと合鍵を頂戴」
「合鍵?…きみ、自分が何を言っているのか、本当に分かってます?」
「先生こそ分かってる?私、先生以外の男の人なんて嫌だって言ってるのよ。これから学校で個人授業が難しいなら、先生の家ですればいいのよ」
「いや、だから、それは本当に…ああ、もう。言ったって無駄なんでしょうね」
私の体を引っ張り上げて、地面に座ったまま抱きしめられる。
彼に抱きしめられたことはない、と考えつつ、そういえばいつももっと激しいキスしてたなーなんて、どこか他人事のように感じて。
制服のポケットに何かを突っ込まれた。
手探りで確認すると、それは一本の鍵と住所が書かれた紙切れ。
「本気にさせたんだ。どうなっても知りませんよ」
「だから、本当に今更なのよ。最初から危ない橋渡ってるんだから、どうとでもなるのよ」
「そうですか。なら約束しましょうか、リリィ。…何かあったら、僕にすぐ言ってください」
「先生もね。最後まで責任取ってもらわなきゃ困るのよ」
そう言うと、誰よりも不器用な人は、可笑しそうに笑った。
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