7.
 女が路地裏を抜けて通りの道へと出る。
 瞬間、黒い影が現れる。
「マム!」
 少年が叫ぶが、黒い影は――。
「ミセス。お待たせしました」
 影はそこで待っていただけで、そう女に声をかける。
「ん? ああ、ディミトリ。別に待ってねーよ。ありがとな」
 女は影に――執事に声をかけ、振り返る。
「……ん? ヨハン、どうかしたか?」
「その……いえ……なにも。マム」
 少年は取り越し苦労だった危機感に――気にし過ぎた焦燥に、どこか気恥ずかしそうな顔をしている。
 少年の様子に女は少し微笑み、彼の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「安心しろ。この辺りじゃもう……オレを襲おうなんていう輩はいねーよ。時間はかかったが……そのためにスラムを掌握したんだからな」
「ミセス・リン・ニードルスピア。貴女の手腕には誰もが驚嘆しました」
 燕尾服の執事は、あくまで控えめにそう補足する。
「ケケケ……時が満ちるのももう少し。そうしたら……盛大なフィナーレの開幕だ。長かったなぁ……」
「そうでございますね。まさか本当にここまでの事を成し遂げられるとは、私も思っておりませんでした」
「ディミトリが協力してくれなかったら、こうは為らなかったさ」
「恐れ多いお言葉です」
「……?」
 二人のやり取りは、少年には意味不明だった。だが、少年の疑問顔にも女と執事は答える気がないようで、お互いに顔を見合わせて車へと歩みを進める。
「さて。仕上げはもう整ってるが、その前にキャロルの後始末か。……ま、名前は割れてる。ちょっとつまらねーが手下にやらせるか」
「では、そのように手配しておきます」
「ディミトリ、すまんな。じゃーオレらはギュスターヴタワーだな」
「市長の所に……ですか?」
「ああ、ヨハン。終わりの始まりって奴さ」
「……ッ!」
 何度も見た事があるはずの女の笑み。だが、少年はそれに初めて恐怖を感じた。
「ミセス。こちらへ」
 執事がすぐそこの路肩に停めていた高級車へ案内する。八番地区にはあまりにも似つかわしくない黒塗りの車両である。
 何もかも了解済みらしい執事と、説明する気の無い女に、少年は困惑しながらついていくしかない。
 後部座席に乗り込み、執事の運転で八番地区から運河を渡り四番地区へ。そこから運河沿いの幹線道路を南下し……一番地区へ。
 どこにも寄り道をせず、本当に真っ直ぐ行政庁舎へ向かっているらしい。
「……マム。本当にこのまま市長の所へ向かわれるのですか?」
「あん? 何か心配か?」
 後部座席で硬直する少年と違い、女は深く腰を下ろし、優雅に煙管を吹かす。
「今のマムの姿は……ニードルスピア卿ではなく“ブラック・ウィドウ”なのですよ?」
 女の姿は精緻なレース模様の施された黒の喪服で、ヴェールで顔を隠している。市長に会いに行くときのパンツスーツ姿ではない。
「ああ、そんなことか。これでいいんだよ」
「?」
 車に揺られながら、女は薄く笑う。
「オレは今から、市長の友人であるニードルスピア卿としてじゃなく、邪魔する者をオレの倫理観で裁く“ブラック・ウィドウ”として会いに行くんだからな」
「それは……!」
 少年は驚愕するが、女はいたって平然としている。
「ヨハン。ま、お前には内容はまだ秘密だ。市長と対面してからのお楽しみって奴だな」
「しかし」
 食い下がろうとするが、煙管を咥えて手をヒラヒラとする女に、少年は追求を諦める。こうなったときの女は絶対に教えてはくれないと、少年は思い知らされていた。
 やがて車窓に行政庁舎が見え、そこの正面玄関に近づいていく。
 後部座席の二人も運転席の執事も、ギュスターヴタワーにたどり着くまでただ黙っていた。
 少年には、堪らなく恐ろしい予感しかしなかった。
 黒塗りの高級車は滑るようにギュスターヴタワーの車寄せに入り、正面の自動扉前で停車する。
 少年は車から降り、女が出てくるのに合わせて手を差し出す。
 どれ程動揺していても出来るようになれ、と言われ、この数年で少年の身体に染み付いた動作だった。
「いい子だ、ヨハン」
 女が珍しくにっこりと笑い、少年の手を取って車から降りる。
 少年は今までにない女の態度に呆気に取られていた。
「ディミトリ。後の事は分かってるな?」
「もちろんです」
 遅滞無く答える執事にうなずき、女は建物へ向かう。
 自動ドアを抜け、エントランスホールに入ると、歩哨の大柄な警官が近づいてくる。
「失礼ですが……ミセス。本日はどのようなご用件で……?」
 数年前のあの事件から、ここの歩哨には穏やかな対応をする者しか配置されなくなっていた。
「市長はいるかい? 会いに来たんだがね」
「その声……まさかニードルスピア卿ですか?」
 大柄な警官が目を丸くする。彼は女を知っていたらしい。
「ケケ、そーだぜ。分かんなかったか?」
「これは失礼しました。普段ここに来られる時とは……その、服装が全く違ったもので」
 かしこまる警官に、女はつぶやく。
「今日は特別だからな」
「はぁ。それで……ギュスターヴ市長とは何時に御約束を? 確か本日の予定ではニードルスピア卿との面会予定は無かったように記憶していたのですが」
 そう言いながら、警官は背後の受付の女性に視線を送る。すでに確認していたのだろう。女性も困惑したようにうなずき、警官の記憶が正しい事を認める。
「ああ。今回は約束してねー」
「それでは……申し訳ありませんが、卿と言えど執務室に案内する訳にはいかないのです。なにぶん、規則でございまして……」
 警官がやんわりと否定する。が、女がそれで折れることは無い。
「悪いが、帰る気はねーんだ」
「しかしですね。ニードルスピア卿――」
「今日、オレはニードルスピアとして市長に会いに来たわけじゃあない。オレは“ブラック・ウィドウ”として……ヤツを裁きに来たのさ」
 堂々とそう言い放つ女に、警官と少年が驚愕する。
「!」
「マム!」
「ブラック・ウィドウ、知ってるな?」
「それ、は……」
 平然とそんな事を問う女に、警官はまともに返事ができない。
「スコット・ギレンホール巡査部長。父君は御健在かね?」
「は……?」
 突然の厳格な口調の女に、警官の表情が固まる。
「聞き逃してんなよ。だーかーら。父君のアラン・ギレンホールは息災かと聞いてんだよ。以前会った時は入院する前でね。入院してからは会ってねーんだ」
 少年は、女と警官の顔を見比べるが、何をどうしたらいいのか分からずおろおろしている。
「父は……三ヶ月間の入院の後、亡くなりました。二ヶ月前のことです」
「そうか……。それは、お悔やみ申し上げる。アランは優秀な男だった」
「ニ、ニードルスピア卿。父を……知っていたのですか?」
「まあな。オレにもちょっとした縁があってね。そしてお前が、父の症状の原因を探っていることも」
「……!」
「何か見つかったかね? ……ああいや、言わなくてもいい。オレはそれを知っている。だからこそオレは、ここにやって来たんだからな」
「しかし……」
 うろたえる警官。その瞳には、はっきりと逡巡が見てとれた。
「スコット。あんたはオレの事も――ブラック・ウィドウの事も調べていただろう?」
「それは、そうです、が……」
「針降る都市のアンダーグラウンドで囁かれる都市伝説。だが、法に照らせば犯罪者だ。あんたはその正義感でもってそのブラック・ウィドウを捕まえてやろうと調査を行った」
「……」
「正直に言おう。あんたの念入りな調査はオレも肝を冷やしたよ。……だが、ある時期を境にパタリと調べるのを止めてしまったな? 何故だ?」
「それも……ご存じなのでしょう?」
「アタリはついてるさ。もちろんな。だが、正解かどうかまではわからねーよ。だから訊いてるんだ」
 警官は降参だと両手を上げる。
「その通りです。私はブラック・ウィドウの調査を行っていました。悪だと思っていましたし……そんな大物を捕まえれば昇進も期待出来るという、浅はかな考えもありましてね。そうやって調査するうちに……」
 口ごもる警官に、女はあごで続きをうながす。
「私は、ブラック・ウィドウが――あなたが断罪する様を見たのです」
 女が目を見開き、それだけで驚きを表す。
「おっと、それは……手痛いミスだな。誰かに見られないよう、常に細心の注意を払っていたはずだけどな」
「そうでしょう。私がその場に居合わせる事が出来たのも、そして私が貴女にバレなかったのも、偶然の賜物でした」
「ほう」
「私は――ブラック・ウィドウを捕まえる絶好の機会だと思いました。追っていた犯罪者がすぐそこにいて、現行犯で捕らえる事も出来るのではないかと、そう思って」
「それで?」
「全てをちゃんと聞き取れたわけではありません。ですが、ブラック・ウィドウの告げた罪状は……その者を見逃す訳にはいかない程のものでした。一部私欲に伴う罪状もあったように記憶しています。ですがそれは、私には敢えて不条理さを相手に突きつける為に取って付けたもののように感じられました」
「買いかぶりだぜ」
 肩をすくめる女に、警官はかぶりを振る。
「私は打ちのめされました。確かに、それは正規の手順を踏んではいないのかもしれません。けれど、罪を犯した者を確かに罰していたのです。対して私は……言わずもがなでした」
 警官は肩を落とす。
「本来罪を犯した者を裁く立場をあるはずの私よりも、ブラック・ウィドウの方が本来正すべき罪を裁いている。その事実に……私は打ちのめされたのです」
「スコット。テメーは生真面目過ぎんだよ。……だからオレが気に入ったってのもあるがな」
「生真面目……そう、なのかもしれません。それでも私は……正義の概念を、定義を疑いました。警察では裁けない犯罪があった時、どうすべきなのかと。ブラック・ウィドウという存在は、その一つの回答なのかもしれない、と」
「それで――捜査を止めた、と?」
 警官はうなずく。
「その通りです。警察官という仕事をしている私よりも、犯罪に対して確実に処罰を施すブラック・ウィドウ。私が捕まえていい相手だとは思えなくなったのです」
「そりゃー……オレは命を救われたな」
「滅相もない」
 女はニヤリと笑うがその笑みもすぐに引っ込める。
「で、それから八ヶ月後に父君が倒れたってわけだ」
「……その通りです」
「アランが何に巻き込まれてあんな風になったか、あんたは知っているな? 何が原因で、誰が首謀者なのか」
「それは……」
 警官は少しだけ言い淀み、首を横に振る。
「……知っている、とまでは言えません。全ての証拠が疑惑止まりで……確証を得られるだけのものを、私は手に入れられませんでした」
「ったく生真面目だな、スコット。じゃあついて来いよ。オレの裁きに納得いかなきゃ……その時止めればいい」
「し、しかし……」
 決めきれない警官を通り過ぎ、女は受付の女性に近付く。
「あんたは通してくれるだろう? スージー・テイラー」
「卿は……私の事もご存じなのですね」
 受付の女性は、どこか諦めにも似た苦笑を浮かべる。
「ああ。もちろん」
「私は止めませんが……」
 受付の女性は階段の先を見上げる。
 そこには落ち着いた色のフォーマルワンピースの女性。市長の秘書だ。
「……エコーがおりますよ」
「平気さ。なぁ、エコー!」
 声を上げる女に、フォーマルワンピースの秘書はにっこりと微笑みを返してくる。
「ようこそ、ブラック・ウィドウ。お待ちしておりました」
「!」
「!」
 市長秘書の返答に驚く警官と女性。
「オレは味方を増やすのも得意でね」
 女はヒラヒラと手を振り、受付を通り過ぎてエレベーターホールへの階段を上る。
「ヨハン、スコット。二人とも早くしな」
「! すみません、マム」
「失礼しました。すぐに」
 少年と警官が慌てて階段を駆け上がるのを、女は秘書の隣で面白そうに見下ろしている。
「ブラック・ウィドウ。これを成し遂げた後は……いったいどうなさるのですか」
「エコー。バカ言っちゃいけねぇよ」
「……?」
「これからオレがやんのは“終わり”なんかじゃねぇ。これは全てに復讐するための始まりで……ほんの小さな一歩でしかねぇよ」
「小さな……一歩でしかない……?」
 困惑する秘書の肩を叩いて、女はカラカラと笑う。
「その内分かるさ。さ、行こうぜ」
 二人が階段を上りきった所で、女はスタスタとエレベーターへと歩いていってしまう。
 秘書と少年と警官の三人は思わず顔を見合せ、女の後に続く。
「フン、フン、フフン……」
 エレベーターの箱の中で、女は鼻歌混じりで最上階のボタンを押していた。
「マ……マム?」
 少年の声にも、女はニヤリと笑って見せるだけで返事をしない。
 これからの事に気分が高ぶっているのだろうか。
 奇妙な浮遊感と共にエレベーターが上昇する中、響くのはエレベーターの駆動音と女の鼻歌だけだ。他の三人は緊張に身体を固くして、押し黙っていた。
「……」
「フフン、フン……」
 上昇し終わってエレベーターの扉が開くまで、せいぜい十分程度だっただろう。しかし、女以外の三人には何時間も経ったように感じられた。
 静かに扉が開く。
 広い部屋に分厚い絨毯。中央には木製のデスク。その向こうは床まで広がる大きなガラス張りで、ゆったりと浮かぶ飛行船や、都市を見下ろせる。
 その立派なデスクで何かの書類を書いていた人物が、開いたエレベーターに不審そうな視線を向け――エレベーターから出てきた人物に眉根を寄せる。
「一体――」
 口を開いた市長を遮り、女はエレベーターから出るなり厳粛な声で告げる。
「ギュスターヴ・ファン・デル・ローエ二世。我、ニードルスピアの名に置いて汝の罪を裁かん。己が罪を数えよ」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

針降る都市のモノクロ少女 07 ※二次創作

第七話

女性キャラクターをいわゆる「女性らしい人物」にしない、というのが今回気を付けている点です。……まぁ、物語構成上の都合、というのもありますが。

女性キャラクターを女性らしい人物にしない、という点は、一種の女性蔑視に対するアンチテーゼとして結構昔から重要視されている気がします。例えば、ジェームズ・キャメロン監督は特に顕著ですね。「エイリアン2」のエレン・リプリーとか、「ターミネーター」シリーズのサラ・コナーとか、あとは「アバター」の登場人物の女性陣も大体そんな感じですし。
北欧ミステリのブームともなったスティーグ・ラーソンの「ミレニアム」シリーズのリスベット・サランデルもそううですし、アメコミヒーロー物の映画で女性が主人公というのも最近出てくるようになったばかりですね。
男に守られるか弱い女性、という旧態依然の価値観を打破する、という意味合いがあるんだと思います。

……とはいえ、今回のリン・ニードルスピアはどちらかというと「ブラックラグーン」のレヴィとか、「空の境界」の両儀式のほうがニュアンスは近い気がします。日本の漫画、アニメの方がそういった価値観を破壊するのは得意なのかも。

閲覧数:88

投稿日:2019/11/17 21:49:55

文字数:5,687文字

カテゴリ:小説

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