駐輪場と一口に言われるだけでは分からなかったが、ここから一番近いのは学校の駐輪場だ。
階段を駆け下り、校舎の入り口で靴を履き変える。
靴を履いている途中でチャイムが鳴った。もう戻れない。戻った所で遅刻は確定している。
あぁ、一時間目も遅刻したのに、二時間目も遅刻してしまうのか。一体、自分は何をしているのだろう。何が自分をここまで動かすのだろう。
「模範的な生徒」と先生に称され、成績もそれなりによくて授業遅刻なんてしたこともなかったが、今日ばかりはその模範から外れてしまっていた。
先生にはおそらく目をつけられるだろう。何と言っても二時間目は現代文だ。
あぁ……またよりによって現代文だなんて。あの先生、何かやらかすと嫌味ばっかり言うんだよなぁ……謝って許してくれればいいけど。
半ば後悔をしながら、リリィは校舎の扉を開けた。
駐輪場に到達するまでに、一分もかからなかった。当然だが、そこには沢山の自転車が置いてある。
そこは休み時間のにぎやかな教室とはうって変わって、静けさが溢れていた。
ここでよかったんだろうか。とりあえず一番近い駐輪場がここだったから来てみただけであって、彼がここにいる根拠は何もないのだが。
その時、「リリィ」と背後から名を呼ぶ声がした。
振り返ると、どこから現れたのか、いつの間にか彼の姿がそこにあった。

「神威」

彼はどこか落ち着かない素振りで、少し元気がなさそうだった。デート中の時と同じ、彼の重そうな表情が彼の顔に表れていた。
覇気のない彼の顔を見て、思わず言葉が出なくなってしまう。聞きたい事は、色々あるのに。
しばらく沈んだ空気になった後、彼が最初に口を開いた。

「よ、よう。その、まず最初に謝らせてくれ。突然呼び出しちまって、ゴメンな」
「いいよいいよ、どうせ一時間目も遅刻してるし。それより、どうしたの」
「あ、あぁ……ちょっと、言いたい事があって」
「言いたいこと?」
「まぁ、その」

彼は言葉を濁らせる。そんなに言いづらい事なのだろうか。
目を合わせられないで、下を向いている。
数回呼吸を整え直そうと息を吸うが、その様子がとても辛そうだった。

「言いたくないなら、言わないでいいよ?何か、悩んでるんだよね、神威」

リリィにそう言われると、神威は面食らったように、ハッと息を飲んだようだった。
何かに目覚めたかのように、驚きの表情を浮かべるが、すぐにまた元の重い表情に戻ってしまった。

「でも言わなきゃいけないんだ、これだけは。どうしても」

元気がないのは確かのようだが、それでも手に力を入れるだけのエネルギーはあったようで、彼はギュッと拳を握りしめる。
空虚なエネルギーを振り絞って、彼は言った。

「俺と」

大きな声だったが、それでもやはり何かが足りない。力強さがない。
それでも今の彼には精いっぱいだったのだろう。
その声で、続きの言葉を紡ぐ。その言葉を聞いた時、リリィは一瞬自分の耳を疑った。

「……え?」

何を言われたのかは、最初分からなかった。ただその文字の羅列が脳内を巡るが、意味をそこに見出せなかった。
それを理解するまでに数秒、いや、数十秒かかった。
どういうこと、と尋ねると、神威はもう一度その言葉を言った。

「俺と、別れてくれ。今の関係から……少し離れたいんだ」
「そ、そんな」

今の関係を断ち切ろうってことだか。恋人をやめようってことなのか。
いつも苦しそうにしていたのは、その事が原因だったのだろうか。
たまに何かを言おうとしていたのは、リンの言ったとおり、私に別れの言葉を告げたかったからなのか。
聞きたい事が、水泡のようにどんどん浮かんでくる。
まとまらない。うまくまとまらない。昨日から考え事ばかりで、もう何も考えられない。
考えたくない。夢であってほしい。だって神威が、そんな事を言うはずはないから。まさか彼の口からそんな言葉が出るはずはないから。

「遊園地、行ったよね。神威も、あの時凄く楽しそうだったよね。楽しかった……よね?私の事、撫でてくれたよね?なのに……私の事、嫌いになっちゃったの?だから、新しい彼女を作ったの?それとも……私は最初から“二番目”だったの?」

疑問が次々と言葉となって溢れてくる。
昨日の光景を見た時からずっと精神が不安定だった。考えてばかりいたら、一日で心は簡単に脆くなってしまった。
喉がからからに渇く。
彼は何も述べず、一言「ごめん」と言い放つと、その場から逃げだすように歩きだした。

「待ってよ……!どうして別れたいの?理由くらいは、教えてよ……」

彼はリリィの声に一瞬立ち止まったが、振りかえらずに、そのまま行ってしまった。早歩きに近い形だった。
彼の過ぎ去った後で、静かな空気がまた訪れる。静かすぎて怖いくらいだ。時が止まったのかと思った。
実際、リリィの中の時は止まっていた。思考停止状態。もう、これ以上考えられない。
体中の血液、皮膚、臓器の何もかもが、まるで石みたいに頭のてっぺんからつま先まで完全に固まってしまったみたいだった。息をする事さえ、出来なくなってしまいそうだった。
時間はそのまま数分止まったままで、リリィは呆然とその場に立ち尽くしていた。
やがてそれが動き出すと、もうそこは自分一人を除いて、誰もいない空間に変わっていた事に気がついた。
一雫の涙が目尻からこぼれたが、その事には気付かなかった。それに気付くまでの余裕はなかった。
いつもより強い風がひゅうひゅうと吹いている。ロングの髪がそれにつられてゆらゆらと揺れた。
そんな風さえも気にしている暇はなかった。
魂に灯った火は、それに簡単に吹き消されてしまいそうで、そしてそのまま、魂だけどこかに飛ばされてしまってもおかしくなかった。

少し経って、ようやく時が動き出す。電池の切れかかったアナログ時計のように、針は思うように進まなかったが、それでも鈍い時間は動き出した。
通常の二分の一くらいのスピードでやっと、感情が動き始めた。
そうして、やっと自分のこぼした涙に気付くのだった。

「あ……」

自分は今、泣いているんだ。そう知った途端に、涙が涙腺から止めどなく溢れだす。
もう、もうわけが分からない。
心の中に痛みが走る。徐々に押しつぶされていくような痛みと、太い針でグサリと刺されたような鋭い痛みの両方が、心を苦しめた。

苦しい、痛い。痛い、痛い、苦しい。

そして焼けてただれるような痛みも身体を襲う。
「辛酸を舐める」という表現よりももっとえげつなくて、それをそのまま体中に浴びているようだ。
足の力が抜けて崩れ落ちてしまいそうになったが、なんとか立った状態の姿勢を保つ。
けれど、もう呼吸がうまく出来ない。
こんな思いをした事は、今まで一度だってなかった。人生でこんなに痛みを伴うような思いをするのは、これが初めてだった。

「う…ぅ…」

何とか押し殺そうとしても、口から洩れる悲痛な声。声をあげて泣いたら、自我が保てなくなりそうで怖かった。ヒステリックになってしまいそうだった。
叫ぶだけ叫んで、過呼吸になって、挙げ句の果てにはそのまま倒れてしまいそうなくらい、今の自分は危うい事を本能的に理解した。
自分自身の身体なのに、上手くコントロールできない。
どうすればいいのだろう。どうすれば、活火山のマグマのように溢れる感情は収まるのだろう。

とりあえずここを去ろう。いつまでもこんな殺風景な所にいたら、涙が次々に押し寄せてくるだけだ。それにもし誰かにこんな姿を見られたらまずい。
そう思って歩き出そうとした時、リリィの右足が、ふっとよろめいた。
倒れる、と思った次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

セルフ・インタレスト 9 (♯2)

誤字脱字、ストーリーの矛盾点などありましたら教えていただけると助かります……。

閲覧数:42

投稿日:2012/08/05 15:31:47

文字数:3,175文字

カテゴリ:小説

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