―大きな古時計―
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
時計は休む間もなく動き続けてきた。この世に生を受けてから九十年もの間、一時たりともその鼓動を絶やすことは無かった。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
昔には騒がしかったことのある居間は、空虚にその時計の音だけを響かせる。聞かせる相手は目の前にはいないのだが。
ボーン、ボーン、と、深くて低い大きな鐘の音が鳴り響いた。この数年、鳴くことを止めていた時計が、久々に鳴り響いたのだ。
一回、二回、三回・・・。何回も何回も、何回も鳴り響く。その鼓動のように絶え間なく、ゆっくりと、悲しみとも慈しみとも感謝ともとれるその音を、ただ鳴らし続ける。
―――――――
昔からこの国にはある風習が伝えられている。
子供が生まれるときに、時計を買いなさい。新品の時計を、まだ動いたことのない時計を買い与えなさい。そして、それを一生大事にさせるのです。人生の伴侶にさせてやるのです。その時計の鼓動は、人生の始まりから終わりまでを刻むのですから。
そう、そんな風に。私はこの話を母から聞いた。
私自身もまた、産まれた時分に時計を買い与えられ、現在でも私の傍らで時を紡いでいる。そう、この大きな時計だ。
私の五歳の誕生日に、母から時計のねじを渡されて、
「これは貴方の時計です。これを貴方自身だと思って、一生大事にするのですよ」
と言われたのを、八十九になった今でもよく覚えている。
そうそう、母はこんなことも言っていた。
「この時計はこの国で作られる不思議な時計です。貴方がどれだけ成長しようと、この時計は貴方の体重と同じなのですよ。まぁ、身長は貴方に合わせてはくれませんけどね。だって貴方が大きくなるにつれて時計も大きくなったら、この部屋から出すときに大変なことになるでしょう?」
不思議なことに、確かに私が成長して体重が増えようとも、時計は私と一グラムたりとも違わなかったのだ。もちろん、高さは変わりはしなかったが。それでも私の身長の半分以上はある。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
この音聞いていると、何故だか心が落ち着く。
妻が先だってもう十年も経つが、この時計のお蔭で、寂しさというものはそれほど感じていない。息子も娘も妻すらもいなくなったこの家で、唯一不変を貫き続ける様は見ていて惚れ惚れするほどだ。
とはいえ、最近は、特にここ数年はもう時を告げる鐘の音をもう聞いていない。私と同じく、老いぼれてきたということなのだろうか。知り合いの時計職人にも見せてみたが、もうお手上げらしい。
だがそれでも私はこの時計を誇らしく思う。
いつだって変わらずそこにいて、私を私でいさせてくれたのだから。
あぁそろそろティータイムだ。紅茶でも淹れて、時計と一緒に飲むとしようか。
―――――――
「お祖父さん、大丈夫ですか?お祖父さん!」
「・・・うぅ、ここは・・・?」
「病院ですよ。突然倒れたと聞いてかけつけました」
どうやら私は倒れたらしい。記憶には何も残ってはいないが。・・・歳、だろうか。
「大丈夫だよ、問題はない」
孫達の顔を見ていると、元気も湧いてくるというものだ。だが、本当のことを言えば、身体はもう自分の思うようには動かしにくくなっているのが現状だが。
「ところで、誰が私を病院まで運んでくれたのかね?」
そう聞くと、皆一様に頭をひねり、
「それが・・・わからないのですよ」
と言う有様だった。
「お医者様は、ティータイムを取っていたら突然背後から女の声がして、お祖父さんが倒れたから駆けつけてほしいと頼まれたらしいのですが、振り向いたときには誰もいなくて、馬車が玄関口に呼ばれていたので、それで駆けつけたと仰っていますが、何とも腑に落ちないといいますか・・・」
「・・・まぁどなたかは知りませんが、もし見つかったら感謝の意を伝えておきなさい。お蔭で私は今、ここにいるのですからね」
不思議なこともあるもんだ。
―――――――
・・・良かった。とりあえず一命は取り留めたみたい。
でも、もう長くはもちそうにないと思う。これだけ長く一緒に過ごしてきたから、よくわかる。
それでも私はいつもと同じように、ご主人様に正確な時を伝え、傍に居るだけ。時に慰めたり、ともに喜びを分かち合ったりすることもあるけども、私の役目は、ご主人様の時を、鼓動を絶やさないということだけ。
―――――――
「お祖父さん!お祖父さん!」
「ふふ、そろそろマリア様がお迎えに来たようだよ」
九十を迎えた今日という日に神の御許へ行くというのは、何だか感慨深い。死を目前にこれほど落ち着いていられるというのは、見守られているからだろうか。
「あぁ、そうだお前たち。床に伏してからも頼んできたことだが、週に一回、あの時計のねじを巻くのを忘れないでおくれよ。あの時計は私の誇りだからね。・・・いや、あの言い伝え通りだと、その必要はないかもしれないが・・・、ね」
今までも数々の友人、そして妻を見送ってきたが、誰もが持っていた時計はその主人が亡くなると、必ず時を止めていた。そして母も言っていた、その時計は、始まりから終わりまでを刻む時計、だと。
「お祖父さん、何をいってるんですか?まだ、まだ貴方がいなければ私達は未熟なのです。私達だけでこれからやっていけるとは思いません」
「何を言っているんだい。私はもう半ば隠居していたじゃないか。それでもこれまでやってこれたんだ。お前たちならきっと大丈夫だよ」
・・・あぁ、そろそろ・・・か・・・。
「先にあちらに行ってるが、お前たちはそう急かなくても良い、ゆっくり、踏みしめた後でおいで。待って、る・・・よ・・・」
声がもう出せなくなった、耳ももう、音らしい音はもう聞き取れない。あぁ、これが、死ぬということなのか。子供たち、孫達そして曾孫にまで囲まれるとは・・・、あぁ、良い人生だった、かな。
『ご主人様、お疲れ様でした。ゆっくりお休みください』
ふと、何も聞こえなかったはずの耳に、聞き覚えのあるような無いような女の声が聞こえてきた。あの時計の時を刻む音と共に。
・・・最後に、懐かしい、鐘の、音を。聞いた。ような・・・気が・・・し・・・た・・・。
―――――――
遂にご主人様は逝ってしまった。
九十年もの間、私と共に時を歩んできたご主人様が、逝ってしまった。
最近は鳴らすことができなくなっていた鐘を、最後の力を振り絞って心の底から鳴らす。
始まりのあるものには全て終わりがあるというのが世の常だということは分かってはいた。分かってはいたのです。でも、何故か悲しい。
もうご主人様の手でねじを回してもらうことはないのだと思うと。その低くて太く落ち着いた声を二度と聞くことは無いのだと思うと。・・・悲しいのだ。
でも、今まで頑張ってきたご主人様のために、私は鐘を鳴らす。
生きていたということを一人でも多くの人に知ってもらいたいから、ようやく神の御許へ行ける喜びを知ってもらいたいから、そして、あの立派なご主人様のために、祈りを捧げてもらいたいから。
私は、ただ力の限り鳴く。この家中に、そして外にまで届かせるように鳴く、鳴く。
時計が死んだ後に神の御許へ行けると保証はされていないのだから。もうこれでお別れなのだ。きっと。もう、会えないのだ。
あぁ、思い出す。あの懐かしい日々を。
ご主人様が生まれると同時に私もこの世に生を受けて、時を刻み始めた。小さなご主人様を見ると、私がしっかりしなきゃと背筋を正したものだ。
五歳の誕生日の日、初めてご主人様が私のねじを回した。小さなその手にはそのねじ巻が大きく見えたけれども、身を乗り出してねじを回す様は、私の活力となった。
ご主人様が奥様を連れてこの家に入ってきたときには、私は時計として精一杯の祝福の意を込めて二十四回鐘を鳴らした。家の空気がより明るく、賑やかなものになっていくのを肌で感じていた記憶が、今でも鮮明に思い起こせる。
最近ではご主人様が倒れたとき、頑張ってお医者様を呼びに行き、何とか一命をとりとめたということもあった。
いろいろ、いろいろあったのだ。
私は満足しています。ご主人様。貴方の元で時を刻むことができて、共に歩むことができて、私は満足しております。
そうして、私はご主人様の時が止まるのと同時に、正確にその死を刻んだ。
―――――――
「おい、お祖父さんの時計が・・・」
「・・・止まってるじゃないか」
「それもお祖父さんの亡くなったその時で、振り子まで止まっている」
「言い伝えはやはり本当なのね・・・」
人々は口々にその時計のことを話す。誰もが分かってはいるような事だったが、実際に見てみると、やはり驚きは大きいというものだ。
それぞれがそれをみて自らの時計もまた、同じようにいつかは止まるのだと自覚し、それが自らの命その物だということを思い起こさせる。
時計は、自分自身と等しいのだ。
―――――――
お祖父さんの死後、時計はやはり時を止めたまま、動き出すことは無かった。ねじを回したところで、ピクリとも動きやしない。
そうして時計が死んだということを理解したお祖父さんの子供達は、言い伝え通りに時計を分解して、炎の中へその一部一部を順番に入れていった。
「お祖父さん、私たちにとってこれは形見のようなものだったのですが。やはりこうしなきゃいけないのですね」
「悲しいですが、これが言い伝えなら仕方ありませんものね」
「一体どうしてこんなことをしなくてはならないのだろう、ね」
子供たちは口々にそう話しながら、火葬を進めていく。
―――――――
炎が身を焦がす。最後に残った私の欠片も、もうこれでおしまい。
これでやっとお仕事は終わり、私の死も、これでようやく完了する。
この炎の向こうで、もしご主人様に会えるとしたら、良いのに。ただ何となく、私はそう願っている。
いつまでも続く関係ではないのだから。望んでも仕方ないことなのだから。そんな願いはしないほうがいいと分かってはいながら。それでも願ってしまう。
あぁ、私も神の御許へ行けると、良い、のに・・・。
『ありがとう』
懐かしいご主人様の声を聞いたような・・・気が、した・・・。
―――――――
「これでいいんですよね、お祖父さん」
「いいのよ、きっと」
お祖父さんの眠る墓の横に、小さな墓が加わった。
コメント0
関連動画0
ご意見・ご感想