二日後の水曜日、俺はハクさんに教えられたとおり、リンの家にやってきた。初めて見るリンの家は、初音さんの家に負けず劣らずの豪邸だった。
すごい家だけど……リンを閉じ込めている茨の城でもあるわけか。ここから、リンを出してやれないのが歯がゆい。
俺は息を大きく吐くと、家の裏手へと回った。ハクさんの言ったとおり、小さなドアがあった。ここが裏口か。ドアの横に、電子装置がある。
カードキーを通し、メモしてきたパスを入力すると、ドアはあっさり開いた。……いいのかなと思ったが、細かいことには突っ込まないことにする。
庭は薄暗かったが、ところどころ、明かりがある。防犯のためか、単なる装飾かはわからない。どのみち街灯レベルの明かりだから、暗がりを歩けば目立たずに済むだろう。様子を伺いながら、静かに庭を歩く。建物は明かりがついていないところを見ると、ハクさんの言うとおり、皆寝ているようだ。
あ、物置ってのはあれか。みつけた小さな建物に、俺は近寄った。音をさせないよう、引き戸を開ける。中は真っ暗だった。持ってきたペンライトを取り出して、それで中を照らしてみる。幸い、脚立はすぐに見つかった。
脚立はかなり重かったが、仕方がない。ハクさんが書いてくれた図を参照しながら、俺はリンの部屋に当たりをつけ、脚立を立てた。後は昇って、中に侵入するだけだ。
脚立を昇りながら、俺はある映画のワンシーンを思い出した。……『ブレインデッド』あの映画の中には、主人公のライオネルの恋人のパキータが、テラスからライオネルの部屋に忍び込むシーンがあったっけ。……性別が逆だけど、状況は似てなくも……いやよそう。さすがに悪趣味だ。
バルコニーに降りると、俺は部屋の中を覗いた。部屋は暗い。リンは眠っているんだろうか。眠っているとなると、ちょっと厄介だ。なんとかして、リンを起こさないといけない。そう思った時、ベッドの上で人影が起き上がった。……リンだ、間違いない。
リンはこっちを見て、びっくりした表情で固まった。俺は窓に手をかける。……鍵、かかってない。リンが閉めるのを忘れたようだ。窓を開けて、中に入った。
「……リン」
リンに近寄る。リンはまだ動けずにいた。すぐ近くまで来た時、リンが呟いた。
「これは……夢?」
その言葉を聞いた瞬間、俺はリンを抱きしめていた。これは夢じゃない。夢なんかじゃないんだってことを、わかってほしくて。
「会いたかった……!」
リンを強く抱きしめ、耳元にそう囁きかける。次の瞬間、リンの方も俺にしがみついてきた。
「わたしも……わたしも会いたかった!」
リンの声は震えていた。きっと、今までずっと不安だったんだろう。俺はリンの髪をそっと梳いた。いつもと同じ、さらさらとして柔らかいリンの髪。リンの身体から力が抜ける。俺はリンの肩に手を置き、唇を重ねようとした。その時、力を入れすぎたせいか、はずみでリンをベッドの上に押し倒してしまう。
「あ……」
思わずリンの顔を見る。リンは驚いているようだった。押し倒すつもりはなかったんだが……。
「えーと……」
俺の身体の下に、リンの身体がある。咄嗟に手をついたから、体重はかかってないけど……。ちょっと手を伸ばしたら、リンを抱きすくめてしまえる。もっと身体を密着させて、リンを感じたい。でも、そんなことをしたらリンは怯えてしまうだろう。
離れた方がいい。それはわかっている。なのに、そうしたくない。
俺は片方の手を伸ばして、リンの頬に触れてみた。それから、その手を首筋にかけて滑らせる。リンがくすぐったそうに身をすくめた。
リンは大きく息を吐くと、恥ずかしそうに微笑んだ。
「レン君……大好きよ」
その言葉に、俺ははっとなった。俺だってリンのことは大好きだ。でも、俺がここに来たのは、リンと話をするためだ。リンと話をする前に、こういうことをするわけにはいかない。
俺はリンの腕をつかんで、リンをベッドの上に起こした。リンが怪訝そうな表情になる。
「……レン君?」
「リン、大事な話があるんだ」
俺の言葉を聞いたリンは、不安そうな表情になった。そして、自分の腕を自分の肩に回している。
「俺、そのためにここに来たんだよ」
「う、うん……レン君、ちょっと待って。もう少し明るくするね」
リンは、ベッドの脇に立っていたスタンドの紐を引っ張った。部屋が、うっすらと明るくなる。明るくなった部屋で、リンを見て俺は唖然となった。さっきまでは暗かったし、夢中だったから気がつかなかったが、リンが着ていたのはシースルーのネグリジェだった。それも丈がおそろしく短いくて、太ももが半分以上出ていたりする。リンの私服は大体いつも丈が長いので――ぶっちゃけ、一番丈が短いのが制服のスカートなんだよ――俺は初めてリンの脚をまともに見た。白くて柔らかそうな太ももだなあ……って、俺、どこ見てるんだよっ!
「……レン君、どうかしたの?」
えーと……リン、自分の格好のきわどさには気づいてないんだろうか……。胸の辺り、なんだか危険なものが透けて見えるんだが……。俺は、思わず視線を逸らした。正直、理性がさっき以上にやばい。
「レン君?」
「あ……いや、その……リン、その格好、お父さん何も言わないの?」
あのやかましいお父さんが、こんな格好を見たらキレそうだが……。最悪、その場で「今すぐ捨てろ」とか言われたりしないんだろうか。
「お父さんはわたしの寝巻き姿なんて見たことないわ。寝巻きだけで廊下に出るのはお行儀が悪いもの。ちゃんと、ガウンを羽織ってから廊下に出るわ」
微妙にズレた返答が返ってきた。……ホテルみたいなルールだな。とにかく、リンのお父さんはリンのこの格好を見たことはないわけね。……うん? ひょっとして、俺は、身内ですら見たことがない格好のリンを見ているのか? 参ったな……心拍数が上がってきたぞ。
とにかく、話をしないと。ベッドの上に座っているリンに、視線を向ける。なるべく、顔を見て話をしよう。……リン、ちょっとやつれたみたいだな。
「えーと……リン、落ち着いて聞いてくれ。実はリンが閉じ込められている間に、君のお父さん、学校に苦情を持ち込んだんだ。俺がリンに手を出したって」
リンの瞳が見開かれた。やっぱりショックだったらしい。俺の目の前で、自分で自分の肩を抱いてしまっている。
「落ち着いて……」
そう声をかける。リンはふるふると首を横に振った。
「わたしたち、そんなことはしてないのに……」
「そうだよ。でも、お父さんは俺がリンに手を出した、だから俺を処分しろの一点張りで」
俺の言葉を聞いたリンは、はじかれたように顔をあげた。身体が小刻みに震えている。
「処分って……レン君を学校から追い出せってこと!?」
「……まあ、そういうこと」
俺は肩をすくめて肯定の返事をした。リンは、今にも泣きそうな表情をしていた。抱きしめてやりたいが、そんなことをしたら俺の理性が……。とにかく、続きを話そう。
「それで、俺の母さんもアメリカから帰って来て、学校と話し合ったりしたんだけど、リンのお父さん、一歩も引いてくれなくて。なんか学校の方も妙に、リンのお父さんには腰砕けというか……」
そこまで聞いたリンは、はっとした表情になった。
「……寄付金だわ」
「寄付金って?」
「うちの学校、前にも言ったけど、お父さんの母校なの。だから毎年、学校にかなりの額を寄付しているのよ。お父さん、きっと、レン君を追い打さないと寄付金を打ち切るって言ったんだわ」
ああ、なるほど。姉貴が「何かやってるみたい」って言ってたけど、そのとおりだったわけか。寄付金ね。……脅迫じゃないか、それ。そんなのに学校も屈するなよ。
俺がそんなことを考えていると、不意に、リンが手を伸ばして俺の頬に触れた。そんな些細な行動にも、心臓が大きく跳ね上がりそうになる。
「レン君……ごめんなさい、お父さんのこと」
リンは、まだ俺が殴られたことを気にしているようだった。
「だから、それは気にしなくていいよ。リンのせいじゃない」
俺がそう言うと、リンは首を横に振った。
「でも……わたしとつきあわなかったら、レン君、殴られずに済んだし、学校に苦情を持ち込まれることだってなかったのよ」
「それを承知の上で、それでも、俺はリンとつきあいたいって思ったんだよ。今でもね」
リンは肩を落として、俯いている。俺はリンに聞こえないように小さくため息をつくと、理性が持ってくれるように祈りながら、リンの肩を抱いた。リンを落ち着かせるには、これが一番いい。
いつもなら、肩を抱き寄せると、リンは身体の力を抜いて、俺に身を預けてくる。だが、今日は様子が違った。強張った姿勢のままでいる。つまり、安心できずにいるってことだ。
「……リン?」
「あの……あのね、レン君。今まで黙っていたんだけど、わたしがお母さんって呼んでいる人、本当のお母さんじゃないの。お父さんと再婚して、二歳の時からわたしを育ててくれた人なの」
リンは、そんな話を始めた。それは知っている。でも、リンの口から聞いた話じゃないから、リンは俺がその事実を知っていることを知らない。だから、俺は口を挟まなかった。
「それでね……わたし、ずっと、本当のお母さんのことは何も知らなかったんだけど……レン君が殴られた日に、お父さん、わたしに言ったの。わたしの本当のお母さんが家を出て行ったのは、不倫して駆け落ちしてしまったからだって……」
おいおい、何だよそれ。リンの実母は不倫したあげく、娘を放り出して家を出て行ったのか……?
「そして、こうも言ったわ。『あばずれの娘はあばずれになる』って。だからお父さん、わたしの言うことを信じてくれないんだと思う」
リンの心に、どこまで毒を擦り込んだら気が済むんだよっ! リンが死にでもすれば満足なのか!? 大体その人が出て行ったことと、リンに何の関係があるんだよっ! まだ二歳だったんだぞ。
「わたしは、レン君を殴った上に、学校に苦情を持ち込んで退学させようとする父親と、男にだらしなくて、夫の連れ子を苛めるような母親の間に生まれたのよ」
リンは、暗い口調でそう呟いた。そんなゴミみたいな親は、捨ててしまえばいい。反射的にそう口にしそうになるのを、必死でこらえる。リンに必要なのは、そんな言葉じゃない。えーと、えーと……。
「……リン。リンに、クッキーやケーキの焼き方を教えてくれたのは誰?」
「お母さんよ。……わたしを育ててくれた方の」
俺とつきあうようになってから、リンは度々そういうものを作ってきて、俺にくれた。それに姉貴は、「二人はどう見ても親子だった」とも言っていた。
「だったら、リンのお母さんは、その人だよ」
優しい記憶のある人だけ見ても、バチは当たらないと思う。
「育ててくれたお母さんに、そう言ってもいいと思う」
多分肯定してくれるはずだ。俺のことは認められなくても、リンを拒絶するようなことはないだろう。
俺の言葉を聞いたリンは、安心した様子で、俺にもたれかかってきた。……と、まずい。安心してくれたのはいいけど、俺、まだ肝心な話をしてないぞ。
「リン、話を戻すけど、いい?」
「ええ……ごめんなさい、遮ってしまって」
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つち(fullmoon)
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