どうしてそこに希望を見出してしまったんだろう。
<造花の薔薇.14>
レンが、扉を開くために慎重に扉と壁の隙間に指を這わせる。
流石『隠し』扉、見つからないように徹底的に工夫されているせいでなかなか開くための取っ掛かりは見つかりにくい様だ。
「扉、開く?」
「ええと…ああ、やっぱり大丈夫みたいだ」
心配になった私の問いに、レンは少し躊躇い、その後すぐに扉が微かに軋んで動いた。
音は無い。
見慣れた壁の一部は静かにその姿を変えて、奥からぽかりと開いた暗い道が姿を現した。
理由なんて分からない。
でも、嫌な感覚が背筋を這い、私は身を震わせた。
私の背中を撫でたのは、今までお伽話と同列だった存在が不意に現実味を帯びて姿を現す、その不気味さなのかもしれない。
考えてみれば一番良い逃げ道ではある。
ここは、本当に誰にも知られていない道だ。ウィリアムでさえも知らないだろう。
この道は王宮の敷地外、とある森の中の井戸に繋がっているらしい。完全な一本道で、だからこそその機密性は保たれている。
知っているのは恐らく、私とレンだけ。
と、ふと頭の中を紫髪の教師の姿が過ぎった。
―――そういえば、彼にも話してしまったわね。…まあ、もう忘れている事でしょう。問題じゃないわ。
「じゃあ、リン」
レンに促され、私はその暗い通路に向かって一歩踏み出した。
王宮から出るのなんて、本当に久しぶり。
少し怖い。
でも、この先には、きっと光が―――…
…でも、この扉は向こうからは開かない。
「・・・ねえ、レン」
不意に、猛烈な恐怖が私を襲った。それを隠すことも出来ずに、私は微かに震えながらレンを見た。
まさか。
まさか、でも…レンなら…!?
「うん?」
「ここから逃げるなら、一人だろうが二人だろうが変わらないわよね…?」
レンの目と、私の目が合う。
そこには、穏やかな笑みだけがあった。
私の疑惑は、確信になった。
「貴方…まさ、きゃあっ!?」
問い詰めるために向き直ろうとして、思い切り通路に突き飛ばされる。
ろくに受け身さえ取れず倒れ込む。
―――待って。
私の頭の中で、閃くように声が溢れた。
心からの叫び。
なのに、扉は閉じた。
――――――待ってよ―――!!
「レン!!」
叫び声の残響が、光を失った通路に響く。
騙された。
レンは…レンは、初めから逃げるつもりなんてなかった。
私だけ逃がして、自分は残るつもりなんだ。
恐らく、『リン王女』として。
扉に手を掛けて、必死に押す。扉と壁の間の隙間に指を滑り込ませて、動かそうと試みる。
無駄だった。扉はぴくりともしない。
不様な震え声が喉を衝く。
「…レン」
返事は無い。
「…レン、いや…」
答えが欲しい。
何でも良い。レンの声が聞きたい。
こんなに一人が怖いのは、初めてだった。
「ねえ…レン」
「…レン」
「…答えて…」
一度、この通路を駆け去り、外から王宮に戻ろうかとも思った。
でも私は―――外に出てしまったら道なんか分からない。
行ってしまえば、戻って来れない。
私はただ、絶望感に苛まれながらも途方に暮れて目の前の壁を見つめていた。
どれ位の間、無意味な問い掛けを続けただろう。
そこに、微かな音と共に僅かな光が差し込んだ。
そして、慎重に掛けられる―――声。
「リン、いる?」
「レン!?」
私は、光の見える穴に飛び付くように顔を近付けた。
「レン、レン、どういう事なの!?開けて、ここを開けて!ねえ、レン…!」
もう分かっていることを、それでも否定してほしくてレンに尋ねる。
だけど、当然レンの答えは痛いくらいに静かだった。
「できない」
「!」
思わず息を飲む。
レンは落ち着いた、それでも辛そうな声で、私に死よりも辛い刑を宣告した。
「リン、聞いて。君はそこから逃げるんだ。大丈夫、僕らは双子だよ?心配しなくていい、きっと誰にも分からないさ」
「そ、そんなこと聞きたい訳じゃない!貴方、死ぬつもりなのねレン!嫌!そんなの絶対嫌よ!」
覆してほしくて、世界で一番優しくて残酷な裁判官に減刑を訴える。でも彼は聞いてくれやしない。
彼は、私が何度も考えた事を優しく告げてくれた。
「でも、『王女』は死ななきゃいけない。…心配しなくていいよ、ばれっこな」
「ばれた方がいいに決まってるでしょ!?だって、気付かれなかったら…!」
聞きたくない!
だって、そこにあるのは貴方の死だ。
私なんかよりずっとずっと綺麗で優しい、レンの死だ。
そんなの許せる訳が無かった。
私のせいでレンが死ぬ。
それは―――私がずっと、避けようと努力してきた事の筈だった。
「貴方を身代わりにして逃げろって言うの?そんなの出来る訳無いでしょ!?」
「出来なくてもやるんだよ。君がどう言おうと、僕は扉を開かない。君は生きるんだ、リン」
「レン!」
「もしも辛くても、耐えてくれ。きっとリンなら大丈夫だから」
「…そんな…!」
なのに。
なのに。
なのに!
どうして最後のこの瞬間に、よりによってレンが私を裏切るの…!?
「…ねえ、何がいけなかったの!?」
私は、何処で間違えたの。
何処でどう生きれば、こんな事にならずに済んだの。
どうしたら、貴方を護ることが叶ったの。
「一人を想って何が悪いの!?欲しかったものを手に入れようとして何が悪いの!?」
私は、私に出来る最大限の事をした筈だった。この国最大の権力も、私に許された分は使ったつもりだった。
それが罪だったの?
それが卑怯だったの?
「私は自分に出来ることをしただけよ!なのにどうしてなのよ!」
理不尽過ぎる―――そう叫んだ私の声に被せるように、レンの悲鳴じみた声が耳に突き刺さった。
「―――駄目なんだ!駄目なんだ、リン!それじゃいけなかったんだ!」
私は口を噤み、レンの声に耳を澄ました。
提示される一つの答えを、一字一句聞き逃したくなかったから。
レンの声は、私の額を撃ち抜いて頭の深くまで響く。
「だって君は、『王女』なんだから!」
王女。
「…『王女』」
舌の上で、その馴染んだ言葉を吟味する。
「だから君は、望むままに生きちゃいけなかったんだ。一人を追っちゃいけなかったんだ。君には、守らなければいけない人達が沢山いたんだから」
じゃあ、つまりこういう事?
私がレンを護ろうと決意した事、私がレンを護るために行った事…
…間違ったのは、そこだったの?
それなら、私のして来た事は。
「―――でも!」
「でも、じゃないんだ!僕だってリンを責めたくなんかない。リン、僕は嫌だ。君が死ぬなんて嫌だ」
「わ、私だって嫌…!レンが死ぬなんてそんなの、そんなのっ!」
私のして来た事は、ただレンを殺すだけにしか働いてはくれなかったの?
私のして来た事全てが。
レンを護ろうとして来た事全てが―――レンを殺す。
涙が溢れる。止まらない。
神様なんて、いるはずがない。
いるのなら、私を放置したりする筈がないのだから。
何故もっと早く教えてくれなかったの。
気付き、たかった。
この手が、一番大切なものを壊してしまう…願わくば、その前に。
こんなに取り返しの付かないことになる前に、道を正したかった。
「ねえリン。僕の頼みを聞いて」
レン。
「君の笑顔が1番好きだよ」
あなたは、残酷だわ。
「だから、…泣かないで…」
ふつりと声が途切れ、光が失われる。
静寂が戻る通路。
その静けさが苦しくて、私は扉を拳で叩いた。
「…しだって、私だって、貴方の笑顔が一番好きなの」
私自身の笑顔より、ずっと。
「貴方の声が好きなの…」
私自身の声より、ずっと。
「貴方の事が好きなの…!」
私自身より、ずっと。
「貴方の命が大切なの!!」
私の命より、ずっと!
「…レン…レン!嫌、いや、いやだよおっ!!行かないで!お願い、行かないでっ!」
だん、だん、と扉を叩きながら、私は必死に叫んだ。
「お願い―――やめて!レンを、レンを連れて行かないで!奪うなら私にして!だってこんなの、おかしいでしょう!?」
伝わるはずがないのに、私は泣き叫ぶ。
こんなに泣いたのは初めてだ。
「開けて!開けて!レン、開けてよ!やめて、私からレンを取らないでぇ!レンだけだったの!レンだけだったの!私が大切なのはレンだけだったの!」
前が見えない。全てがぼやけて霞んで、何も見えない。
「それがいけないなら私を罰してよ!レンを連れて行かないでよ!レンは何も悪くないの、私は、王女はここにいるの!リン王女はここにいるのよっ!」
でもそれは、今だけの事じゃない。
きっとこれから先永遠に、私の世界に光は戻らない。
「気付いてよ!見付けてよ!憎まれているのも罰を受けるのも私でしょう!?レンじゃないわ!絶対、レンじゃないの!!」
叩き付けた拳が痛い。
なのに、頭の方がずっと痛くて…
私は、ひたすら叫び続けた。
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