そこはウォーターフロントにそびえる巨大なオフィスビル群だった。
他を圧倒するような高さと威圧感。いくつものフロアにまだらに点在する明かりは不夜城を思わせる。
 ジハドには狭い部屋に無秩序に積み上げられた段ボール箱を思い起させ、その対比が少しだけ可笑しく、失われた記憶が燻る感情を覚えた。
 既に真っ当な就業時間は終わっているだろうに、未だ残ってせっせと残業にいそしんでいるのか目的のビルのフロアには煌々と明かりが灯っている。
 路地に身を隠しながらも、ジハドは侵入の経路を導き出した。
 壁、ダクト、
皮の手袋とごついブーツを頼りに手と足をつっぱり、ビルとビルの間をゆっくりと登攀していき忍び込んでいく。
タロウから言われた容姿をもう一度頭に叩き込む。
意識し出すと止まらない汗に、手が滑らないようにと冷や汗を流しながら願った。
 ロッククライミングだな。ジハドはそう皮肉った。
命綱一本すらない状況で、地上90階建てから落下したらどうなるか。それはざくろの実を叩き付けるが如き容易な答えだ。
ずるっ……!
「!!!」
 止まらない。激しい摩擦が皮の手袋を蹂躙し、痛いのか熱いのか分からないほどの感覚が両手を襲った。
 落下が加速度的に促され、あと数秒でアスファルトと抱擁をするのが明白となったそのとき、
「お、俺はアホだ……」
 そこで気付く。夕澪が言っていたではないか。無差別高速移動が出来ると。ジハドは己を罵倒しつつ意識を集中させた。
 身体が軽くなっていくような感覚。彼は初めてこの世においてスーツを解除した。
ふわりと浮かび上がっていく無重力のようなこそばゆさ。肉体という束縛から解放された心地よさがしばし彼を昂揚感で満たす。
 アスファルトの地面の抱擁まで、僅か26センチ手前であった。
 冷や汗、脂汗、その他の諸々の汁を垂れ流しながらもジハドは目的のため、爆発的な勢いで急上昇を始める。
「ひゃっふーーーーーーっ! こりゃすげぇぜ!」
 子供のようにはしゃいで、ジハドはびゅんびゅんと宙空を駆け回った。急速に接近していく超高層ビル。それらを避ける事もなくジハドはそのまま突撃した。
 建物のすり抜けざまに、彼は見る。
残像が残るほどのキータッチをする、目が血走ったよれよれスーツのプログラマ。
苛立だし気に煙草をふかし、吸殻山盛りのバケツにマルボロメンソールをねじ込むハゲ。
書類を落とし、屈んで拾おうとする貧乳OLの開襟シャツから覗くブラチラ。
そして、わたわたと廊下を走っている複数の警備員の姿が。
「あれか? 偶然とはよくいうものだな。間違いない、タロウが言っていたサクヤとかいう少女だ」
 そして来た道を引き返し、ジハドはビルの中へ侵入した。

 ビルの八十七階。そこでジハドは立ち往生していた。彼女を見失ってしまったのだった。
 マテリアルスーツはあのまま解除しておいてある。見付からなさそうだし、なにより壁抜けができることが大きかった。
 どこかの部屋に侵入したのだろうか。とにかく、偉い偉い幹部殿がいそうな場所を手当たり次第に見て回る事とした。と、言ってもあまりこの階層の部屋数はない。
 探し回っている折、幾人かの人間とすれ違ったが、やはり思ったとおりジハドの姿は見えることはなく、過ぎ去り際に女性秘書の尻を撫でるという暴挙に出るもセクハラで訴えられる事はなかった。秘書の尻は、なんというか、空気のような感触であるなぁ、とジハドは女性に対する理解を一層深めたのであった。
 更に奥へ奥へと足を踏み入れる。その時、「……っ! ……!」とどこかでいがみ合うような声が遠く聞こえた。
 この場にいるにはあまりにも似つかわしくない少女の声。
 ジハドは声のしたほうの壁をなんなく通り抜け、高級そうな内装の室内、相対する二人の人間を見た。
 それはでっぷりと太り頭の薄くなった中年と、腰まである長い銀髪を垂らした色白の少女――サクヤだった。黒のライダースーツに身を包んだ彼女は細身のナイフを両手に構え、デブにさぁ襲いかからんと彼の動きを注視している。その姿は鬼気迫るものがあるといっても過言ではなかった。
 ハゲとサクヤ、彼我の距離は大股で三歩といったところか。
 ジハドは豪華な革張りのソファーに身を預け、リラックスしながらじっくりと観察することとした。自分の出る幕のタイミングを掴もうとしているのだ。うっかりスーツを装備して修羅場に出現し、少女からこの中年の仲間と思われるのは心外この上ない。
 あそこにあるブランデーが飲みたいなぁ、とジハドの高みの見物さながらな楽観さとは裏腹に、室内の緊縛した雰囲気は中年と少女へ鼓動の早鐘を打たせている。
 ナイフを逆手に持ち替えたサクヤが口を開いた。
「……外道には外道なりの末路がある事を思い知るといいわ」
「貴様ぁ、どこから侵入した! は、早くその物騒なものをどうにかしたまえ。警備員はもう呼んでいるんだぞ。抵抗は無駄だ」
 中年はそう言い、なけなしの威厳を見せるが、ちらつく銀の刃の前にそんな些末なものは吹き飛んでしまい、結果身動きの一つすら取る事はできなかった。
 その臆病な様子に哄笑するように口元を吊り上げ、じりじりと間を詰めるサクヤ。
「警備員? それがどうしたの。三分もあればあなたを殺して部屋に火をつける事が出来るわ。劣悪なリストはそれで灰となり、私や、罪もない多くの人々は大手を振って街を歩く事が出来るのよ。……書類を出しなさい。処分すれば命だけは助けてあげるわ」
「そ、そんなことが出来るわけないだろう。……そうだ、君だけはリストから外してやる。今起こっていることも不問にする。か、金もやるっ! だからやめてくれっ!」
 腰が抜けたのか床にへたり込み、中年はもうだめだとばかりに顔を手で覆った。彼の心中では無能な警備員め、と罵っているに違いない。
 そろそろ潮時かな。と、ジハドは腰に差したナイフに手をかけようとした。中年の命乞いは最後の一押しのつもりだっただろうが、それは逆効果だ。善悪のしっかりしていそうなこの少女ならば、金をやる、の一言でぶちぎれ一歩手前だろう。
 ジハドはソファーから立ち上がりマテリアルスーツを着て出現しようとするが、すかすか、といつまで経ってもナイフを探る右手が宙を彷徨う。
(あ、あれ?)
 しょうがない、と首を回して確認する。と、後ろの腰に確かに差していたはずのナイフは何処へとも知れず消えていた。
(もしかして……)
 思い出す。壁に手を差し入れたときの状況を。ひねり出す。秘書の尻に触ったときの感触を。
 つまり、
(マテリアルスーツを脱いだ瞬間に――落ちちゃった?)
 に、違いないのであった。青くなるジハドをよそに、事態は無情にも刻一刻と変化していく。
(やべぇ……っ! マジやべぇ……っ!)
 丸腰で出るより他はないのかといよいよ決意を固め胸を掻き抱いたとき、唐突に指先が下半身の硬いものに触れる。それは夕澪から手渡された、あの不思議な銃であった。
(何故、こいつだけはしっかりと手元に残っているんだ……?)
 唯一にして最大の疑問の答えをジハドは遂に導き出す事は出来ず、しかし武器はあるとそれだけを絶対に、募る不安を払拭した。
「……どこまでも腐ったその性根、私は絶対に許さないっ!」
 ナイフを振り上げ、中年を刺し殺すべくサクヤが突進しようとしたその刹那、ジハドはマテリアルスーツを纏い、肉のある姿となっていよいよ出現を果たす。
「な……!」
「だ、誰だお前はっ!」
 突然の闖入者に驚く二人。中年は顔を強張らせ、新たなる難敵にどう対処しようか戸惑っていた。既に諦めの色が濃かった。
 そして、少女の驚きはより一層顕著だった。硬直し、目を見開き、ナイフは取り落としていた。まるで、それは墓からよみがえった死者でも見るようなまなざしだった。
「逃げるぞっ!」
 サクヤの手首をつかんで場からの撤退を試みるジハドに対し、彼女は若干の抵抗を見せる。
「い、いや! 放して! まだリストを処理していない!」
「馬鹿か、警備員が押し寄せてるのは本当だ! 早くしないと脱出できなくなる!」
 それでもなお押し合いを続ける二人に、かちりという冷徹な響きが彼らの動きを止めさせた。這いずってデスクから出した銃をサクヤへと向けながら、中年は肥えきって締まらない口で、くだらない愚痴をのたまった。
「……ふざけるのも大概にしたまえよ。浮かれ騒ぐ愚民の掻き入れ時で忙しいってときにな、余計な面倒をかけさせてくれたものだ。おまえたち、ただで済むと思うな。死刑だ。死刑だぞ。我々に刃向かう者はその場での実力行使が――」
「ぐちゃぐちゃうるせぇな」
 ばんばんっ、とジハドは手にした銃を二度放った。弾丸は予想違わずの威力を見せつけ床は爆砕し、崩落した瓦礫にのまれて彼は落ちていった。絶叫が木霊した。
「な、なんなのよその銃……」
「俺が知るか。それよりも脱出だ。仲間が首を長くしてるぞ」
 返事を待たずしてジハドは嫌がる彼女を無理矢理抱きかかえた。扉を蹴破り、退路を見据える。面倒な奴らの足音が、すぐそこまで迫っていた。
 彼はどこまでも終わりの見えない不夜城、その城門を求めがむしゃらに駆けていった。


 執務取締部部長室の一角、到着した二人の黒服の警備員が膝に手をつき息を切らせながら惨憺たる有様と化した室内を見渡していた。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……ぐ、ぐぞぉ。取り逃がした……」
 青髪のピアスをはめた若者が汗をだらだらと垂らしながら言い、ガリガリの緑髪が同意するようにビロードの絨毯へごろんと仰向けに倒れこんだ。
「げ、げほっ……。まったくだ、殴り込みに来るなんていい度胸してるよな」
 そんな中、遅れながらも一人悠々と追いついた赤髪が運動不足の同僚たちに向き直り、辛らつに彼らをなじった。
「お前ら気合いが足りんぞ。日々の鍛錬がしっかりしていれば逃がさずに済んだのだ。この愚か者どもめが」
「今まで爆睡してたお前が言える台詞かっ!」
「そうだそうだ! しかものこのこ俺たちのケツについてきやがって。先回りするくらいの知恵もないのか、この筋肉馬鹿!」
「き、筋肉馬鹿だと! 貴様、それが先輩に対する口の聞き方か!」
 髪の色と同じくらい顔を真っ赤にする筋肉馬鹿に対して、クールな青髪がさらりと返した。
「たった一日早く仕事に就いてたからっていい気になるなよな。所詮お前も俺らも同じ同期、掃除のおばちゃんにも冷めた目で見られる雑用係なんだからな」
「なんだと! では俺たちのしている仕事は何だっ。社会に仇なす不届き者を処罰する崇高な仕事ではなかったのか」
 ぼそり、と緑髪が呟いた。
「……昨日は側溝のどぶさらいだったし、その前の日は所長の銅像磨き」
「そう、まさに雑用係なのだ」
「ぐ……。で、では俺たちは何故ここにいる……」
 茶番のような侵入者との追いかけっこに一抹の虚しさを覚える赤髪。
「仕事が欲しかっただけじゃねぇの? いつまでも親の脛かじってられないし」
「そうそう。無職で引きこもりで童貞な俺らが楽して入れるのなんて滅多になかったしな」
『………』
 童貞は余計だと、緑髪のまさに図星を射た発言に黙り込む二人だった。
「おい」
 青髪が誰にともなく言う。
「なんだ」
「俺や~めた。だってだるいんだもん」
「あ、じゃあ俺もやめる。給料なかなか上がらないし、制服ダサいし」
「お、おい……」
「お前は残るんだよな。だって社会に仇なす不届き者を処罰する崇高な仕事に誇りをもってるんだろ?」
「そ、そんなこと言ってな――」
「そうだ残っちゃいなよ。一人でやれば一人前、二人でやれば半人前、三人でやればなんとやらだ。お前だけならきっと上手くやれるさ」
「ちょ、ちょっと待てよ――」
 すたすたと大仰な名前のついた部屋から出て行く青髪と緑髪。迷いに迷い、彼らの後姿が豆粒のように小さくなってようやく赤髪は動き出した。
「待てよぉーーっ! 俺を置いていくなよぉーーっ! 一人は寂しいんだよぉーーっ!」
 そして誰もいなくなった八十七階。粉々に砕けた己の端末を、階下のリーマンが呆然としながら眺めていた。


     ※

「……いい加減降ろしてよ」
 暴れないようにときつく抱きかかえていた彼女が、ジハドへ痛いとばかりに抗議した。
 無言で立ち止まり、彼は後ろを振り返る。そびえたつ巨塔は彼方へ遠のき、安全圏へ無事逃げおおせた事にジハドは安堵の溜め息を漏らした。
「あぁ、悪かったな」
 そっと彼はサクヤを下へ降ろし、たんっと、踏みしめるように彼女は姿勢よくアスファルトに立った。
「久しぶりね、ジハド」
「えっ……?」
 俺はお前なんか――そう言いかけ、自分は彼女らの依頼人でしばらく消息を断っていたから久しぶりといったのだろうとジハドは思いなおした。
 すまなかった。詫び程度に軽く弁解をしようとしたジハドに、しかし少女は涙ぐみ、ひしっと強く彼に抱きついた。
「ばかっ! どれほど私が心配したと思ってるのよ。平然とした顔で帰ってきて、一週間も行方をくらませて、私、私あなたが死んじゃったのかと――」
 それより後はもう言葉にならなかった。ジハドは困惑するばかりで、自分の胸の中で嗚咽する彼女をもてあますことしかできない。
「お、おい。たかが一週間なんだろ? そんな大袈裟になることはないだろう」
「……ばか。……ほんとにばか。銃で撃たれて、あの冷たい雨の中、よく死なないで……」
「………」
「私は懸命に探したわ。でも追い回す黒服たちの追跡を振り切ったとき、そこにいるはずのあなたはもうそこにはいなかった。死んで、死体が処理されたのかと諦めかけていたのよ。……生きていて、本当によかった」
 彼女の腕の中は温かく、慈しみに溢れていた。少し口は悪いかもしれない。だが、それは彼女が虚勢を張っているうちに自然と身に付いた処世術に過ぎない事なのだとジハドは感じた。
「信じられない話かもしれない。けど、俺は確かに死んでいるんだ。生きている人間じゃないんだよ」
 彼女をはっきりと思い描けない。うまく伝えられない。そのもどかしさに苛立ちながら、ジハドはそれでもこのサクヤという少女と生前浅くはない関係にあるのは理解できた。だから、言葉は拙くても正直にありのままを話した。
「……うそばっかり」
 今は信じてくれなくてもいい。そう、心の中でジハドは吐露した。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

緋色の弾丸 その5

分割その5です。

閲覧数:36

投稿日:2010/06/09 03:35:55

文字数:5,941文字

カテゴリ:小説

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