「雨は嫌いです」
白いため息が宙に溶けて、私は少しだけ視線を降ろした。
ガラガラガシャン、と騒がしい音が、そこからしばらく続いた。
1杯の缶コーヒーと880円の釣銭のはずだが、その音から察するに釣銭にはおそらく500円玉も50円玉も含まれていないだろう。
その場にしゃがみ、右手で探ってみて、その予想は当たりだと知る。
「……ツイてない」
「おいおい、お前の金みたいに言うなよ」
左隣で先輩が喚く。私は16枚の硬貨を一気に片手で握り締め、その人に向かってパンチを寸止めするみたいにして突き出した。
特に驚きもせず、先輩は私の拳の下に手の平を開いてお金を受け取る。
「……ありがとうございます」
「どういたしました。あちゃー、財布が閉まんね」
言いながら、それでもそんな事はどうでもいいらしく、先輩は自分のジーンズのポケットに膨らんだ折り畳みの財布をねじ込んだ。
「どうしておごってくれたりなんかするんですか?」
コーヒーを取るために再び腰を落としながら訊いた。
「飲みたそうな顔してたからさ」
「私だってお金持ってますよ」
「おおそうか、失礼したな」
もちろん、本当の理由なんて口には出さない。先輩はそういう人間だ。私はそれを知っているし、先輩も多分私がそう思っている事を分かっている。
ちなみに私の財布は、プリーツスカートの右ポケットに入っているのだが。
「お金、返しませんからね? ……あれ……え、嘘」
「いかがいたした?」
「……温かくない」
36度くらいだな、と思う。手の平が、熱いとも冷たいとも言わない。
「缶に書いてあるじゃないか。『いれたて』だって」
「『煎れたて』でしょう? 自販機に『入れたて』じゃ困ります。こんなの飲んだら逆にお腹壊すかも」
「じゃー俺にくれ」
「先輩もうすぐセンター試験でしょ。お腹壊してる場合じゃないですよ」
「いつだってお腹壊したい奴なんかいるかよ。持って帰るんだ。ほら、もう120円やるから別の買えよ」
私が持っていた缶を取り上げてから、先輩はまた財布を引っ張り出して小銭を渡してくれた。
「……ありがとうございます。お金、返しませんからね?」
「しつこいな。そんなケチじゃねぇよ」
「あはは。分かってますよ、と」
ガタン、と落ちてきたホットココア。今度はちゃんと温かい、というか、とても熱い。
「わ、……わっ!」私は片手でお手玉をするみたいにして慌てた。「へい、パス」と先輩が言うので、とっさに先輩目掛けて缶を投げる。
このくらい我慢しろよ、とか言いながら結局彼はココアのフタを開けてくれた。
「ホント大変だなぁ。人事だから言えるけど。そう言えばお前、部活辞めてもう半年か。気をつけないと筋肉脂肪に変わるぞ」
そう言って先輩は、私の左側に目を逸らし、何も無い空間を眺めながら缶を差し出す。
私はセーターの右袖を唇で引っ張り、手の平を布に隠して熱々のそのココアを受け取った。
セーターを通しても、やっぱり少し熱い。
「余計なお世話です。もともとそんなに筋肉付けてませんし、たまに走ってますし。すごく走りにくいんですけどね」
「へぇ、やっぱり考えてんの、復帰」
ずず、とココアをすすりながら、先輩の目を見つめる。
「復帰じゃないです。新しい事だから、挑戦……かな」
「そか。……お前はスゲーよ。やっぱエースだわ」
「エースは昔の話です」
「そうかい。……さ、そろそろ帰ろうぜ、雨これから強くなるらしいぞ」
先輩は黒っぽい大きな傘を広げて言う。もう誰もいない夜の高校の渡り廊下。
「入れてってくれるんですか?」
「ココア熱くて一気に飲めないんだろ?」
「…………、ふん」
雨は嫌いだ。傘をさすと手が塞がってしまうから。
でも今日は、感謝した。
先輩と一つの傘で一緒に歩ける。
左腕を失っても、悪いことばかりじゃないなと思った。
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