世界と貴方を天秤にかけたのよ。
<造花の薔薇.7>
私の心は日毎に擦り減っていった。
これ以上付け入る隙を見せてはいけない。誰が私を陥れようとしているのかわからないのだから。
でも疑うべき人は余りに多い。
あの人もそうかもしれない。あの人も、あの人も。
結果として、私は完全に疑心暗鬼に捕われてしまった。
全てのものが怖くて堪らなかった。
―――やめて。
―――もう、嫌…!
そう呟いて一人部屋で体を抱えて震えていることだってあった。
ひとりで耐えていればいずれ限界がくることは分かっていた。
でも、誰に頼れるというのだろう。もしも寄り掛かった相手が背後から心を切り裂いてきたら守るものなんてないのだ。
それだけの信頼に値する人なんて―――
―――いない、訳じゃない。
一人だけ、絶対に信頼できる人がいる。彼は絶対に私を裏切ったりしない。
いや、彼にならば裏切られたって構わない。
『…レン』
この数年で、何度呼んだかわからない名前を唇に乗せる。
助けてほしい、と思う。
でも、助けに来て欲しくない。
彼にだけはこんな世界に来て欲しくない。
レンは、ごく普通の少年として幸せな人生を生きればいい。私のことなんて忘れてしまっていい。
大切な人を見つけ、周りの人に愛されて一生を送ればいい。
こんな、もがいてももがいても這い出せないような悪意の中になんて、間違っても堕ちてはいけないのだ。
私は心からそう思った。
だってあの日、お父様に王になりたいと告げた日、決めたのだから。
レンを犠牲にすることだけは、絶対に阻止するのだと。
それは私の心を支える柱。彼さえ無事ならば、私は平気。
それでも、彼等はその思いさえも打ち砕いた。
『……なんですって!?』
手にしていた扇子が絨毯に落ちる。
分かってはいたけれど、そちらに注意を払う気にはなれなかった。
信じられない―――信じたくない、そんなあまりにも慣れ切ってしまった感覚。でも今回ばかりはすんなりと通してしまうわけにはいかなかった。
何故なら。
『レンを召使として召し抱える!?何故そんなことになったの!?』
『何故と申されましても、レン様の方から希望が来たようで』
『だからと言って!』
声を荒げ、ウィリアムに詰め寄る。
いつもと変わらないその顔が、今はただいらだたしい。
『私になんの相談もなくレンを採用するなんてどういう事なの!?』
『おや、今までも使用人の雇用に関してはリン様の関与は無かったと思いますが』
『…ッ!』
ぐっ、と言葉に詰まる。
まさにその通り。今まで私は関与して来なかった。だから相談しなかった、その言い分は筋が通っている。
更にウィリアムは言葉を重ねた。
『それに今の王宮では人手が足りているとは言い難い状況です。それなのに特に難の無い志願者を拒否したとあっては、採用に関わった者達に不審の念を抱かせかねません』
そうかもしれない。
―――その時、言い返せない私の脳の奥で囁くものがあった。
不審の念?つまりそれを持たせなければ全ては解決するのね?
なら、事は簡単。
採用・不採用を知り得ない身にしてしまえばいい。
『それなら彼等を切り捨ててしまえば良いわ』
口にしてからはっとした。
この考えは何?
私は今何を口にした?
この城に勤めている人は、その給金で生活を立てている人ばかり。
今の言葉は、そんな彼等の生活の源をあっさりと切り捨てることを意味した。
怖い。
自分が、怖い。
私はいつ、こんな事をこんな風に言えるようになってしまったの!?
『…ぁ、ち…ちが…!』
吃りながら切れ切れに否定の言葉を呟く私。
そんな私を見て、ウィリアムは、
笑った。
あの、仮面のような形骸化した笑顔で。
『畏まりました、リン様』
『!やめて!今のは』
『彼等は即刻解雇致します』
『待って!』
『貴女様のお心を煩わせは』
『―――聞きなさいっ!』
絶叫するように、言葉を叩き付ける。
流石にウィリアムも口を噤む。
それを確かめながら荒れた息を調え、改めて口を開いた。
『今のは失言です。無視しなさい。彼等に落ち度は何一つ無いわ』
睨むように見上げたその顔はやはり笑顔。
でも、その中に何か不穏なものを見たような気がしたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
ウィリアムは私の納得がいくように論理武装をしている。
そして私はそれに負ける。
―――まずは、私に権限を集めなければ。
彼を睨みながら、私は決意した。
今回のように、何かを決定するに際して私が蔑ろにされることがないようにしなければいけない。私の力が及ぶ限りは勝手をし難いようになればまた変わってくるはず。
それに、私の知らない所で行われた決定に関してだって取り消すなり手を加えるなり出来るかもしれない。
好きなようにさせるわけにはいかない。
今更かもしれない。でも、それでもきっと抵抗しないよりはまし―――そこまで考えてから、さっと密度を増した悪寒に頭が支配された。
―――でも彼等は私を脅した。レンの身の無事を考えるなら、やっぱり行動は起こせない。
そして、ここではじめて私は自分が何を天秤にかけているのか気付いた。
私は、この国の国民に対する責任とレンを秤にかけているのだ。
私が王女としての義務を果たそうとすれば、レンの命の保証は失われる。逆にレンを確実に助けようとすれば私は国民の生活に関する決定権を自ら放り捨てたことになる。
それは…私の立場を考えれば許されることではない。私がこうしてろくに働きもせず衣食住が保証されているのはその責任を果たすことを期待されているから。
ノヴレス・オブリージュ。
義務なのだ。
でも、もしもその二つを天秤にかけるなら。
レンを取らないなんて、できない。
『それでは、失礼致します』
考え込んでいた私は、あっさりと言われた言葉に慌てて顔を上げた。
まだ話は終わっていない。レンの採用を取り消させなければ。
『待っ―――…』
叫びかけた言葉は扉が閉まる音に掻き消された。
駆け寄ろうとしてドレスの裾に躓く。
毛足の長い絨毯のせいで床に倒れた痛みは殆ど感じなかった。
間髪入れずに起き上がろうとし―――目を見張る。
かたかた、と小刻みに震える腕。
そこには、私の上体を支え起こす力は無かった。
『…どこまで』
唇から言葉が零れる。
まるで怨詛のような、黒くてどろどろとした呻き。
だれも側にいないのを良い事に、私は言葉を続けた。
『どこまで弄べば…気が済むのよ!?』
ぎり、と絨毯から立つ毛足を握り締める。
ぶちぶちっ、と千切れる感触が指に伝わった。
『レンは関係ないでしょ!?あの子は幸せになるの!幸せになるのよ!』
そう、そうなるのだと信じて来た。
なのに、どうして…!
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