あましづく
「お兄さま、海はまだでせうかね」
いもうとは、幽かにひびはれた口唇を震はせて、さう云ひました。
うつすらと瞼をあげたいもうとのまなこは、吸ひこまれるほど暗く、其れを見た僕は、彼女の顏を眺めてゐることが急に恐ろしくなり、繋いだ手を、氣を紛らはすやうにしづかに握り返したのでした。
「お兄さま、海はまだでせうかね」
いもうとは、幽かにひびはれた口唇を震はせて、さう云ひました。
彼女の声音は、ひどく明るくて、僕は、嗚呼――と、嘆息しました。人は、今から死に往くとしても、そのやうに氣丈に言を紡げるものかと、心底感心したのです。
だから僕は、彼女の冷たい手を、しづかに握り返したのでした。海の底で、彼女と離ればなれになるのが、なんとも恐ろしく思へたのです。
――村南伊内・著 『あましづく』より抜粋。