変わりなんて一人もいない、沢山の仲間達。
かけがえのない大切な時間。
振り返れば傍にレンがいて、笑ってる。
いつも通りの優しく温かい笑顔を浮かべていた。
駆け寄ろうとしたけれど見えない壁に阻まれてそれ以上近付くことも出来ず、何度彼の名を呼んでもその距離は縮まることなく開いていく。
片手を挙げて、白い白い光の中へ吸い込まれていく。
行って、しまう。
遠くへ。
手を伸ばしても届かない場所へ。
目を覚ましてからの一ヶ月は早かった。
結論から言えば、手術は成功し、拒否反応も出なかった。
レンにはリハビリも終えて動ける状態になってから会おうと思っていたから、それまでは彼には悪いけれど会うつもりはなかった。
レンはきっと驚いて、それから安心した顔で笑うだろう。良かったと、言ってくれるだろう。
会わない間何処に連れて行こうか悩んでいるのかもしれない。彼は色んな店を知っていそうだから、きっと選ぶのが大変だろう。どんな店を教えてくれるんだろう。レンは、どんな店が好きなんだろう。期待に心を躍らせながら、リハビリをしていた。
元々母親は見舞いには来ない人だったから、その分レンに会って早く驚いた顔を見たい。母が見舞いに来ないのは、決して冷たい人だからじゃなく、生まれた時に既に父を亡くしていたから稼ぎ手が少なく裕福な家庭ではなかった。それなのにリンを長い期間入院させているにはとても無理をしただろう。今、同室の住人は皆退院していたり、外出してしまっていて一人きり。レンが来
るようになって、最初のうちはそうする理由がわからず首を傾げるばかりだったが、いつしかそれが当たり前になっていた。
今は、レンと一緒に母の喜ぶ顔を見にいきたいと思っている。
死ぬわけにはいかない。レンとの約束を果たすためにも。
動けるようになってからレンの病室を知らないことに気付いたけれど、そのうち来てくれるだろうと待っていたが退院が決まり、ついにレンは顔を出さなかった。
病院の出口の前で深呼吸をすると冷たい空気が身体に沁みる。
空は青く澄んで透明な風は白い雲を流し、葉の落ちた木々を揺らしていた。
退院出来ることの喜びはあったが、レンは病院内だけの付き合いでいたかったのだろうかという不安が混ざって素直に喜べない。
風に吹かれ乱れた髪を耳に掛けて空を見上げていると、神威がリンの後ろで白衣をはためかせながら立ち止まる。
―――トクン、
規則正しく打つ心臓。
見送りに来てくれた神威を振り返って見上げ、喉にひっかかった疑問を口にした。
「レンはまだ寝てますか?」
神威が息を呑んだのがわかる。
そうする理由がわからず、胸騒ぎがしていないと知りながら辺りを見回しレンを探した。
―――トクン、
緊張する。
何故。何で。緊張する理由なんて、ない。そう、ないのだ。一つも。カケラも、ない、はず。なのに、なんで。
これだけ緊張しているというのに、落ち着けと言わんばかりに心臓は規則正しく脈打つ。
―――トクン、
いつもレンが眠っている病室に行きたかった。が、知らなかった。
レンはいつも、来てくれたから。
行く必要なんて、なかった。今すぐにでも彼のところへ行って寝顔を見れば、先程とは意味の変わった不安は取り払われるというのに。初めて病室を聞かなかったことを後悔した。
「―――死んだよ」
眉を寄せ瞼を閉じた神威が、どんな想いで告げたのかさえ察することも出来ない。
なんで、レンが、死んだ。いや、違う。だってレンは、死なない。
死なないのだ。だから、違う。聞き間違えだ。死ぬはずが、ないのだ。
だってレンと約束した。退院したら一緒に買い物に行こうと。それでもきっとレンの方が長生きをするのだから、その時はレンは生きた証になってと。願った。
じゃり、と足元で踏みつけた小石とアスファルトが擦れた音に耳を傾ける余裕などない。
―――トクン、
「なん、で…?」
一度目を閉じ、覚悟を決めたかのように真っ直ぐに見据えられる。アメシストの瞳が、苦しくなる程澄んでいた。
「彼が望んだことだから」
望んだ、って、何を。
気が遠くなるような――実際は短かったのかもしれなかったが体感時間はとてつもなく長かった―――静寂の後、先に音を出したのは神威だった。
白衣のポケットに突っ込んでいた手を、何かと共に出した。
白い紙と、可愛くラッピングされたちいさな袋。
白い紙は封筒のようだ。
「レンから、君に渡してほしいと頼まれてたんだ」
震える手でそれらを受け取って、封筒を開けることにすら勇気が要った。手紙を読むことに勇気など、いらないはずだ。否、違う。読むことに勇気がいる手紙など必要無かった。
しかし今、目の前にそれが存在している。
―――トクン、
これほど動揺しているというのに、落ち着いたままの心臓を無視し中身を確認すると、ただ一言だけ彼の文字があった。
説明もなにもないせいで何に対しての言葉なのかはわからなかったし、知るのが怖くもあったが聞かなければいけないこともわかっていた。
レンに何があったのか、今何処にいるのか、全てを。
手紙を持つ手がカタカタと震えていた。
「教えて、下さい」
「…あいつには、戸籍がない」
戸籍もなく、人権もない。小さく呟いた神威を見ながら、めまいを感じた。
「な、んで…」
「レンはあの病気が発覚した二年後に病死したことになってたんだ」
信じられなかった。信じたくなかっただけなのかもしれない。戸籍から消されても尚、生き続けた男であったという事実を。
「レンは身体の一部…生きる為には絶対に必要であるものが一つ欠ければ、確実に死ぬことを知っていた」
「身体の一部…?」
「ああ」
―――トクン、
「いつかこうなることがわかっていたらしい。此方としては好都合だったから、その為にずっと居させた」
まさか。いや違う。そんなわけがない。だって、そうだ。生きた人間からの摘出は、禁じられている。禁じられているのだ。しかし、レン、は?
「まさか…」
「その心臓は、元はレンのものだよ」
―――トク、ン…
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘に決まっている。そんなはずがない。違う。だってレンは言ったんだ。一緒に色んな場所に行ってくれるって。手術が成功して拒否反応も出なかったら、色んな場所に連れて行ってくれるって。
『成功率も半分しかないし、拒否反応出るかもしれないけど』
『大丈夫だよ、出ない』
あの時断言したのは、何故だろう。勘違いしていた。きっと安心させるためだけじゃない。そう、きっとわかっていたのだ。レンの心臓が、レンが、拒否するはずがないと。
リンが拒否しない限り、レンは拒絶などしないと。
『生きて、リン』
あのとき聴こえたレンの声が今もまだ耳に残っている。
「レ、ン?」
胸に手をあて、ただ、彼の名を。
―――トクン、
レン。
レン、レン、レン、レン、レン。嫌だ。会いたい。
こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ。
彼はあの時、どんな気持ちだった?
リンが生きていられるかもしれないと云う時レンは確実な死を目前に、リンのために喜んでくれた。
レンはあの時、どんな気持ちで約束を交したのだろう。
「な、んで…」
麻酔による眠りに堕ちる直前レンが近くにいたことは確かであるが、考えてみればおかしいことだった。
二十日に一度しか起きないはずなのに、最後に会ってから其れほど日数が経たないうちに目を醒ましていたこと。手術室の中に彼が居たこと。
あれが、レンとの最期の挨拶だったということになる。
考えてみれば、レンと神威がよく話していたのはもしかしたら移植のことだったのかもしれない。
どうして彼はいつもいつも人のことを考えて自分のことを後回しにするのだろう。
生きろ、なんて言われて、遺された者がどんな気持ちに…―――ああ、レンに同じことを言っていたのか。
ごめん、ね。レン。
―――トクン、
でも。
レンには生きて欲しかった。
出来るなら、一緒に生きていたかった。
好都合だからとこの病院で入院したレンは、どんな想いだったのだろう。
自分とは違い死に逝く命を見つめなければならなかった彼は、どんな想いでリンを見ていたのだろう。
私は生きるために、少しでも永く生きるために病院にいたけれど、レンは違った。誰かに内蔵を提供するために、死ぬために入院していたのだ。
残ったもう一つの包みを開けてみると白いリボンのようなものが入っていた。といっても中にハリガネが入っていて頭上で捻って止めるタイプのものだ。カチューシャやヘアバンドに近いだろう。
「一緒に買い物に行けない代わりだそうだ」
「―――っ」
手紙ごとくしゃりと震える身体を抱き締めると涙の波が胸の奥から沸き上がり、瞳に膜を張らせるが流さないよう堪えた。
レンは私が泣く事を望んだわけじゃない。
―――トクン、
「…レン」
カサ、と握り締めていた手紙を開いて見つめる。
きっとこの手紙が無ければこんな考えは持てなかった。いつまでも引きずり後悔し謝り続けただろう。
『ありがとう』
それは此方の台詞だ、と苦笑した。
死にたがりの君と生きたがる僕。【5】
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