自分は案外酷い事が出来る人間なんだな。と、目の前でうなだれる男に視線をやりながら思った。
 今まで恋人だった男。長い時を一緒に過ごした肌を重ね吐息を交わした、男。
 何がきっかけで、この男に対する熱が消えてしまったのか、良く分からない。川の流れがゆっくりと長い時間をかけて、進む方向を変えていくように、古い遺跡が長い時間をかけてゆっくりと、その輪郭の端から粉々と崩れ落ちていくように。そうやって気がつくと、手には何も残っていない。あるのは丁寧に糸を紡ぎ織り上げていた筈の、美しい織物のほんの切れ端だけ。
 ゆらり揺れるように男が手を伸ばし、女の手に触れてきた。邪険に振り払うほどの嫌悪感は無いけれど、触れられても何の喜びも沸かない。
 触れ合うだけで、皮膚一枚下で滾るように踊っていた、あの感情はどこにもない。
 ごめんなさい。
 謝っても何の足しにもならない事は知っている。それでも思わず口をついた謝罪の言葉は、男の表情を更に苦しげに歪めただけ。
 熱が消えてしまったきっかけは分からないけれど、淡い月光のような炎が灯った瞬間の事は、女はよく覚えていた。
 二人で食事をする約束をした時だった。友人を介して男と出会ったばかりの頃の話。夜、丁度二人の予定があって、一緒に食事を取ろうと言う話になった。
 仕事帰りに待ち合わせ。急な話で服も靴も鞄も、女はいつもと同じ平凡なものしか身につけていなかった。出会って数回しか会っていなかった男にそれでも好感を既に持っていた女は、せめて化粧はきちんと直していこう、と鏡に向かった。
 おしろいを薄く肌に馴染ませて。食事の邪魔にならない程度に口紅を直して。長い髪はかしこまり過ぎない程度に綺麗に整えて。
 そっと珊瑚色の頬紅をその頬に乗せようとして。微かに緩んだ、愚かにも可愛らしい笑みを浮かべた自分に気がついて。その瞬間、女は、ああ、自分はあのひとに恋をしているのだ。と気がついた。
 これから会う約束をしているだけで、たったそれだけで、笑みがこぼれおちてしまった、あの瞬間の事はよく覚えている。
 それがいまではどうだろう。と女は未だに男に触れられたままの自分の手を見つめながらため息をついた。隠すことなく落とされたその苛立ちの吐息に、男が顔を歪めたまま女を見つめてきた。
 いつも穏やかに、全てを許容するようなひかりを湛えていた筈の男の眼差しが、今、卑屈なまでにおどおどと頼りなく揺らいでいる。そんな目で見つめられても、気持ちは変わらない。と女は心の中で冷たくつぶやいた。
「好きな人が、出来たわけではないのだろう?」
「ええ。」
「じゃあなぜ、別れる必要がある?」
「愛していないのに、恋人で居る理由は何?」
男の縋りつくような言葉を、女はばっさりと切り落とした。
「もう、愛していないのよ。」
そう確認するように言うと、男は、悲しみというよりも悔しさを堪えるように、きり、と唇をかんだ。
「それで、俺と別れて君はどうするんだ?」
「別に、どうもしない。いつも通り過ごすだけよ。」
なぜ、そんな事を聞くのか分からず首をかしげながら女がそう言うと、男は、寂しくはならないのか?と吐き捨てるように男は言った。
「君は、俺がいなくても寂しくないのか?悲しくならないのか?ああでもそうだよな、寂しくなんかならないよな。君は、そうだった。そういう人だった。」
気持ちを整理しようとしているのか、男はほとんど独り言のような言葉をぼそぼそと紡いでいく。自嘲の混ざった、返事を求めない言葉に女は微かに俯いた。
 ええ、そういう人だったのよ私は。
 心の中で突き放すようにそう返事をした。男が求めていない返事を口に出さないのは、これはまだ愛情が少し残っているからだろうか。それとも、同情というものだろうか。
 男は、女と一緒に行動をしたがった。一緒にいることを求めた。同じものを共有する事を望んだ。同じように感じる事を欲した。
 女は、別にずっと一緒でなくても良かった。同じ事を感じなくても良かった。別に違っても良かった。違う方が良かった。男と同じものになりたいわけではなかった。
 ただ、傍に寄り添ってくれるだけでよかった。
 好きだったはずなのに。同じ方向を向いていない恋愛は、ただ息苦しいだけだった。
「そろそろ、帰ってくれない?明日、早いの。」
そう女が素っ気なく言うと、男は更に恨みがましい目で女を睨みつけた。
 別に恨んでもいい。それであなたの気が済むのならば。好きだった女を憎むことで、納得がつくのならば、好きなだけ恨めばいい。
 自分は、恨む事も出来ない。恨むほどにあなたの事を強く思っているわけではないから。なんて薄情な女だろう。そう思ったら馬鹿馬鹿しい様な可笑しい様な、そんな心もちになった。そう思ったら、自然と女の口の端に笑みが浮かんだ。
 微かに、ほんの微かに浮かんだ女の笑みに、男は眩しそうな視線を寄こしてきた。
「その顔。」
「え?」
そう言いながら男は微かに眉を寄せて女を睨みつけた。
「いま、少し笑っただろ?その表情。悔しいけど、綺麗だと思った、今。」
まるで月光が作る藍色の影のような、くっきりとした負の輪郭を宿した男のその眼差しは、女にとって初めて見るものだった。
 そして、そんな顔をした男が綺麗だと、女は不意に思った。
 女が、自分と同じ思いを抱いた事に気がついたのだろう、ふと男は微かに瞳を見開き、そして苦笑した。
「残念だ。」
「残念ね。」
女も苦笑を浮かべて、そう答えた。
 きり、と女の白い肌の上に痛みが走った。
 男の白の爪が、女の白い肌をひっかいたのだ。白い爪が白い肌を薄く切り裂き現われたのは赤い痕。
「こういう場合、ふつう、女がひっかくものじゃない?」
「君は俺以上に男性的だから、丁度良い。」
何がちょうどいいのよ。と女が笑うと、男も笑う。
 それじゃあ。と女に爪の痕を残し、男は部屋から出ていった。

 女だけが残った部屋の中、ぽかりと窓の外には淡い光を湛えた月が在った。からりと窓を開けてみると、夜の、水の気配が濃い空気がゆるりと女の体を包む。夜の湿度をはらんだ空気はひとりきりの肌に心地よく馴染んだ。ベランダに置いてあるプランターが月光を浴びて、淡い藍の影を地に落としていた。その影の中に、先ほど男が見せた今まで見た事のなかったあの眼差しを見つけてしまって、女は微かな焦燥感を感じた。
 自分で手放したくせに。もういらないと捨てたくせに。捨てたとたんにやっぱりもったいなかったかな。なんて思ってしまう。なんて欲深い。
 ちりちりと白い肌の上に走る赤い痕が、疼く。
 傷つけられたから、痛いのか。それとも傷つけたから、痛いのか。そんな事は分からないし、知らない。知りたくもない。
 しばらく一人で居る事を選んだのは、自分だ。そう思いながら女は開けた窓の外をぼんやりと眺めた。
 夜の闇は、月の光に一枚また一枚とはがされて、落ちて、あちらこちらの物陰に藍の影となって寄り添い固まっていた。白の淡い月光は、けれどすべてを照らしだすには儚く弱く、その頼りなさにめまいを起こしそうになる。
 明日は来るのだろうか、私はこのまま月の光に照らされたまま、ここから抜け出せないのではないだろうか。そんなことをぼんやりと思い浮かべ、けれど、その、まるで思春期の少女の様な思考に女は苦笑した。
 緩やかな穏やかな、夜は永遠に続く事は無い。新たな朝はいつか必ずやってくる。極彩色の世界が陽のひかりに照らされる日は、もしかしたら明日かもしれないのだから。
 す、と女はその白く細い腕を窓の外に伸ばした。女はまるで夜をはがすように、一筋赤い痕の残るその手を、白い月が浮かぶ夜の空へと伸ばした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

月光の底~月光食堂itikuraRemix~

市蔵さんが、月光食堂のリミックスをしているのを聴いて、わー!!となって書きました。
だから、わー!となりすぎだろう。

市蔵さんのリミックスは、ルカさんだからか、ほんの少しだけ殺伐としていて境界線がはっきりとしている感じで、こんな話になりました。
そんな感じの恋愛終期の話です。
大人っぽい雰囲気なのかな?と思いつつ書いたのですが、ちゃんと大人っぽくなっているのだろうか?
以前書いた、JBFの春来る別離と、なんだか雰囲気がかぶっていますね(笑)
こういう場面で、私が書く男は弱くなってしまうのは、私自身がやっぱり女子だからかな。男には辛口採点で、女に味方をしたいのかもな~。

続けて投稿する作品は、ぬーさんの月光食堂のイメージなのですが、この二つの曲の違いをうまく出せているかはわからないですが(笑)

それではお読みいただき、ありがとうございました!

原曲様・市蔵さん
月光食堂itikuraRemix
http://piapro.jp/content/tr3ecujyhtpl4rnm

閲覧数:256

投稿日:2011/01/09 15:22:03

文字数:3,183文字

カテゴリ:小説

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  • 時給310円

    時給310円

    ご意見・ご感想

    こんばんは、敢えてこちらにコメ付けます。
    何と言えば良いのか……すごく生々しい話に仕上がってますね(誉め言葉)。
    原曲の方を聞いたことがなかったので、これを機に原曲もリミックスも聞かせて頂きました。原曲版の方は原曲の雰囲気に、リミックスの方はリミックスの雰囲気にノベライズされていると思います。
    しかし原曲を聞いてこの小説を読むと、ものすごい違和感を感じるのはどうしたことかww
    あの宮沢賢治の世界のような原曲からこんな殺伐とした話が出来上がるとは、ぬーさんも予想だにしなかった事でしょう。そう考えると、リミックスって面白いですよね。

    それにしても、こういう話は僕には書けないなぁ……。(´・ω・`)
    仮に書こうと思ってもイメージが膨らむ気がまったくしないし、書くのもすごくしんどそうですし。
    自分にないものを持っているsunny_mさんに嫉妬です。妬ましい妬ましいw

    ところで、新年のご挨拶がまだでしたよね!
    あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。そして次回作も楽しみに待たせて頂きます!

    2011/01/10 21:40:21

    • sunny_m

      sunny_m

      >時給310円さん
      読んでいただきありがとうございます!
      そしてあけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします!

      生々しいですか?。
      いや、書いてる本人の私生活にこんな展開は起こった試しがないですよ(笑)
      書いている内容だったり人物の考え方は納得しているけど、私自身のとはちょっと違うので、だからこそ私の場合こういうのが書けるのかもしれないです。
      それにしても、嫉妬されちゃいましたか?w
      と笑いつつ、いやむしろ私の方が時給さんに嫉妬する場面の方が多いと思う!とPC前で叫びそうになった今現在です。

      そして、確かにこっちの話で原曲様を聴くとものすごい違和感だwww
      書いた本人が一番びっくりしてるよこれwww
      ちょっと改めて市蔵さんリミックスの凄さを知りました。

      それでは、読んでいただきありがとうございました!

      2011/01/11 23:00:56

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