<You and beautiful world > 







いつもと変わらない日常。
いつもと変わらない風景。

そんな変哲もない毎日の中に、私の耳に届いていたのは、微かなピアノの音だった。

ただ見上げるだけの音楽室からは、綺麗な音色が流れてきて。
私はその音楽室の下で足を止めていた。

風と共に感じるその音は心地がよかった。
誰も気がつこうとしないその音に、私はただ一人聞き入った。


楽しそうだったり、悲しそうだったり。
突き抜ける様に激しかったり、小鳥がさえずる様にやさしかったり。
その音はあらゆる色を見せた。




音楽室の下で止まっていた私の足は、自然と音楽室の前まで向かっていた。
風に乗ってやってくる微かな音ではなく、はっきりとしたその音色を、もっと近くで聞きたかった。


人気のない廊下に、綺麗なピアノの音が広がっていた。
その音色に引き寄せられるように、私は音楽室の前でその音を聞いた。

ただ、その一枚の扉だけは開けなかった。
綺麗な音の溢れるその空間を、乱してはいけないような気がした。


音楽室の前でうずくまってただ音を聞いていた。
視界から何もかもを取り去れば、ただその綺麗な音色だけが私の中に溢れた。

いつの間にか、その音を口ずさんでいることにさえ気がつかないくらい、ただその音に聞き入っていた。



「どうしてこんなところにいるの?」


突然降ってきた声に、私は慌てて顔を上げた。
いつの間にか音は消えていて、代わりに音楽室の中から彼が顔を出していた。

「ピアノを聴きに」
「………そう」

私の答えに彼は興味がなさそうに教室の中に帰っていく。
何もなかったように彼がまたピアノを弾き始めて、やっと私は分かった。


この人がこの音色を奏でているんだ、と。



開けられたままの扉は、中に入ってもいいと言っているような気がして。
私は音楽室に足を踏み入れた。



教室の中に溢れているのは、彼が弾くピアノの音色。
埋め尽くされるほどの音の色に、ピアノを弾く彼の姿に、私は涙が止まらなかった。

ピアノを奏でるあなたの横顔。
彼の手によって生み出される音。

なぜ彼は一人なのだろうと思ってしまった。
なぜこんなところにこの音は押し込まれているのだと。

一人でこの音を弾き続けないでほしい。
そう思って、私は彼の近くに歩みを進めた。

これが、私と彼の、最初の出会いだった。






彼は、ただピアノを弾くだけだった。
私の存在なんて気にしていないように、ただあらゆる音を奏でる。
彼の中にある感情をそのまま表したようなその音は、どこか寂しそうだった。
それは今の彼の姿そのものだった。

誰かを拒みはしないが、受け入れもしないその横顔。
寂しいなんて言葉では言い表せない。

一人ぼっちなんだ

そう感じたのは、ここに足を運び出してそんなに時間がたたないころだった。

どうして一人なの、なんて聞けなかった。
そんなことを聞いていいほど、私は彼を知らない。
このピアノを弾いている姿しか。



私は彼の隣にそっと腰掛けた。
邪魔にならないように少しだけ離れて。

彼の手によって生み出される音たちを、間近で見た。

綺麗だった。

あの音は。
風とともに私に降り注いでいたこの音は、こんなに近くで聞くととても綺麗で。

寂しそうだった。


声は自然と紡ぎ出されていた。
彼の奏でる音に、私はいつの間にか声を乗せていた。

突然止まった彼のピアノに、私はやっと自分がしてしまったことに気がついた。


じっと私を見る彼の目が、恐かった。
彼の音を止めてしまったことが悲しかった。

何かを言われるだろうか。
もうここに居ては駄目だといわれるだろうか。

たくさんの不安が私の中に渦巻くのとは裏腹に、彼は何事もなかったように、また鍵盤に手を乗せた。

奏でられた音は、よく聞く合唱曲。


「綺麗な声だね」


それは、まるで歌っていいよといわれているような気がして。
私は彼の音に、声を重ねた。

彼の手によって生み出される音。
私はその音に、自らの思いをすべて乗せて歌を紡いだ。


彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ずっと音を奏でてくれて。
だから私も歌を紡いだ。


彼の音に重なる私の声。
こんなに綺麗な音色があるなんて知らなかった。

私の知っているあらゆる音を、彼は綺麗に塗り変えてしまった。
歌が音に溶ける様を、私はまざまざと見せ付けられた。



寂しそうだった彼の顔が少しだけ和らいで見えた。

自惚れてもいいだろうか。
彼の孤独を変えたのが、私なのだと。





彼の隣で歌をうたうことが日課になっていた。
音の溢れる空間で、彼の音に耳を傾けるだけの時間もあれば、彼とともに音を奏でる時間もあった。

音と音が溶け合うこの瞬間が好きだった。

彼のピアノを見つめる姿が、綺麗だった。



私は彼のピアノを弾く姿しか見たことがなかった。
出会いは音楽室で、それ以上でもそれ以下でもなかったから。

彼の隣に座ることが出来たから、今度は彼のことがもっと知りたくなった。

たくさんの質問を投げかけると、彼はピアノを弾く手を止めた。


「ずっとピアノばかり弾いていたから」


そう言って彼は困ったように笑って、私が口ずさんでいる曲を弾き始めた。

彼は知らなかった。
流行の曲も、流行の遊びも。
人とのふれあいも、人との接し方も。
この閉ざされた空間の外さえも。
ピアノだけが彼のすべてで、その音すべては彼の中の感情そのものだった。

彼の奏でている曲は、そんな世界に入ってきた私という音色なのだ。





私は彼の手を掴んでいた。
虫の音がうるさくなりかけた夕暮れに、初めて彼と一緒に音楽室から出た。
行くところなんて決めていなかった。

ただ彼に、私の知っている彼の知らないものを見せてあげたかった。


こんなにも美しい世界が外には広がっている。
それを、彼に伝えたかった。


小さな高台で、彼と一緒に夕日を見た。

青い空に滲む緋色。
鮮やかな緋色は空を埋め尽くして、そして私達も染め上げた。


初めてこの手を繋いだのだということも気がつかずに、彼は私の手を握り返して。
ただじっとその様を、息を呑んで見つめていた。


彼のその横顔に、私はそっと歌を紡いだ。
彼が音を奏でられない代わりに、そっと。

これが何の歌だったのか、よく覚えていない。
けれどいつか、見上げていた音楽室から聞こえていた音に似ていたような気がして、私は彼の手をしっかりと握った。

いつもと変わらない彼の横顔が、泣いているように見えた。

だからこの空の色が褪せるまで、私は歌い続けた。
彼が振り返ってくれまで。



彼が私を見つけてくれるまで。



そのとき、私はあなたが好きなのだと思い知った。




「好きだよ」







世間に疎いあなたのために、私はいろんな話しをした。
いろんな歌をうたった。

あなたはそれに合わせて伴奏をつけてくれる。
あなたが勝手に作ったものだから随分おかしかったけれど。
でもあなたがそんなことをするとは思わなくて。

私は笑った。

あなたも笑ってくれた。


たくさんの表情を見せてくれるようになってくれたあなたは、もっとたくさんの音色を見せてくれるようになった。

寂しさだけを奏でていた指は、他の表情も見せる。
私は喜びの声を乗せた。





「綺麗だね」



あなたは、やっぱり照れたように笑った。




溢れているたくさんの音を聞かせてあげたくて、あなたの手を引いて音楽室を出た。

街に溢れる音を、あなたと一緒に聞いた。

たくさんのものを、あなたと見た。

あなたの奏でる音と私の声は、街の雑踏にかき消されてしまったけれど、あなたはとても生き生きとしていた。

殺伐とした風景が、あなたといるだけで変わった気がした。


「綺麗だね」


その言葉が何に向けられたのかは分からなかった。
私は、ただ笑った。




「こんなに綺麗だなんて、知らなかった……」



また、音が変わった。

あなたの音が変わっていく様が綺麗だった。







音楽室に新たな人の訪れがあったのは、あなたの音と季節の変わり始めた、そんな矢先だった。


閉ざされていたはずの空間に聞こえた、歓喜の声。

耳障りに響いた扉の音に振り向けば、見知らぬ人が立っていた。

あなたの音に、たくさんの人が引き寄せられていた。

私の歌声は突然遮られた。
知らない音が、音楽室に混じった。


二人だけだったはずの部屋には人が溢れるようになった。

あなたの音に、たくさんの人が気がついたのだ。


求められるようにあなたは音を奏でる。
訪れた人たちは、それに聞き入った。


あなたの音が心地いいことを私はよく知っていた。
誰よりも早くそれに気がついて、あなたと出会ったのだから。


あなたの音が知られることがとても嬉しかった。
閉じ込められてばかりだった音が放たれたような気がしたから。


けれど、寂しかった。







私のために奏でられていた音。
それが無くなった。

音はたくさんの人のために奏でられて、たくさんの人の心を埋めていく。


あなたの横顔が遠い気がした。


たくさんの人に囲まれて奏でられるあなたの音を、私は知らなかった。
だんだんと彩色を増すあなたの音。

私が変えたんだと思っていた。
けれど、そんなことは全然なかった。


あなたの音は変わっていく。

たくさんの人の訪れを受けて。

私の知らない音が奏でられるたびに、音楽室を訪れた人たちは拍手を送った。
私は苦しかった。

あなたに向けるべき笑顔が、分からなかった。


あなたが振り返る。
私の声が聞こえたのだろうかと思った。

けれどあなたはまたピアノを弾いた。

私が知らない音を奏でるあなたが、また遠のいた。



ここに閉じ込められている音を解放してあげたかった。
もっと彼の音を誰かに認めて欲しかった。

はじめは私だけが知っていた音。
誰も聞いていなかった音。
それが人に知られて、私だけの音ではなくなった。

それが嫌だった。

いつの間にか、わがままになっていた。

あなたの音は、私だけのものであって欲しい、と。





「あなたの音が好きなんだ」





ささやいた声は、あなたの奏でる知らない音にかき消された。

あなたの音はこの部屋の中いっぱいに、知らない人たちの心に響く。
けれど私の声は響かなかった。
届かなかった。


届かない声が、私の中に渦巻いていたものを溢れさせた。








「こっちを向いて」

あなたの音を邪魔するように鍵盤をたたきつけた。




「もっと構って」

振り向いてと音を遮るように叫び声を上げた。




「私のためだけに、音を奏でて」

私の知らない音を、知らない色を奏でないで欲しかった。




あなたの為に紡ぎ続けた音が、壊されていく。





苦しい。
助けてと叫ぶけれど、あなたは気がついてくれない。
新たな音をかなで続けるあなたの音は、私にとっては苦痛だった。

あなたと聞いた音も、あなたと見た風景も、全部色あせていく。

あなたと居ることが幸せだったのに。

あなたと居ることが苦痛になった。


あなたの音を聞くことが楽しかったのに。

あなたの音を聞くことが辛かった。






ああ。


これが、恋の結末なのだとようやく分かるようになった。






人が去った音楽室で、あなたは音を奏でる。
いつもと変わらない姿で。
私の知らない音を。

まるでそこに居る私なんてしらないみたいにその音は空気に溶ける。

綺麗な音色だった。

でも、私は嫌だった。




「もう、ここに来ないね」

あなたの指が止まった。
途切れた音は、あなたの感情を表しているような気がした。


「あなたの音を聞いていることが辛い」


あなたの音を聞くたびに私の何かが壊れていく。
もうそんなの耐えられなかった


「だから……」

あなたは振り向いてくれない。
私がどんな顔をしているのか、見ようともしてくれない。





「さようなら」








私は音楽室から逃げるように駆け出した。


最後の言葉をかけたときのあなたの顔は、見なかった。
見ることが出来なかった。
あなたがどんな顔をしているのか、知りたくなかったから。

悲しんでいるのか、それともいつもと変わらないのか。
どれを知ったとしても、私は耐えられなかったから。



声を上げて泣いた。
あなたと初めて一緒にいった小さな高台で。
あなたが綺麗だといってくれた歌声は、泣き声にしかならなかった。

紡ぎ続けたかった。
あなたの隣で、あなただけの歌を。

音と音が混ざり合う瞬間が好きだった。
あなたが好きだった。

でも、あなたに伝えたかった音が見つからなかった。
変わっていくあなたに、私の変わらない声が届かなかった。

ただそばに居られればいいという思いは、いつの間にか大きくなって。
伝えきれない思いが、ただ溢れた。



溢れ出た思いが綺麗なものであればよかったのに……。


すべてがわがままばかりだった。



ただ気がついてほしかっただけだった。
あなたの為に、私は歌を紡いでいた。
あなたの為に、私はたくさんの景色を見せてあげたかったのだと。


でも、もうこの声は届かない。

思いは紡がれることは無く、ただ涙とともに流れた。



夕日が沈むころ、私はすべての音を遮るように耳を塞いだ。








ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【全文ver】You and beautiful world 【小説書いた】

2年前に投稿したYou and beautiful world(http://www.nicovideo.jp/watch/sm10745754) の動画小説の全文です。
動画用に表現を切っていたところを盛り込んだりしてます。

掲載許可くださったゆよゆっぺさん(大変遅くなりました)、動画を沢山見てくださった方々ありがとうございました。

上の→を押すと続きが見れます。

閲覧数:285

投稿日:2012/06/15 15:32:48

文字数:5,660文字

カテゴリ:小説

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